秋
虫の声 (三人称進行)
中秋の名月は過ぎた。いつが中秋の名月なのかわからない内に、お月見シーズンは終了した。
なんとなく店先を見ているとそれっぽい和菓子やディスプレイがされていたりもするので、気づく時は気づくが、たまたまそういうものを目にしていないとそうなる。
いずれにしても、街灯りの方が強い都会では、月を愛でるには少し空が明るすぎる。
「なんか、暗くなるのが早くなったよな」
午後六時。秋葉はすっかり暗くなってしまった空を見上げながらふと気付く。
ほんの一か月前はまだこの時間は灯りがなくても歩けたし、そもそも街灯が自動的に点灯していなかったのだから実際、明るかったのだろう。
午後からテンションを上げてくる夜型悪魔の遊びに付き合わされた結果、その日は少し時間外にはみ出して、魔界の大使館を出ようとした矢先だ。
「秋の日は釣瓶落としっていうもんね」
忍が言った。
「つるべ落とし」
「井戸で水組み上げる桶のことだと思うよ。あれくらいの勢いで落ちて暗くなるってこと」
生きている時代は同じはずなのに、博識というか雑識が相変わらずすごい。井戸自体、画面の向こうにしか見ることもない秋葉はそれでも想像にこぎつけて「へぇ~」といつもどおり感心する。余計な雑学、いや、この場合は日本人としての語彙力がひとつ増えたというべきか。
「天気いい日はまだいいけど、今日みたいな日は大分肌寒くなったよね」
「森は夏物をもうすべてしまっていた」
これは司。森は一緒に暮らしている双子の妹の名前だ。忍の友人で割と共通項があるため
「私もこの間の日曜、すべて封印した」
みたいな行動のシンクロが起こることがある。
「封印」
「だって寒いよね? 半袖はもう無理だよ。虫の声だって大分弱々しくなってるし……大丈夫なのかな。今から鳴いててちゃんと伴侶見つけられるのかな」
優しさにしては優しすぎだろうと言われて小さな虫の音に秋葉も気づく秋葉。公館の庭は広大で緑も多く、敷地外とも壁で区切られているため街中より静かだ。
「虫の音か……そういえばそんなことを気にしたこともなかったな。よし、どうせ遅くなったんだから今から虫の音を聞く会でも風流に開催してみるか」
「なんでお前出てくんの? オレたちもう帰るところなんだけど」
「出かけようと思ったらお前らが玄関先でぼんやりしているから、相手をしてやろうと言っている」
相手をしてやってこの時間になってしまったのはどっちだと思っているのか。
ぼんやりしていたわけでもないのに、いつのまにか後ろに立っていた魔界の大使ことダンタリオンが強引に何かを始めそうな気配がする。
「そもそも虫の声って夏聞きながら涼むような話じゃなかったっけ? やったことないけど」
「小さい時に住んでたアパートが一階角で庭でよく鈴虫とかコオロギ鳴いてた気が」
「お前、都内生まれだよな? 庭で鈴虫?」
「親が放したんじゃないのか」
十分あり得る、とうなる忍は小さなころから都会の割とど真ん中の方で自然に触れていたようだ。
「そうじゃなくても気が付くと街角でも街中でも色んな所で鳴いてるよ」
「言われてみればそうかもなー 何の虫だかわからないけど植え込みとか」
指の先ほどの小さな虫たちには大草原でなくとも小さな茂みでも十分生きていけるのだろう。そういえば、茂みがなくても室外機だとか何かの隙間から声が聞こえるなんてこともよくある。
「ところで虫の音を聞きながら涼むのはわかったが、具体的には何をするんだ?」
「お前、それ知らないの? 知識の悪魔なのになんで知らないの?」
いつもは「これ知っているか?」みたいな切り口の多いダンタリオンからのまさかの疑問。つい、聞き返してしまう。決して今のはつっこんだつもりは半分しかない。
「完全に圏外だからだ。今からオレの知識の書に詰め込んでもいいが、お前ら日本人なんだから聞いた方が早いだろ」
圏外ってなんだ。
その理由は続くダンタリオンの言葉からすぐに明らかになった。
