第六話、或いは絶叫






 さて、残念ながらリュートの思惑は外れ、一行が目にした【霧閉ざす地エズディア】の舞い上がる濃霧は、西の地平線――アルジェイドから脈々と続く気高き連峰に半身を沈めた陽光によって、鮮やかな金色に渦巻いている。一行の野営の支度は、呪われた大地を着々と進行しているのであった。


 この遅延の故となったのは、意外にも屈強な肉体を持つウィリングである。


「さっさとその重たい鎧を脱いだらどうですか、ウィルさん」

「ええい、うるさい! お前が道案内なら俺は護衛だ。武装を解けば任務に差し支える」

「ウィルさんのせいで遅れたんですよ。本当だったらもう少し先までは行くつもりだったのに。これからの行程に障りがあったらどうするんですか」


 【霧閉ざす地エズディア】はドワーフたちの作り上げた古城だ。建築物としての機能性はもちろんのこと、その様式の美しさにおいても一切の妥協を許さない彼らの性状からして、内部は尋常ではない複雑な構造をしていることは疑いない。

 取りあえず急いでおくに越したことはない。ちょうど四日後の夜には【剣と天秤の檻グラム】に着くというのがダレンたちの要望。こちらはそれを果たすための努力をしているのだから、応えてもらわねば困る。あとでズレてしまった旅程を逐一検討し直さなければならない。


「その件はさっき頭を下げただろうが。すまなかったと思っている。だが、これからは平坦なのだろう? 心配するな、遅れはとらん」

「朝にもそれ言ってましたよ」

「ぐぐ、……いや、朝は俺が傲慢だった。だが、次こそ言葉を違わぬ。この剣に誓おう!」

「そういうことを言ってるんじゃないです。この分らず屋の半巨人ハーフオーガ!」

「誰がハーフオーガだ!?」


 ぎゃあぎゃあと喚く二人の傍らで、ダレンはいそいそと野営の支度に取り掛かっていた。雨除けのために蝋を引いた帆布を背の低い木々の枝葉に屋根代わりに架しただけの簡素なものだが、いやはや歳かな、随分とくたびれる。一つの完成に腰を叩き叩き、さてもう一つと振り返れば、リュートとウィルが喧しい口論はそのままに見事な連携でたちまち小屋掛けを作り上げようとしていた。

 にやり、とダレンは自身の口角が歪むのを感じる。案外、良いコンビなのではないだろうか。焚火のために渇いた枝を拾い集めていたのだろうアステラは、獲物を地面に放るとやれやれ、とお手上げの合図をした。


 白隼しろはやぶさが高く空に謳う。霧はかすかにここまで流されてくる。じきにすべてが夜闇に包まれるだろう。平行線の舌戦に疲弊したリュートは、むっつりと懐からライターを取り出した。内部に発火装置ともぐさが仕込まれていて、簡単に火種を作ることができるのだ。


 大した間もなく、小さいながらしっかりとした焚火が立ち上がる。気付けばウィルとダレンが明かりを囲んで座り、揺れる炎が三人分の影を気ままに踊らせていた。空気は抱く冷気をいや増し、焚火の熱が心地よい。風がないことが幸いだった。


「あれ、アステラさんは?」


 リュートが尋ねれば、ダレンは苦々しく笑う。ウィリングが小屋掛けの一方を顎で指した。リュートは片手をついて立ち上がると、小屋掛けまでを一歩二歩三歩。覗き込めば、アステラは頭と足を内側に折りたたんで丸くなり、毛布を被って隅に転がっていた。


「アステラさん、これからご飯ですよ」

「……もう、食べました」


 アステラは寝転がったまま、こちらを見もせずに答えた。


「え、でも――」

「眠いから、寝ます。ほっといてくれて構いませんので」


 にべもない返答に、リュートは仕方なく焚火へ戻ろうとして、「あの」と呼ぶ声に振り返る。つま先があっちへこっちへ忙しい運動をした。アステラは丸まったまま、頭を覆っていた腕の拘束を緩めて、こちらを窺っていた。ぼんやりとした瞳が、青く、こちらを見ていた。


「どうしたんですか?」


 リュートがそう問うてから、アステラはゆっくりとした呼吸二つの間、黙っていた。沈黙に小さな罅を入れたのは、小さな声。


「褒めたつもりでした。もしも傷つけたのなら、謝ります」

「……えっと、なんのことです?」


 突然の謝罪にリュートは困惑する。謝ってもらうようなことをされた覚えはなかった。それを見たアステラは、ほっとしたような、うんざりしたような、手負いの獣のような貌をして、もう一度腕の中に己を閉じ込めてしまった。


「……何でもないです」


 天幕の前でリュートが所在なげにしていると、アステラの右手が「あっちへ行け」と震えたので、リュートはすごすごと焚火へ戻ろうとした。そこで、ふと己の顔つきについてアステラと遣り取りをしたことを思い出した。――もしかして、それを今までずっと気に病んでいたのだろうか。リュートは、なんだかそっと笑い出したいような気分に駆られて、思わず口元を手で隠した。かなり言いにくそうにしていた。怒っていると思ったのだろうか。


