第30話 食べる喜び
「約束の物は用意出来たんだろうな」
十分遅れで現れたドネルの顔を見た瞬間、僕は自分がいかに考えの甘いお人よしであるかを思い知った。
ゴマ粒みたいに小さな厭らしい目は、邪な考えを隠す気もなく勝ち誇っていて、ブフがどんな料理を出そうと関係なしにけちょんけちょんに貶してやろうという思惑が透けている。
不安になってブフを見ると彼は心配ないさと笑った。
「勿論ですよ。今日の為に最高の食材を用意しました」
「当たり前の事を偉そうに言うな」
「おいジジイ、二度と物の食えない口にしてやろうカ?」
腕まくりをしてランカが前に出る。
「ランカ」
ブフが止める。苦笑いにはこんな馬鹿の相手をしても仕方がないというような達観が浮かんでいた。
「やれるものならやってみろゴロツキめ。こちらの方はワシの友人で勇者署の副署長だ。貴様が暴力を振るった瞬間豚箱送りにしてやる」
ドネルには連れがいた。ブフと同い年くらいの人の良さそうなおじさんで、安っぽいスーツのせいでうだつの上がらない木っ端役人にしか見えない。
「まいったな。行きつけのお店の試食会があると言うから来たんですが」
困り顔で頭を撫でると、おじさんは名乗った。
「七番署で副署長をやっています、ダスティン=コバックです」
ドネルと違って悪い人じゃなさそうだけど、勇者官と言われるとちょっと身構えてしまう――仲が悪いとは言わないけど、勇者官と冒険者は揉める事が多い。
「一人増えたくらいで料理が出せないとは言わんよな?」
生ごみみたいな薄笑いでドネルが言う。
断りもなしに人を増やすのはルール違反だと思うけど、ブフは笑顔で対応した。
「大丈夫ですよ。でも、次からは事前に連絡を下さい」
ドネルは不愉快そうに鼻を鳴らして勝手に空いている席に座った。周りを見回して顔をしかめる。
「このわしと味比べをするんだ。貸し切りにするのが礼儀だろうが」
ブフの包丁は本日も通常営業で、席はほとんど埋まっている。こっちは商売だし、こんな奴の為に貸し切りにしてやる義理はない。僕もいい加減頭にきたけど、ブフは相手にしないで厨房に引っ込んじゃうし、隣のランカが今にも飛び掛かって八つ裂きにしそうな顔をしてるから冷静になる――自分よりも怒ってる人が近くにいると冷静になる理論。
「ランカさん、ここは堪えて」
「……わかってるネ」
僕達も空いてる席に座る――これで満席だ。
程なくして、ブフがベラジオ火山の溶岩石をくり抜いたようなごつごつした石の深皿をドネル達のいるテーブルに並べた。同じ物をウェイトレスが僕達のいるテーブルに運んでくる。
「ご予約いただきました、
「おい。どうしてゴロツキ共に同じ物を運んでいる」
こちらを睨んでドネルが言う。向かいに座るダスティン副所長は顔を手で覆って精一杯他人のふりをしようと頑張っている――無理があるし知人なら叱って欲しい所だけど。
「あなたの為にわざわざ危険を冒してベラジオ火山の火竜を狩ってきてくれたんです。折角なので彼らにも食べて貰おうと思いまして」
ドネルのクリームパンみたいに太った手がテーブルを叩く。
「無礼物が! わしの舌をゴロツキ共のバカ舌と比べるつもりか!」
「そんなつもりはありませんよ。他のお客様の迷惑になりますから、騒がないで下さい」
口調は穏やかだけど、ブフの声には最後通牒的な圧が込められている。ブフは温厚だけど、決して甘ちゃんというわけじゃない。全然そんなんじゃない。むしろ、間違った事に対しては僕なんかよりずっと厳しい人だ。
ブフが怒らないのは、味比べを言い出してしまった僕の顔を立てての事だ。そうでなきゃこんな奴、襟首を掴んで裏のゴミ捨て場に放り込んでいる。そう思うと、余計な事をしてしまった気がして心苦しい。
「ハルは間違った事してないヨ」
「……なんでみんな僕の考えてる事がわかるんですか」
黒猫亭の大人達はみんなそうだ。普段はお茶らけてるくせに、僕が落ち込んでいるとすぐに気づいて声をかけてくれる。
「ハルの顔、分かりやすいネ」
面白がるようにランカが笑う。自分ではポーカーフェイスの部類だと思っていたんだけど。
ともあれ、鈍感のドネルでも流石にこれ以上騒ぐと不味いと思ったのだろう。ふん! と鼻を鳴らすと、つまらない物を見るようにシチューに視線を向ける。さて、どうやって難癖をつけてやろうか。そう思っているのが丸わかりだ。
