第四話、或いは夜空と少女






 街の広場は盛況だった。もうすでに太陽が沈んでいるにも関わらず、あちらこちらの光と喧騒は渦を巻き、夜を跳ね返さんとしているかのよう。店の中よりも外の方が余程明るい。街道の脇に連なる軒たちは、自身の門前を少しでも見栄えの良いものにしようと画策して燭台に火を入れ、角灯ランタンに油を差し、燃え盛る商魂が目に見える光明として夜を粉々に砕いている。

 一際大きな燭台の前で若い男女が踊り、それを見た楽士たちが調子を合わせ始める。すでに酒の魔力に侵された親父どもも拍手喝采、輪に混じろうとしてひっくり返り、杯と笑いとが宙を舞う。鶏に逃げられた鳥飼の悲鳴を合図に、親切心か泥棒心か数人の男がそれを追い、その一人の肘が当たって酒がこぼれた、と怒鳴るのは鍛冶屋の旦那。投げた酒瓶は運命の逃避行を続けていた鶏のそばで粉々になり、足を止めてしまった彼の運命やいかに――。


 リュートは、「この場で最も静かな人」の称号を胸に、己の仕事について物思いに沈んでいた。


 昏い闇に染まる天蓋には、星々の気配。湖秋ミラスカの天に画かれるのは、兄妹神の冒険譚の一幕。二柱の神が南方に現れた数多の怪物を相手取り、夜空は激しい戦いの様相を呈している。

 普段通りの穏やかな夜で、だからこそ、思索はよく巡った。


 先程、【金牛亭ゴールド・ブル】にて面会を果たした二人のことが頭をよぎっていた。一体、何者なのか。分からなかった。結局のところ、詮索は御法度だという結論が脳裏を旋回するだけだ。自分の命に値を付けたくなければ、余計なことに首を突っ込まないこと。無知が守る命もある。

 耳を撫でる街の「語り」も、日常の気だるさと温みを帯びている。


「おいおい、エミリーとの件はどーなったんだよお」

「それがよ……」

「あちゃー、こりゃあ、まずいことをきいちまったかね」

「大成功だああああん!!」

「……かーっ、こりゃ一本取られたあ! 飲め飲め! ぎゃははは」


 傍目には何が面白いのやらわからぬところが、酔っ払いの厄介なところなのだろう。リュートは苦笑して、腰を下ろしていた路傍から立ち上がった。


 歩く。歩く。口笛交じりに闊歩する。夜風に混じる湖秋ミラスカの鼓動は冷たく。


「ついこの間、やっと西の四聖の後釜が決まったらしい」

「へえ、誰なの?」

「ま、けっきょくは智の神殿の推薦が通った形だ」

「とゆうと、ハク様ね。んー、あんなことがあった後だもの。戦力になるかどうかが重く見られるのは妥当かしらね」


 歩く。歩く。喧騒は緩やかに凪ぐ。


「錫杖の騎士団がまたお手柄だとよ」

「聞いたぜ! 二つ名影共シャドウズの次は大物魔導士だろ? すっげえよなあ」

「俺の息子も将来騎士になるってうるさくてよ」


 歩く。歩く。裏路地は、夜に呑まれて黒かった。


「おいおい、酒の一杯や二杯、まけてくれてもええだろう!」

「お前が飲んだのはきっちり七杯だ。串焼きだけはサービスしてやる。それ以上はなしだ」


 言葉と言葉の重なりは、遠ざかるほど掠れて輪郭を失い、今では小さな潮騒のように耳たぶを柔らかく食んでいるだけ。この街は商人、旅人の憩いの場。宿屋が生計を立てるのにこれ以上の場所も少ない。ぼんやりとした灯りが照らし出すのは宿屋の連なり。眠る者は床へ、眠れぬ者は広場へ。そんなわけで静かな場所だ。

 ぶらぶらと宿屋の通りを抜けたのは、そのまま歩きながら考え事でもしようと思ってのこと。明日からの緻密な予定を組まなければならない。糧食と水の目処を立てて、地図で全体的な経路を確認しなければ。どこで野宿をするのかを決め、進度を調整するための中間地点チェックポイントを設定しておけば、予定と実際の行程のズレが把握できる。――いや、どうせなら休憩する地点と同じにしてしまおうか。


 リュートが足をこの街の高台、郊外の丘へと向けたのは全くの偶然。否、もしかすると天空の「狩猟の女神座」が番える穂先星に導かれてのことだったかもしれない。

 道中、リュートはふと足を止めた。罅割れた石畳に白墨で描かれた子どもの落書きが、目に入ったからだ。勇者の一行と思われる数人と化け物が一匹。英雄譚の一幕なのだろう。拙いながらも素朴な絵だ。けれども、それだけだったなら、リュートは足を止めることはしなかったはずだ。

 片膝を突き、指先で軽くなぞったのは醜悪な怪物の絵。その手に握られた杖だった。


 ――魔導士なのだ。これは。


 腕が四本に足が三つ。そのすべてに鋭い爪があり、口には牙が覗く。見開かれた瞳は血走り、頭上では稲妻が幾条も散っていた。

 魔導士。その異能の故に、人々から「生まれながらの罪人」として疎まれ、恐れられる人々。彼らは、祝福されるべき誕生の日を持たない。腰を上げ、リュートは再び歩き出した。彼の貌に浮かんだ表情は、微笑に似ていた。