 リュートが焚火の光の中に戻ると、ウィリングは無駄な努力をご苦労さん、という表情(少なくともリュートにはそう見えた)をしており、ダレンは残念そうに肩を落とした。


「彼女は卓を囲もうとしないんですよ。まあ、我々にはどうしようもないことですが」


 ダレンが食料を炎の側に置いた。いずれもタゼンの葉に包まれており、あとは火を通すだけで食べられるように手が施されたものである。


 軽やかな音と共に炎の精霊が澄んだ夜色へ飛び立っていく。リュートはそれを目で追って、果てしない星々の世界へ飛び込んだ。男神の振るう槍の下をかいくぐり、異形たちの足音高らかな南の果てまで滑っていく。男神を騙しおおせた蛇使いがその笛の楽を響かせる西の空では、その音の美しさに聞き惚れて男神と同じ顛末を辿りかけた。兄の窮地に駆け付けた女神の強弓が夜空を切り裂かなければ、危ないところだっただろう。男神に試練を与えた森の主は、地平に接する空の星々を統べていたが、リュートには優しく何事かを語ってくれた。もっとも、リュートに聞き取れる言葉など一つもなかったが。さて、リュートと旅を続けていた火の子らも少しづつ消えていき、ついに最後の一人がサヨウナラを告げたとき、リュートは大地へと真っ逆さまに落ちて、ほう、と息をつけば元の焚火の傍。ウィリングが白い煙の立つ食事を一つ、リュートの前に置いたところだった。


「ずいぶん熱心に空を見てたな」


 ウィリングはそう言うと自身もまた空を仰いだ。


「ほう、今日は『女神が弓を放つ日』か」

「それは幸運ですね。街に居ればここまではっきりとは見えなかったでしょう」


 狩猟の女神座の中核、十八星の一つである穂先星から南の空へ次々と星が流れていく。湖秋ミラスカのおよそ四十日のなかでも三日あれば多い方だとされるその現象を、街を照らす煌きから遠ざかった場所で、こうして見上げる人間は決して多くはないだろう。三人はしばし天に奔るいくつもの軌跡を眺めていたが、「おっと、料理が冷めてしまいますね」というダレンの声を合図に食事を始めた。


 タゼンの葉を開くと、もうもうと立ち上る湯気。豚肉を生姜と大蒜にんにくを細かく刻んで辛味噌と混ぜたものに和えてある。出立の朝方、酒場の厨房を借り受けてリュートが用意したものだった。

寝ぼけ眼の主人に銅貨を握らせて、リュートは日持ちのするいくつかの食事を揃えておいた。徒歩での行軍であれば持ち出せるものはかなり減ってしまう。畢竟、食事は乾物を支度して荷の逼迫を抑えるのが通常。しかし、それではあまりに彩りに欠けた食卓になってしまう。旅程だけに気を使えばいいリュートだからこそ、幾分か嵩張る物でも都合ができる。仕事は完璧に。シーカーは、身体だけを導けば良いと言うものでもないだろう。誰かにとっての自分は常に交換可能なものなのだ、という信念が、リュートを完璧主義へと駆り立てていた。

最善を企てることは、延命処置に他ならない。


 ピリリと鼻腔を刺激する香りが、身体を巡って胃を叩く。肉を刺し貫いた串を指先でつまんで持ち上げれば味噌と脂が滴り落ちて、辛抱たまらんと齧り付けばじゅわり、と広がる旨味と辛味。ただしあまりに熱くて無言になるし、味噌が垂れないように四苦八苦する。お上品とはかけ離れた料理だが、おいしいのだから誰も文句を言わない。

 リュートは唇の味噌を舐め取ると、ダレンの方を盗み見る。それにしても上手く食べるもんだ、と感心していたのであった。ウィリングなんかは獣よろしく貪っているというのに。


その後は他愛のない話が取り留めもなく、荒野の端に灯る一つの焚火の周りを火の粉とともに気まぐれなダンスを踊ったのみだった。


「おい、『案内人シーカー』! 最初の不寝番を決めるぞ」

「え、ウィルさんでいいじゃないですか。一番体力ありそうだし」

「護衛の仕事は明日が本領。なにが起こるかわからないからな。体力を温存しなきゃならんだろう」

「それは僕も同じですよ」

「ダレンやアステラに任せるわけにもいかんだろう」

「……おかしいな、オーガは夜行性という話を聞いたことがあるんですけど――」

「コロス」

「わあ! 冗談ですよ、じょうだ――あ、ちょっ、首絞めるのはだめ、うげげ」


 これから眠るというにはやや喧しさに過ぎるそのやり取りは、しかし、なんの前触れもなくこのささやかな宴へと飛び込んできたものによって閉幕する。


 それは獣の咆哮だった。


 温み、幸福、勇気、およそそういった類のものを厭い、鋸刃の如くこころに突き刺さる絶叫。その傷口からじくじくと漏れ出す不安や恐れを舐めて喜ぶ嘲笑。耳障りな声が夜を揺らしながら、霧の大地から一行へと降り注いだ。


「……なんだ? 今のは」


 ウィリングが剣の柄にその手を沿わせたまま、低く唸る。先程までのふざけ半分の態度はどこへやら。闇の先、見えない敵を射抜く眼光は槍の穂先。あまりの変貌ぶりにリュートは驚いてへたり込んだままになっていた。


「かなりの隔たりがあるように聞こえましたね。今すぐ襲われるという心配はないはずです」


 ダレンはどこから取り出したのか、弓に矢を番え、緊張した面持ちだった。

 ウィリングが取りあえずといった様子で身体を弛緩させた。腰のベルトから長剣ロングブレードを鞘ごと引き抜くと切っ先を地面に突き立てる。ウィリングの金色の双眸が、暗闇を薙いだ。


「やはり、今夜は俺が番を務めようか」






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