#11 恋人の初めてを貰う。恋人がひと肌脱ぐ。
この頃、よく卵の夢を見る。
大きな卵だ。いったい何が中にいるのか。異質な存在感を放ちながら、それは溶鉱炉の中で鼓動をあげている。
どんな鉄も蜜のようにしてしまう溶鉱炉の中でも、決して溶けない不気味な卵。
それは孵化の時を待っている。
それは「熱が足りない」と僕に訴えている。
バカな。
そんな灼熱のプールに浸かっていながら、なお熱が足りないだと?
十分のはずだ。
現に僕は毎日この溶鉱炉を動かし、新しいものを生み出している。
──お前は何もわかっちゃいない。
溶鉱炉の奥から、卵が語りかけてくる。
何を偉そうに。
中身が何だかは知らないが、指図されるような謂われはない。僕は精一杯やっている。
これ以上、何を求めるというのか。
──違うはずだ。お前が本当に望んでいることは、もっと別にあるだろう。
そんなことはない。
僕はやっと自分の役割を見つけたんだ。
これ以上ないほどに幸せだ。
それでも卵は否定する。
僕の覚悟は、筋違いだと。
──そのままでは、乗り越えることはできない。この過酷な旅路を。だから、もっと、熱を寄こせ。手遅れになる前に。
卵は孵化の時を待ち望んでいる。
その中身が腐る前に、産声を上げて、外に出たいと訴えている。
僕にはわかる。
これは、最後の砦だと。
この卵が孵ったら、きっと僕は、今度こそ……。
一度止めた溶鉱炉。それを再び動かすことの意味を、僕はしっかりと理解していなかったのかもしれない。
自分の中に、いったい何が眠っているのか。わかっているようで、わかっていなかったのかもしれない。
本当の自分を見つけたい、と少女は言った。
もしかしたら、誰もが彼女と同じなのかもしれない。
心の真実の姿を、知っているようで知らない。
人間の本来の姿である裸を衣服で覆い隠すように、誰もが本当の自分を見失ってしまうほどに、心を何層もの殻で覆い尽くしているのかもしれない。
だからこそ、彼女は僕に求めるのだ。
自分の手では破れない殻を、僕の手で壊し、生まれたままの姿にしてほしいと。
* * *
夏はブラウスが透けるから。
そう言って、乃恵はどんなに暑い日でもスクールベストを着た。
初めて乃恵の部屋に行ったときに見た、純白の布のことを僕は思い出す。
「見ていいのは、朝人だけなんだから」
そう口にすることで、乃恵は『自分は彼のものなのだ』ということを実感して、恍惚と酔いしれているようだった。
期末試験も今日で無事に終わった。
空いた午後を使って乃恵の部屋に伺うと、彼女はまだ制服のままだった。
僕が来ると彼女は先のような発言をして、挑発的にベストを脱いだ。
汗で透けたブラウスから、うっすらとライトグリーンが浮かび上がっている。
「ドキドキしちゃう?」
「……そういうの、よせってば」
意識して彼女を見ないようにしながら、僕は画材の準備をする。
「なんだか機嫌悪いですね、先生」
「そう見えるか?」
「うん。テストの出来悪かったの?」
「いや」
一夜漬けの紗世と比べれば、そこまで悲惨な結果じゃないはずだし、自信はある。
ここに来る前に、ちょっとおもしろくないことがあっただけだ。
「家出る前に、ちょっと父さんと揉めただけだよ。ちょうど有給で休みだったから、運悪く鉢合わせちゃって」
「……喧嘩したの?」
「いつもの小言だよ。『期末が終わるなり遊びか?』って」
僕が頻繁に外に出かけていることを、父は快く思っていないらしい。
べつに勉強には手を抜いていない。期末もきっと満足のいく結果を出すだろう。
……ただ、息子が目の届かない範囲で隠れるように何かをやっていることが気にくわないのだ。
「画材持って出かけてるところ、見られちゃってるからな。おもしろくないんだよ、息子が絵描いていること自体。『ラクガキは程ほどにしなさい』って言われて、ちょっとムカついただけだよ」
現実主義の父からすれば、どうして自分の子どもが芸術のような曖昧なものなんかに傾倒しているのか、不思議でならないのだろう。
僕だって逆のことを思っている。本当に同じ血が流れているのか疑問だ。