 辿り着いたのはなだらかな上り坂。丘は死装束に身を包んだ野草の群れに覆われ、空の弧に懸かった月に照らされてほの白く輝いていた。背を押すように吹く風が歌になる。その頂まで到達したリュートがぎょっとしたのは、こんな夜更けにこんな場所に来る物好きは自分くらいのものだと勝手に思い込んでいたからだ。


 けれども、丘の上にはもう一人いた。


 何を見ているのだろう。星か、月か、その隙間を満たしている闇なのか。見えるもののそう多くはない中で、なおそれが捉えているものが何なのか――悟らせない瞳は蒼。ゆったりと座ったまま、動かない。月虹を織って作った髪は短く、時折の風に揺れている。その度ごとに、銀木犀の香りがリュートの鼻腔を満たした。


 ――懐かしい。

 何故そう感じたのか。それはリュート自身にも分からないことだった。遠い記憶の薄片が、こころの表面で、優しく溶けた。そんな気がした。


 月の淡い光は、風に溶けてゆったりと地上に落ちてくる。夜の露に濡れた小さな花弁のような光が、少女を形作っていた。この風が少しでも強くなれば、夜の中に散らばってしまうのではないか。そんな滑稽な思いつきが真実味を帯びるほど、少女は儚い。眩しくはないのに、まっすぐに見つめていると瞳を焼かれるようだった。

 背筋はまっすぐに、しかし力む様子もなくただぼんやりと座っている。まるで「世界」という書物を繙こうとして、この場所に来てしまったかのように見えた。ゆったりとしたまばたきで、その頁をめくるのだ。


 夜風四つか五つ分の沈黙を、破ったのは彼女の方だった。やってきたなり自分を見つめて黙り込む男に、正当な違和を感じたらしい。


「なにか、用ですか?」

「あ、いや」


 リュートは自分でも驚くほど、答えに窮した。


「てっきり、だれもいないと思ってたから、驚いたんだ」

「……わたしも、誰か来るとは思いませんでした」


 言いながら彼女は立ち上がって、ズボンの汚れを払った。それから両手を組んで、伸びをした。しなやかな曲線に、リュートはドキリとする。


「なんか邪魔しちゃったかな?」

「……邪魔?」

「ほら、なんか、真剣そうだったから」


 少女は、ほんの少し唇の端っこをと緩めて、辺りをきょろきょろと窺った。そして放り出されていた木靴に足を滑り込ませながら、口ずさむ。


「夜は誰のものでもない。あなたがわたしの邪魔になることなんてありえません」


 少女はそのままリュートとすれ違った。丘を後にしようとする彼女から、リュートは目を離せなかった。美しかった。だからだったのだろう。振り向いた彼女と目が合ったのは。


「……椅子があったとして――」


 「え?」とリュートは思わず聞き返していた。なんて言ったんだ? 予想だにしない単語が含まれていたせいで、頭が混乱した。そんなリュートに、彼女はまた、と涼やかに笑った。――もしかして、馬鹿にされてるのだろうか?


「一つの椅子があったとして、疲れ果てているわたしとあなた。二人とも喉から手が出るくらい休みたいとしたら、どうしますか?」


 質問の意図がつかめずに戸惑うリュートに、彼女は依然、その蒼を真っ直ぐに向けていた。どうやら割に真摯な問いであるらしかった。


「えーと、二人で座ればいいんじゃないかな」

「……椅子は一つなのに?」

「ああ、そうだよ。でも、片方が立ってるなんて、なんか、嫌だしさ」

「じゃあ、椅子には一人しか座れない。そういうルールがあったら?」

「ええ? ……だったら、二人とも立ってたらいいよ」


 


「あなた、女の子に席を譲らないんだ」


 そう言いながら、けれども彼女は少しだけ満足そうに見えた。


 淡い唇からはばたく言の葉が、黙り込んだ夜の底で、風に吹かれてさざめいている。リュートにはやはりその意味をはっきりと理解することは叶わなかったけれども、たとえ彼女の諸々の言葉がどのように組み合わさったとしても必ず指し示すような、彼女のすべての声の根底を貫く感情の源泉に、リュートは目敏く気が付いていた。


 それはどうやら『祈り』であるらしかった。


 彼女が放つ言葉、その取捨選択がどうであれ、それが結実すればそのすべては祝詞になる。岩山の石を一つ一つ別の石に変えてもそれが山であるように、海を杯で少しずつ入れ替えたとしても海が残るように、彼女が夜の空に向けて放つ声の集積は、ひたすら『祈り』になるのだ。


 じゃあ、一体何を祈るというのだろう?


「君は――」


 リュートがそう言いかけたときには、少女の背中は下りの道の半ばにあった。声の欠片は、微かな夜風にすら流されていくような小さなものだったので、どうやら、彼女には届かなかったようだった。






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