第五話、或いは旅立ちは青い空の下で






 岩や礫が重なるようにしてできた斜面を、リュートは振り返って見下ろす。吹き降りる強風に毛皮の防寒着がもがくように震えて、唇の隙間から薄い白がこぼれる。視線の先には、リュートの導く道筋を忠実に辿る三つの人影があった。


 ダレンはお馴染みの灰色のローブに背嚢を負い、羽根つき帽を腰紐に吊っている。歩調はゆっくりだが、淀みはない。誰かが疑問を口にすれば、それに簡潔で的確な答えを用意するのは彼の配役だった。それにもしも名を付けようと言うならば『仕切り役リーダー』といったところだ。

 ウィリングは重厚な革鎧に大きな背嚢を持ち、さらには帆布を丸めたものをそれに縛り付けていた。腰に佩いた長剣ロングブレードも歩きの障りになっているように窺えたが、彼は決してそれを手放そうとはしない。彼の持つ『護衛ガード』の矜持がそうさせるのだろう。


 すでに太陽は東の空に高く、神が戯れに千切った雲が端々に懸かるだけの快晴だった。


 リュートは左の手に提げている袋からマーズベリーを2,3取り出して、彼の立っている岩に転がしてから踏みつぶす。時折こうして目印を残しておかなければならない。誤った場所を踏めば、最悪この坂の最下部まで転がり落ちてしまう。


 そんなことをしている内に、先頭の一人がリュートに追いついた。羽織った猪喰い熊ボアキラー製の耐寒ローブが鬱陶しいのか、彼女はほんの少しだけ冷めた貌をしていた。否、そういう表情の目立つひとなのだ。彼女が防寒着についた頭巾を取ると、銀糸の髪が風の祝福に踊る。


 昨日の夜、郊外の丘で出会った少女が、ダレン、ウィリングと連れ立って朝の静けさに包まれた街の三角広場にやってきたとき、しかしリュートは驚かなかった。彼女からは銀木犀の香りがしたのだから。少女――アステラの方は、幾分か驚いていたかもしれない。


 リュートは、彼女にも『名』を宛がおうとして、ほんの、少し、迷った。


「アステラさん、ここを登り切れば【霧閉ざす地エズディア】の南端に着きます。一旦、そこで休憩を取りましょう」

「了解しました」

「水分補給はちゃんとしてますか? 細目に摂ってくださいね」

「……わかってます」


 アステラは、返事をしたにも関わらず目の前の青年がじっとこちらから視線を外さないのを見て取って、降参降参、と両手をひらひら。背嚢から取り出した水筒は、たしかにほとんど減っていなかった。冷たい水を胃の中に落とせば、血肉の内側に広がっていく波紋。流動する水の余韻が、思ったよりもずっと渇いていた身体の端々に広がっていく。

 彼女が横目でリュートを見やると、彼は満足げに頷いた。自分でも気が付かないような些事にまで気を配っているあたり、余程できる『案内』なのだろうか。アステラは思案する。人の往来が絶えて久しい道なき道を、後続の導となるべく先を往きながら、かつ「アステラが水分をあまり摂っていない」というような些事にまでそれとなく気を張っておく。万人に為せるか、と問えば答えは否であろう。このような道行にも、どこか慣れた風があった。


「……呆とした顔をしてる割に、しっかりしてるんですね」

「えっ、さらっとひどいこと言いますね」


 リュートは傷ついた仕草をしてみせる。温和な面持ちに関しては何度か揶揄されたことがあって慣れっこだったが、美女に言われるとまた一味違う切れ味になるものだ。きょとんとしているアステラに「まあ、情けない顔なのはホントですからいいですけどね」と負け惜しみをぶつけて、後ろの二人の位置も確認する。ほとんど距離もなくなった。


 ――さて、行こうか。

 リュートは再び歩き出した。


 今朝、街を発ってから数刻はトラン領の主都【最古の港フィラルデ】の方面へ街道に沿って歩を進めた。深緑、薄緑、オリーブ、と度合いの様々な緑をはじめ、鮮やかに色づく草木、フェアリースノウにブルーカルチア、草林檎といった湖秋ミラスカを飾る花々が丘陵を染め上げており、リュート一人の道行ならばおそらく歯牙にもかけなかった光景たちが一行の言葉を温めた。というのもダレンの博識が、何ということもない路傍の野草たちを不思議に満ちた生命ある存在に変えていったからである。


 さて、途中で人の踏み入らぬ領域へと舵を切り、陰鬱とした巨木の森を抜け、年若いヌーラの河に出会い、しばらくの間道行を共にした。とはいっても両者の進む方向は真逆であったが。ヌーラはこのまま流れ流れて老成すれば、ニサとトランの境を成す一本の線を担うことになる。その森で一度野営をして朝を待った。


 そうして現在はヌーラに別れを告げ、見渡す限りの岩と砂利、灰褐色の味気ない景色の中を進んでいた。峠を一つ越えれば、もう【霧閉ざす地エズディア】の端に足がかかる。

 ただし安定した足場を探りながらの行軍で、道筋は蛇行する。エズディアを拝むのは、太陽が西の空へと傾きはじめ、夕暮れの気配がかすかに立ち込める頃合いになるだろう。今日はさらにもう少し先まで進むつもりだった。野宿は水煙の只中で行うことになるはずだ。リュートはこの先に待つ霧隠れの大地を想い、踏みしめる足により一層の力を込めた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る