第十一話、或いは剣と天秤の檻
ウィリングに半ば引きずられるようにやってきたリュートを見ると、ダレンはにっこりと微笑んだ。「よろしくお願いしますね」と。
リュートはその笑みの裏に何か隠されていやしないかと訝って、笑い返すことができなかった。
アステラは一度もリュートを見なかった。
そのまま無事に【
道中の村落で、ダレンは荷馬車と、それに積み込むための毛織物や家財道具や葡萄酒の樽なんかを調達していく。冬に向けた準備に忙しくしていた村人たちであったが、ダレンが金銀銅貨をちらつかせると家中をひっかきまわしてダレンの前にあれやこれやを並べ立てた。
母親にどやされて緊急の大掃除に巻き込まれた幼い男の子は、リュートの足をポンポンと叩くと、その手に乾いたじゃがいもの欠片をぎゅうと押し付ける。リュートは困ってダレンに視線を投げると、ダレンはにっこりと笑って、少年に小銅貨一枚を投げて渡した。
その他にもダレンは村人の差し出したもの一つ一つに丁寧に謝意を述べ、破格とも言える金を支払った。厳しい冬の備えに代えてもお釣がくる臨時収入を手に入れて、村はちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
しかしながら、荷馬車を引く肝心な馬が見当たらない。アルジェイドの山村の多くは、秋には馬飼いに馬を売り払ってしまい、また春になったら買うのが習わしで、その馬飼いも今は何処に居るのやら、馬を売ったのはもう七日も前になると言う。
「野生の馬たちなら、いないこともないがね」
村人はすまなそうに言うが、調教を経ていない畜生では馬車を引くことはままならない。しかし、馬の足でなければ、囚われの魔導士エディオモスよりも先に【
立ち往生かと思われたそのとき、アステラの姿が消えていた。
姿を消したアステラは、日没の頃に戻ってきた。その背に一頭の雄の馬を引き連れて。リュートは、その馬の目に星の光を見た。随分と疲弊した様子のアステラは、荷馬車にのっそりと上がり込むとそのまま横になって眠ってしまった。黒毛の馬はぶるる、と快活に鼻を鳴らし、大人しく荷馬車に繋がれた。
結局、村人総出の見送りを背に受けながら、一行は村落を後にすることになった。
「あまり目立つことは避けた方が良いんじゃないか?」
「……まあ、大丈夫でしょう。それよりも関門を突破することに専念すべきです。そのためには商人を装うのが最も簡易で、かつ効果的ですし、幸いにも、私はニサでは行商として知れていますから」
確かにダレンの首の銀鎖には翼の生えた靴――商人の証が印字されたメダルがぶら下がり、同居している親指の爪大のオパールとぶつかって、時折リンリンと小さく鳴った。
この頃になると、リュートのこころの底を
そうして今は、霧の記憶も二日前のものになってしまった午後の金色の内側。
馬と馬車とを手に入れた一行の足取りは軽い。明日、明後日には【
影、光、影……と続く道のりに目を細めながら、リュートは馬車の荷台の上に座っていた。右足は車輪に当たらないように畳んで左の腿に乗せている。その左の足は投げ出しているので、路傍の野草が爪先に触れる度にぶらぶらと揺れた。手首に巻き付いている縄はだらりと力なくうねりながら荷台から身を乗り出し、地面に擦れて泥遊びをしてから翻り、リュートの傍らに座るウィルのベルトに括られている。リュートの紫水晶を秘めた眼窩はぼんやりと定まらず、視線は午後の深まりに緩い放射線を描いていた。
ここはもうアルジェイド卿の統治する最北の地であり、《
「ウィルさん。退屈で死にそうです」
小刻みな荷馬車の揺れに呼び起されてくる眠気と代り映えのしない景観に対する飽きが臨界点に達したリュートがそう言えば、ウィルも欠伸交じりに応えた。
「んー、じゃあおもしろい話でもするか?」
「わお」
ウィリングの意外な提案に、リュートはだらけきった身体を少し伸ばす。
「実はこの前、身体の真っ白な犬を見たんだがな――」
「うん」
「ふさふさした大きなしっぽの先まで白かったんだ」
「はい、それで?」
「……終わりだ」
「は?」
「……尾も白い話、だ」
「……」
「……」
沈黙の隙間を、馬蹄の軽快なリズムと車輪の刻む轍の声、積荷がぶつかって奏でる合唱が満たしていく。鳥が紺碧の空を渡り、鋭く一声鳴いた。視線は上げないまま、リュートはそれを聞いた。何の鳥だろうか。リュートには知識がない。その鳥の影がリュートの身体にぶつかる速度に驚いて顔を上げると、すでに枝葉の向こうに消えていた。
目に映る世界の端には猪喰い熊の毛皮があった。正確にはそれに身を包んだ小さな人だった。彼女は「あれ」以来、リュートと目を合わせようとしないのだった。リュートの方もまた、アステラに不用意に近づくことは
荷馬車は揺れながらリュートを乗せ、アステラを乗せ、運んでいく。『案内人』でなくなった今、自分がこの一行の中で何者であるのか。兎にも角にも、人に名を伝えたのは久しぶりの事だった。
隣の大男をそっと見遣ると、彼は微かな寝息を立てていた。ウィルは言った。「運命がお前を選んでいる」と。なるほど、確かにあの時、リュートは抗いようもない大きな力に足を掴まれたような気がしたのだった。いや、もっとずっと前から、掴まれていたのかもしれない。
「見えましたね。【
遠く、地平を歪める丘陵の果てに、二つの巨大な塔が見える。あれが世に名高い【
そこには何が待ち受けているのか。まだ、それを知る人はいない。
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