「まあ、いまに始まったことじゃないから。いちいち気にしてたら身も心も保たないんだけどさ……うわっ」
「家に居づらかったら、いつでも泊まりにきていいのよ!」
僕の話を聞いて、乃恵は瞳をうるうると潤ませて抱きついてきた。
「元気出して? 芸術家って孤高の生き物だもの。初めは周りに理解されないものよね……。でも大丈夫。私はわかってるから。朝人の絵はラクガキじゃない。本物の芸術だって。ああ、朝人。私だけはあなたの味方だからね? もっと頼ってね? もっと甘えてね? というか、もっとお泊まりして愛を育みましょうね?」
「わかったわかった。お気持ちは嬉しいから一旦離れて。熱いなもう」
ここ最近の乃恵は感情が高ぶると、すぐにボディアクションを仕掛けてくる。
男としては役得ではあるが、真夏に差し迫ってきた時期に勘弁願いたい。
「あう。私、汗臭かった?」
「いや、そこまでじゃないけど……」
むしろ好ましい匂いがする、などと言ったらドン引きされ……いや、乃恵の場合、歓喜からまた抱きついてくるかもしれないので口を噤む。
「えっと、私シャワー浴びてくるね?」
さすがに汗に濡れた制服を着たままなのは恥ずかしいと思ったらしく、乃恵は着替えを抱えて浴室に向かう。
「飲み物、冷蔵庫の中から好きなの選んで飲んでいいから」
「ああ。ありがとう」
お言葉に甘えて冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出し、グラスに注いで一気に飲む。
「……ねえ、朝人?」
「ん?」
「……一緒に浴びる?」
とんでもないお誘いに、思わず咽せる。
「あのなぁ、乃恵……」
「べつに、私はいいのに……恋人同士なんだから」
「そうだけど……まだ、そういうことは早いってば」
「じゃあ、いつならいいの?」
「いつって、そりゃ……」
べつにお互いが納得さえすれば、段階なんて関係ないのかもしれないが……それでも、その一線に踏み出す勇気をまだ僕は持ち合わせてはいない。
なので、無難にこう答えるしかない。
「……大人になってから?」
「……意気地なし」
拗ねるように言って、乃恵は浴室へ駆け込んでいった。
* * *
恋人らしいことって何だろう。
色事とはずっと無縁だった僕にとって、乃恵のまっすぐで、深い好意にどう応えてあげればいいのかわからない。
付き合っているというのに、僕らはキスは愚か、手を組んで歩いたことすらない。
やっていることといえば……こうして今日も、乃恵をモデルに絵を描いていることくらいだ。
「ん……」
悩ましく息づきながら、ベッドに横たわる薄着の乃恵をキャンバスの上で描いていく。
「……見て、朝人。私を見て……。私の全部、描き上げて……。あなたの手で……」
筆を乗せるたび、乃恵はあたかも自身が愛撫を受けているような、艶っぽい表情を浮かべて、豊満な肢体をくねらせる。
まるで絵を通した交わり。
僕と乃恵の間で交わされる不思議な逢瀬。
世間一般の恋愛観なんて僕にはわからない。
肌を見せ合うタイミングや、順序だってわからない。
……ただ、この一時だけは、この世でもっとも淫らで、背徳的なことをしているような。そんな錯覚に陥るのだった。
* * *
「朝人って、本当に上手だね。このリンゴのデッサンとか、すごい迫力。どうやったら、こんな風に描けるの?」
袋から取り出した実物のリンゴと、絵の中のリンゴを見比べながら、乃恵は目を輝かせて聞いてくる。
僕のこれまで描いてきた絵を見たいと乃恵が言うので、いくつか昔のスケッチブックを持ってきた。
乃恵に剥いてもらったリンゴを食べながら、僕は答える。
「うまくなりたいなら、ひたすら描くことが一番だけど……上達の近道は、モチーフを観察することだよ。見るだけじゃなくて、実際に触ってみて、質感とか感触とか手に覚えさせるんだ。リンゴみたいに口にできるものなら……」
ウサギ型のリンゴを咥える。甘い果汁が口内に広がり、ゆっくり咀嚼する。
「噛んでみてどれくらい果汁が出るか、味はどうか、舌触りはどうか。そういうのを全部観察して、再現するように描くんだ」