僕はドネルがなにを言い出すか気が気じゃない。
「ハル。ブフの料理ネ。あんな奴の事気にしてたらもったいないヨ」
「……ですね」
そうだった。この料理は僕達の為にブフが作ったんだ。今の僕達はただのお客さんもである。食事の時は食事を楽しむ――たとえ酷い失敗をした後だとしても。それもブフが教えてくれた心得の一つだ。
両手を合わせると僕は竜骨から削りだしたスプーンを握る。でも、すぐには食べない。料理は舌だけじゃなく、目や鼻でも楽しむものだ。
火竜の心臓シチューは見た目はビーフシチューに近い。色は黒に近い茶色で、大きめに切った若火竜の心臓と一緒に色んな野菜が煮込まれている。溶岩石の器と合わさってベラジオ火山を溶岩溜まりを思い出させる。
香りは複雑だ。ニンジンや玉ねぎや色んな野菜を煮込んだ甘い香りに、赤ワインのカラフルな香り、バターや蜂蜜の香りも感じる。特徴的なのは野焼きを思わせる煙のような薫香がする事だ。
あっと言う間に口の中がびしゃびしゃになり、僕はたまらずシチューをすくう。
「「ん~~~~~っ!」」
僕とランカは同時に呻って顔を見合わせた。
やっぱりブフは凄い。これを食べたらどんな食わず嫌いの人でも魔境料理に対する偏見を改めるだろう。
コクがあるのにさっぱりしたルーは、マグマみたいにドロドロなのに舌に触れるとさらりと溶けて、口いっぱいに広がる香りが脳天まで駆け抜ける。
思わず僕はその場で何度も深呼吸をした。本当に美味しい料理は香りだけでも十分楽しめる。吸って、吐いて、吸って、吐いて。複雑な香りは光の当たり具合で色を変えるビロードみたいに姿を変えて飽きる事がない。
たった一口、それもルーを少し口に入れただけで、ベラジオ火山まで狩りに行った僕の苦労は報われてしまった。料理が美味しいのは当たり前。その先に驚きや感動があるかどうかが大事だというブフの言葉を僕は全身で再確認する。
遅れて、僕のお腹は猛烈な空腹感に襲われた。もっと欲しい、もっと食べたい! そんな飢餓にも似た衝動を僕は必死に堪える。だって、そんなに急いで食べたらもったいないもん!
そう思うけど、一度動き出したスプーンは止まらない。野菜はごろりと大きく切られているけど、たっぷり丁寧に煮込まれたせいで舌に触れると自ら溶けるようにして崩れていく。
そして僕はお待ちかねの若火竜の心臓にスプーンを向ける。
正直僕は少し不安だった。だって先に、幼火竜のハツ刺しを食べてしまったから。どんなに美味しい物でも、似たような物を先に食べてしまったら美味しさや驚きは半減だ。ブフの料理は間違いなく美味しいだろうけど、期待値が高くなりすぎて、勝手にがっかりしてしまわないか僕は心配だった。
全くの杞憂だったけど。
僕はブフが怖くなった。だって、同じ心臓なのに――幼体と若体の違いはあれど――まったくの別物だったから。幼火竜のハツ刺しはいかにも赤み肉という感じで、生で食べる分にはすごく美味しかったけど、煮込んで美味しい食材には思えなかった。
とんでもない! 世界中を探したってこんなに煮込みに合う肉は存在しない! そう確信してしまうくらい若火竜の心臓は美味しかった。他の野菜と一緒でごろごろとしっかりした形がある。舌に触れてもそれは同じで、旨味と共に溶けたりはしない。驚きは噛んだ時にやってきた。もったり、そう表現する他ない不思議な触感があった。柔らかいけど柔らかすぎず、確かな歯ごたえがあるのに物凄く柔らかい。噛む端から肉汁がしみ出して、歯茎やほっぺに吸い付くような不思議が食感がある。その癖、舌で軽く押すと極上の角煮みたいにほろほろ崩れて、雪のようにしゅわりと溶ける。あまりにも儚い味に、もう一口、もう一口とスプーンが止まらない。
気がつくと溶岩石の皿は空っぽで、僕は皿に残ったシチューを舐めたい衝動と必死に戦わないといけなかった。
「夢のような時間だったネ……」
「最高でしたね……」
温泉に浸かった後みたいにほっこりして僕達は言った。
つかの間、ドネルの事は勿論、ここがどこなのかも忘れていた。自分が誰なのかすら忘れていたと思う。その時の僕達はただ、食べる事を無邪気に楽しむだけの存在になっていた。
それは、物凄く幸せな時間だった。
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