第八話、或いは影共
影が交錯する。
リュートを噛み潰すはずだった牙が地面で一度撥ね、「ッガ」というおよそかわいらしさとは縁のない悲鳴を上げてから、リュートは己の描いていた運命が書き換えられたことを悟った。
長剣を振りぬいたウィリングが吠える。
「呆とするな、『
ウィリングのハードレザーの肩口が裂けている。奴とリュートの間にほとんど割り込むような形だったのだろう。豪傑なのか、バカなのか。取りあえずは命を救われた。借りを返すのに苦労しそうだ。
「わっはっは、これ着といて正解だったろう?」
「あ、ありがとう」
リュートは言うことを聞かない四肢を全力で動かして立ち上がると、近くの石柱の裏に身を投げる。見れば隣の柱には、ダレンとアステラがすでに退避していた。ダレンは今、まさに弓に矢を番えている。
ウィリングと一対一となった狼大の獣は唸りながら立ち上がる。腹に大きく裂けた傷が二つ。ウィリングが切りつけたというのだろうか。彼の戦士としての技量に感嘆する。だが、おかしい。あれだけのケガで立ち上がるというのはもちろん、血が見えない。
どういうことだ? リュートは眉根を寄せる。あれではまるで――。
「
ダレンがリュートの胸中に浮かんだものをすくい上げるように呟いた。
奴はビクン、と一つ脈打つと、その姿形を変容させ始める。身体が膨張していき、顔面が萎えていく。あっという間に顔のない熊が出来上がった。と思えば両の肩にばっくりと裂け目が現われる。口だ。ざらついた牙が覗いている。一つは狼に、もう一つは人に似ていた。
「この化け物が」
ウィリングが吐き捨てる。その名の所以となった深黒の肉体に、もはや傷は見えない。幼児の描く絵画のような歪な顔面が、さらに歪んだ。
笑っているのか?
リュートは背骨を駆けあがる氷の粒を感じた。
「--------!!!」
老人と赤子を臼で挽いてからもう一度固めなおしたかのようなもう一方の頭が「グギャギャッ」と喚いて、シャドウズは地を転がった。断たれた傷口から、肉体と同色の塵が零れて霧を黒く染める。
「今のは痛かったようです、ねっ」
ダレンが漲った弓の弦を解放する。緩やかな風に鼓動する水煙を穿って飛んだ矢は、黒い身体の表面で硬質な音を響かせて弾かれる。「えっ、硬!?」と思わず漏らしたのはリュート。――というかウィリングはどうやってあんなのぶった斬ってんだ?
「懲りん奴だ」
ウィリングは緊張から滴る汗をぬぐえずに長剣を構えなおす。力の伝動を阻害しないように、全身は敢えて緩める。地面の振動から感じられる圧力は一撃必殺の重低音。どっ、どっ、どっ。己の心音と重なっていく感覚。噛み締めた唇の端から呼気を噴出しながら、ウィリングは瞼を上げて――この時初めてウィリングは己が目を閉じていたことに気が付いた――迫る敵の姿を見た。
一歩分の間合いを詰める。それに伴う体重の移動、筋力から生じる
ぐじゃあ、とおよそ生物の身体が立てるとは思えぬ音と共に両断された肉体が床の上へ落ち、終幕――
「ぐっ」
とはいかなかった。
「……終わったぞ」
リュートは、終わってしまえば短かった闘いの余韻に呑まれ、座り込んだまま今だに呆けていた。
――何もできなかった。
だというのに、当のウィリングはけろりとした顔で治療を受けている。幸いにも傷は深くはないようで軽く消毒と傷口を保護する布を一巻きするのみで済んだようだった。
ウィリングがハードレザーの裂けた部分を撫でながら「いやあ、これがなかったら腕がなくなってたかもなあ」と言うので謝ろうとしたリュートだったが、ウィリングの顔に浮かんだ底意地の悪い表情に急遽語彙の選択を変更。
「オーガって再生能力あるんでしたよね?」
「そりゃあ
ごつん、と鈍い炸裂音。
拳骨を落とされたリュートの顔にも、拳骨をくれてやったウィリングの顔にも、しかし笑みがあった。ちなみに「……オーガの部分は否定しないんですね」とダレンも苦笑していたことはウィリングには秘密であろう。命のやり取りを終えて弛緩した空気を、それぞれが味わっているのだった。
リュートはと言えば、緊張が張りつめていた部分に無力感が忍び込んできて、膝に上手く力が入らない。薄笑いで誤魔化しながら、それでも何とか起き上がったリュートは、落とした溜息が霧に混ざって床を這うのを見ていた。己は「
逆風に向かって立ち、唯一無二の力でもって称えられる英雄。御伽噺に出てくるのは、いつもそんな勇者たちだった。己に対する嘲りが、笑みになって唇を曲げた。憧れなどはもう捨てた。ただ、幼い時分の感情は、役割を終えた風車のように、それでも風が吹けば回るものだ。こころを止めることはできない。ならば、産み落とされた感情に、いちいち墓標を立ててやらねばならない。
一人、アステラだけはいつもの冷めた貌で掌に乗せたもの――赤い小石の耳飾りを眺めていた。これといった加工も施されず、原石をそのまま耳に着けられるようにこしらえられていて、一目で素人の作であることが分かる。アステラはそれをそっと指で包むと腰の雑嚢にしまった。
さて、一行は霊廟を抜け、さらに奥まった場所へと足を進める。食堂と思しき広間を横目に客室の居並ぶ廊下を進む。開かれた窓や壁の裂け目、ありとあらゆる間隙を穿って滑り込む水煙は、絶えることなくリュートたちの行く手を阻んだ。決して重いはずのないその霧に、まるで身体を押し返されるように感じる。
ああ、時間だ。リュートは気付いた。この場所では時間の感覚が狂う。太陽の光がぶれて、濁ってしまうから。ここは置き去りにされた場所なのだ。茫漠とした意識の淀みにたゆたう、そんな抽象的な思考を、リュートは首をぶんぶんと振って払い落とす。重要なのは、もっと具体的なことだ。――空を巡る
その一定の流れを追ってきたリュートは、早めに外へ出たかった。屋内では己の指針を取りづらい。
両開きの大扉を開けると、開けた空間に出る。
「舞踏場、か?」
ウィリングの言に、ダレンが短く笑う。
「ドワーフの短い足で、それは難しいでしょうね。彼らは楽器作りの名人であると同時に屈指の奏者でもあります。
なるほど、舞台に向けて椅子を並べれば、立派な劇場になるだろう。リュートがダレンの博識と洞察に感服していると、二階、三階と設けられた展望から、「何か」が跳躍した。着地の音が背骨に響く。
素早く剣を構えたウィルを鏃に一同が対峙する。背を伝う汗を、これほどまでに冷たいと感じたことが、リュートにはなかった。舞台の側へと追い詰められる形だ。出口はリュートたちが入ってきたものを合わせて二つ。それらはいずれも黒い獣たちの背後にある!
蠍に似た先頭の一匹が、歯列を剥き出しにして吠える。リュートならば一飲みにできそうな深淵が、その牙の向こうから、揺れることなく覗いていた。
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