「虫の音を『声』と認識してるのはお前ら日本人とポリネシア人だけなんだよ。だから虫の声を聞こうなんて発想は、他国には存在しない」
「え。……マジ?」
「マジだ」
当たり前のように聞こえる虫の声。季節をすこし外した今だって多くの虫たちがあちこちで、それも多種多様な声を奏でているのはわかる。
むしろ……
「じゃあ他の国の人って、虫の声がどんなふうに聞こえてるんですか?」
当然の忍の疑問。日本人として、たぶん一億人くらいは同じことを聞きたいだろう。
「ただの雑音」
「どうしたら雑音に聞こえるんですか」
風流な鈴を鳴らすような音、転がすような音、弦を引くような音、名前の通り「鈴虫」なんて名のごとく美しい音を奏でるからこそつけられた名前だろうに。
驚く前に「え」となりそうな答えに、司さんも間髪なく聞き返す事態だ。
「お前ら日本人は左脳の言語中枢で『声』として認識している。一方で欧米、アジア圏内……いや、もうポリネシア人とお前ら以外って言った方が早いな。そいつらは右脳で生活音みたいな雑音としてしか認識してないんだ。脳の使い方の違い」
「なんでそんな脳の使い方の違いがそもそも生じるんですか」
「忍、話が専門分野に入りそうだからそこまでで」
右脳を使う方が情緒豊かな感じもするが、左脳で聞いているから虫の声が声として聞こえて、それを判別できる、というのは不思議な感じだ。
こんなに風流な声が声として聞こえていないのか。他の国の人たちには。
残念なような、日本に生まれて良かったというべきか。
いずれ、自分たちにとっては「当たり前」なことが世界的には「当たり前じゃなかった」なんて外を知らなければわからないことだ。それはとても大事なことであるのだろうに。
「それを聞いたら、私も少しここで聞いていきたい」
「そうだな。すごく貴重な体験だったんだな。で、虫の音を聞く会って何するの?」
「知らない」
風流に行くなら野点をしたり琴、尺八などの純和風な演奏でも聞くことだろうか。
一般庶民なら縁側に出てスイカとか食べるのが江戸っ子っぽいのかもしれない。
残念ながら、もう十月のとっかかり。今日の天気からして肌寒い。スイカも出回っていなければ野点やってる場合じゃない。
「とにかく温かいものを。お茶会がいいです」
「そうだな。要するに虫の音を風流らしく聞ければいいわけだからな」
司もあきらめたように遠い目になりつつ同意を示している。
「それって夜版・ピクニックでなく?」
「東屋にティセットを用意させよう。灯りは控えめで、虫の種類と方角を一番多く言い当てたやつに何かご褒美をやるか」
「なんのお楽しみ会なの。魔王様の戯れか何かなの? その条件だと忍がやる気出して一番優位になりそうなんだけど」
「すでになってる。割と聴覚はいい方だと思うし、楽しみだ」
司を見る。諦めのため息。夕飯の時間に突入しそうだが、もうここでそれくらい出してくれれば問題ないとはきっと思っている。オレもあとから消費する時間を抑えるためにぜひそうしてもらおうと思う。
「コオロギ? 一番たくさん聞こえるの」
「そう言われるとオレ、どの虫がどの声か良く知らないよ。ギーギ―言ってるの何」
「日本人はスイッチョンなんてどこから鳴き声の発想出てくるんだ? 面白すぎるだろ」
「それは俺たちの方が聞きたいです」
そんなことをしている内に。
「随分賑やかだね」
アスタロトが合流し。
「忍ちゃん、差し入れ持って来たよー」
いつから連絡を受けていたのか森が合流し。
マツムシって何? ウマオイって? クツワムシが外見丸ごとわからない。
みたいな昔の唱歌話も持ち上がり、とっくに短くなってきた秋の夜長を、今更ながらに堪能するいつもの面子。
折しもビルの合間から月も顔を出す、十月の十三夜の夜の出来事だった。
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