第十話、或いは名を教えること






 眼窩を螺旋する鈍痛で視界は二重にぶれている。瞬き四つ分の間、リュートは自身が覚醒したことに気が付かなかった。両手は背面に拘束され、黒々とした雷樹に寄りかかるような形で座らされている。泥を舐めて空へと躍り上がる白い霧が、この場所がまだ【霧閉ざす森エズディア】であると告げていた。


「痛むか? 悪いことをしたな」


 瞳で声を手繰れば、ウィリングが長剣を突き立てて腕組みをしているのが見えた。リュートがもたれている樹の根のひとつが地面へと潜り込むちょうどその位置を、左足の爪先で小刻みに叩いている。「悪いな」という言葉とは裏腹に、彼は薄ぼんやりとした笑みを浮かべていたのでリュートは少し腹が立った。


「けどな、『案内人シーカー』。お前は見ちゃいけないものを見た」


 続くウィルの言葉で、リュートはつるぎ座を振りぬくアステラの姿を思い出した。彼の紫水晶の瞳の縁に、星が巡った。アステラは魔女だった。星の魔導師だったのだ。

 ウィリングが長剣の柄を両手で握りしめ、泥濘から抜き取る。ジャッと空を切り裂いて汚れを払われた刀身は、霧で散りばめられた光のために輝いてはいなかったが、そのために切れぬなまくらと化しているとは万が一にも思われなかった。思わず心臓が跳ねて、耳が熱くなる。頭蓋の内側がジーと命への警告を歌い出す。

 美しいとさえ感じられる所作で得物を下段に構えると、ウィリングは静かに喋った。


「魔導士とその一行、考え得る限りで最も邪悪な犯罪者集団だと思わないか? ついこの間も、魔導士の暴動で何人も人が死んだ」

「……」

「俺がお前なら、すぐに密告して絞首台送りにしてやろう、と思うだろうな」

「ちょっと、待ってください。雇い主を密告した『案内人』なんて、路頭に迷うだけじゃないですか」


 リュートは慌てて弁明するが、ウィリングは鼻で笑う。


「魔導士の首は金貨二枚。知らんはずないだろう。それだけあれば、ゆっくり次の仕事を探せる」


 ウィリングのロングブレードがどれほどの破壊力を秘めているかを、リュートは知っている。手の枷に力を入れるが、もちろん解けそうもない。心臓の鼓動があまりに大きいせいで、リュートは自分が何を言っているのかもよく聞き取れない。


「俺たちの目的は、囚われの身となっているある魔導士を助け出すことだ。俺たちに協力するか、それともこの場で剣の錆になるか、決めろ」

「……協力?」

「『秘密を共有したいなら、共犯者か死者に限る』ってのはダレンが言っていたことだ。一理あるだろ?」


 問答無用で殺されることはない、とほっとする暇もなかった。魔導士をかくまった者は、魔導士と同じ刑罰の対象だった。八つ裂きか火炙りか、はたまた犬に生きたまま喰われるか。そこは審問官の匙加減ひとつであったが、いずれにせよ、その命と同様に尊厳を踏みにじられる惨めな最期は約束される。


「どっちにしろ悲惨ですね」リュートは悲痛な笑みを浮かべた。どちらを選べども碌な死に方はできない。リュートは己の断たれた首が、霧の中で誰にも見つけられずに朽ちていくのを瞼に見た。それに、彼は一度だけ見たことのある魔導士の処刑――「火炎フレイム」と呼ばれる毒によるものだった――も同時に思い出していた。「こんなの理不尽ですよ」


「理不尽か。そうだな」


 ウィリングは言葉に鋼を混ぜていた。肯定の意味を持つはずの声音は、一切の温度を喉に忘れてきたようだった。

 その後には沈黙があった。しかし静寂はなかった。枝が二十も唸り、風が百は歌った。そして霧は数えきれないほど二人の男の頭上で螺旋した。


「……協力します」リュートは呟くような声で、やっと言った。


 罪を抱えながらでも、生きる術はなくはないのだ。


「でもこれは、僕が選んだことじゃない。選択肢なんてなかった」

「よかったな。運命の方が、お前を選んだんだ」


 ウィルは、今度は本心からそう言っているように思われた。それが返ってリュートを苛立たせたが、ロングブレードが鞘へと収まる際の鋭い鳴き声が、彼に口をつぐませた。


「救出目標の魔導士は【金冠の都アスビル】から【天秤と剣の檻グラム】へ護送されているところだ。首を吹っ飛ばされちまう前に追い付こうとすれば、お前を雇うしかなかった。運が悪かったな」


 ハーフオーガは右の腕をリュートの脇へ差し入れると、片手のみでひょいと立ち上がらせた。リュートの腕の拘束を一旦解いて、次に身体の前側で結びなおし、垂れた余りの先端を己のベルトに結わえた。その間、リュートはただじっとしていた。

 リュートを共犯者へと仕立て上げるための準備が済んでしまうと、ウィルはわざわざ足を折ってリュートに目線を合わせた。リュートは自分の紫の瞳が、透明な金色のまなこに沈んでいくのを見ていた。


「おい、お前の名前を教えろ。お前はもう、ただの『案内人シーカー』じゃ無い」

「……じゃあ、僕は何なんですか?」

「それを今、俺が聞いているんだろう」


 ――僕は。その先の言葉が、霞んで霞んで分からない。【霧閉ざす地エズディア】の深い霧が、耳の穴から、鼻の穴から入ってしまったのかもしれなかった。伏せていた瞳を上げると、まだ、金の獅子の目があった。『名前だ。お前の名は?』と。問いかけは眼光として、リュートのこころに形をくれる。今ならば、それに触れられるような、そんな気がした。


「リュート」


 ウィリングがにやりと笑う。


「呼びづらくてしょうがなかったぞ」


 一方的にそれだけを告げると、ウィルは踵を返して歩き始めた。リュートはついて行こうとしなかったので、縄はピンと張った。引きずられてしまう前に、リュートは言った。もしもそれでウィリングが立ち止まらなければ、転んで、泥にまみれてしまっていただろう。


「ウィルとダレンは魔導士じゃありませんよね。なのにどうして?」


 ウィルは振り向かなかったけれど、その声が風に攫われてしまうことはなかった。


 「俺は、元々アッティオールの騎士だった。第二師団の副団長だったんだ」


 ウィリングが振り返る。


「エディオモスを捕らえた騎士団だ」

「それって」

「エディオモスは俺の命の恩人だ。騎士団のほとんどが彼に助けられた。あの時、二つ名を持つ影共との戦いで手痛い損害を受け、騎士団は壊滅寸前だった。そこに現れたエディオモスが、その魔法で怪我を直してくれたんだ」


 過去を見るウィルの瞳が怒りに満たされていく。


「その報いに騎士団がしたことが、足枷と手錠だった」


 ウィリングは、ハードレザーの胸元を撫でた。そこには何かを引きちぎったかのような痕がある。


「信じなくてもいい。実際、そんな話を信じた奴は誰もいなかったしな」

 

「ダレンについては俺もよく知らない。だが俺は、俺の信じるものを信じたいと思ったからここにいる」それから付け加えてウィリングは笑った。「お前はどうだろうな?」







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