第七話、或いは霧の大地






 目に入るのは「白」だけだ。己の足が踏みしめているはずの地面も、背嚢から伸びるロープから伝わってくる三人の存在も、視覚からは消え失せてしまっていた。

 「見えない」ということが、これほどまでにこたえることだとは思わなかった。この世界のなにもかもから置き去りにされたような錯覚が、脳みそにこびりついて中々剥がせない。それは多分、己の内側から来たるものだからだ。早朝から吹き始めた冷たい風が、凍り付かせてしまったかのようだった。時折この身体の底から来る震えが、寒さのためなのか、はたまた孤独のためなのか、リュートには即座に答えが出せないのだった。


 とは言っても、この風には感謝しなければならない。霧に濃淡が生じて精神的にラクであるのはもちろん、リュートが導にしている湖秋ミラスカの魔力も、ずいぶんとなっている。


「しっかし、すごい霧だな。まったく前が見えないぞ」


 一行の間に濃霧と時を同じくして立ち込めていた沈黙を、ウィリングがようやく破った。もっとも、視界の塞がれる世界にて敵の存在を確認できるのは耳をおいて他になし、と皆に閉口を促したのも彼自身であったが。


「そうですね。確かに想像を凌駕する濃度です」

「どうしてこんなに霧が出るんだ?」

「諸説ありますよ。まあ、元々霧が生じるのは異なる魔力の衝突が原因ですから、どの説もどうしてこの場所に魔力の衝突が生じるか、と言う部分が焦点になりますね。詳細は後で文献に当たるのが良いでしょう」


 ウィリングとダレンの会話に耳をそばだてていたリュートは、なるほど、と一人頷いた。


「確かに魔力が複雑に巡っていますね。芽春メリィ嶺夏デイプリーカ剣冬ブレード翼冬シルヴァリオス。少なくともこの四つを強く感じます」

「そういえば、お前はそういうのがわかるんだったな」

「……そうじゃなかったら、『案内』なんて務まらないですよ」


 リュートは苦笑した。誰の引くロープを握っていると思っているのだ。もしかしなくても何にも考えていなかったに違いないが。


「四つもですか。それは興味深いですね」


 ダレンがなぜか嬉々とした声を出した。


 魔力とはすべてのものが持つ力のことだ。その総数は八つ。古いエルフの考えによれば、神の創った秩序はより多くの魔力を持つもの上位とした階層構造ヒエラルキーを形作っているという。よって、八つすべての魔力を有する空、海、大地は彼らの信仰の対象なのだという。逆にたった一つの魔力しか持たない植物たちは、永遠の奴隷なのである。

 すべてダレンのそらんじたことだ。


 ただ、そんな会話も長くは続かない。声すらも、のたうつ霧に食べられてしまうかのようだった。実際は最低の視界の中で進むのに精神を費やさねばならないことに起因するのだろうが、身体を抱きしめては去っていく白い風たちへの気味の悪さは拭い難い。昨夜、耳にしたあの猛り狂った咆哮の主が、いつ現れてもおかしくはない。濃い霧の奥から、今にも襲い掛かってくるのではないか、という漠然とした不安が、絶えず心の臓に貼り付き、手先足先の細かな血管を詰まらせていくようだった。


 そう、結局、昨夜は何事もなく、一行はこうして【霧閉ざす地エズディア】の白い領域へと足を踏み入れているのだった。


 幸いなことに、ダレンが一度つまずいて転んだこと以外はこれと言った問題も生じず、雷樹種の黒い森を抜け、リュートたちはそびえる城壁に辿りついた。

 端正に切り取られた岩の塊が隙間なく積み上げられたその壁は、見上げれば首が折れてしまう。彫り込まれた彫刻は苔類の浸食のためにその全貌を知ることは叶わないようだった。一定の間隔で通用のための出入り口が穿たれており、防衛面については期待されていないことがわかった。霧によって苔たちに金剛が結ばれていく。その露だけが、門番の役割を果たそうとして、時折虚空へとその身を手放していく。

 不満気な貌をしていたウィリングに、ダレンが笑って「元来、ドワーフの王侯たちの別荘として建てられたそうですよ。城とは言っても、要塞というわけではなさそうですね」と言った。

 リュートは空の彼方を流れていく魔力を頼りにして方角を見定め、歩いていく。ひねこびた樹木の根に歪められた門扉、霧の流動のためにまるで呼吸しているかのような回廊、元々は美しい庭園であったのであろう場所は、崩れた石材やかしいだ石像が濃霧の内側から突如として姿を現し、一行の息を詰まらせた。

 建物と建物の間に架された橋を渡っている途中、リュートは眼下に城壁の微かな影を見て取る。風が霧を薄めている部分だ。


「あそこを過ぎて、まっすぐ行けば良さそうですよ」


しかし、えてして障害とはこのような時に現れるものである。


「おい、こりゃあ、なんだ?」

「……おそらくは大規模な野営、その残骸といった所でしょうか」


 ウィリングが素っ頓狂な声を上げたのは、リュートたちの行方、橋を渡り切ったその建物の内部に、人の営為が浮かび上がってきたからである。毛布を敷き詰めただけの借りの寝床に焚火の痕跡、何かもわからぬ作業の跡。だが近寄って見てみれば、いずれもそれほど古くない。何者かが、ここに居たのだ。それも大勢。

 石柱の隊列が続く霊廟。屋内にもかかわらず霧は濃い。かつて火の入れられていたであろう祭壇は、そのシルエットを見え隠れさせるだけだった。頭上の大窓から落ちてくる光は、生まれたての朝のように弱々しい。

 ダレンは顎に手を沿わせて何事か思索している様子だったが、それも束の間、にっこりと笑った。


「彼らがここに居たのはおそらく角秋トゥロのことでしょう」


 ひとまず危険はなさそうだ、とリュートは胸を撫でおろした。人数差で言えば、到底勝ち目がないはずだ。


「こんなところで何をしてたんだろう」

「ま、そりゃあ、俺たちにも言えることだろ。先を急ぐぞ。こんな不気味なところに居座る気にはならん」


 ウィリングが口角を上げた。それもそうだ、とリュートは頷きを返して、己の後ろを道とすべく歩き始める。が、アステラが動かなかった。一点を見つめている。リュートは不審に感じて、彼女に声を掛けようとしたその時、視界の端で何かが動いた。


「おい!!」


 警告はウィリングのもの。だが手遅れだ。それはすべてを平らげる白の中で褪せることのない黒。影。闇。リュートに見えたのは、殺すための牙。


 ――終わった。


 ひどくゆったりとした時間の中で、しかしリュートが脳裏に翻した言葉はそれのみであった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る