「なるほどー観察かー」
ページを捲りながら、乃恵は「うんうん」と感心しきった笑顔で頷く。
しかしその笑顔はとつじょ「はっ!」と何か気づいたように危機感の色に染まる。
「と、ということは人を描くときも朝人は、身体を触って観察した……ってコト!?」
「いや、それは……」
「まさか! 片桐さんの身体を!? あの女の子から見てもすっごいエッチだと思う片桐さんの身体を!?」
なぜそこで紗世が出てくるのか。
「……無いよ。というか、人をまともに描いたのは乃恵が初めてだよ」
「え? そうなの?」
「うん。どうしてもダメだったんだ。人を描くことだけは」
幼い頃に起きたトラウマのことを僕は乃恵に明かした。
僕がこうして人物画ばかりを描くようになるだなんて、改めて驚くことだ。
……もっとも、いま描いている乃恵の絵は、どちらかというと印象画に近いもので、正確な人物デッサンとは言いがたいのだが。
それでも、乃恵からすれば、自分が異例の対象であるということに、喜びを隠せないでいるようだった。
「そっかぁ。私、だけなんだ。朝人が、描きたいって思ったモデルは……」
手に取ったリンゴにも負けない赤色を頬に宿して、乃恵はうっとりとする。
「えへへ~」
さらには蕩けた焼きリンゴのように緩みきった顔でススッと僕の傍に寄ってくる。
ニコリと満面の笑みでジッと僕を見つめてくる。
「……どうした?」
「いいよ♪」
「何を?」
「触って観察していいよ♪」
そう言って乃恵は「んっ」とまるで口づけを待つかのように顎をクイッと上げる。
「おいおい」
「だって、上達の近道なんでしょ? 朝人がもっと良い絵が描けるように私も協力してあげる♪ だからどうぞ♪」
そう言われても、どこを触れというのか。
ついつい際どいところに視線が泳いでしまう。
剥き出しになった二の腕。
細い首。
生白い肌の上に翳りを作る艶めかしい鎖骨。
深い谷間を作る豊満な乳房。
「……」
悩んだ末、僕は乃恵の両頬を手で包んだ。
「んっ」
乃恵がくすぐったそうに声を上げる。
そのまま僕は顔の骨格を確かめるように、頬を撫でていく。
すごくスベスベだ。
手の甲に当たるサラサラの髪も、くすぐったいようで、どこか心地良い。
「んっ……あっ……朝人ぉ」
乃恵の閉じられていた目が開かれる。潤んだ瞳と視線が重なる。
ただ頬に触れているだけなのに、官能的な雰囲気ができあがっていく。
「……もっと」
真っ白な薄着で、身体の輪郭が透けて見えてしまいそうな格好で、乃恵はしなだれかかってくる。
「もっと、朝人に、触ってほしい……」
上気した顔で、熱い吐息をこぼしながら、乃恵が首に腕を回してくる。
手だけでなく、身体いっぱいに、少女の感触が伝わってくる。
外でセミが鳴いている。
夕陽は傾き始め、明かりの点いていない部屋に濃い影を作る。
密着するふたつの影。
どれくらい、そうしていたのか。
やがて、そうなることが自然であるかのように……ふたつの影は重なった。
長く、長く重なって、惜しむように離れた。
「……ん」
夕陽の色に染まっていてもわかるほどに、少女の顔が紅潮していた。
「……えへへ」
少女はまるで、プレゼントを渡したい相手に渡せることができたことを喜ぶように、はにかんだ。
「私の初めて、初恋の人に、あげちゃった」
眩いほどに耀く黄色が、少女から発せられた。
……本当に、恋愛とはわからない。
越えられないと思っていたのに、気づくと、あっという間に段階を越えられてしまうのだから。
* * *
「ねえ、この絵はいつ描いたの?」
「中一のときだな。クシャクシャにした紙の折れ目を描くことに夢中になってて、何枚も描いたんだ」
「へえ~。すごいよ。紙の中に紙がある感じになってる! すっごい不思議で好き! 中一でもうここまで描けるなんて! さすが朝人だね!」
ソファーの上で寄り添いながら、僕と乃恵はアルバムを捲るようにスケッチブックを見ていた。
乃恵が質問してくると、僕は記憶を掘り起こすように解説する。
本当にこの頃は、数え切れないほどに絵を描いていた。
描いている僕自身、どこまで把握できているか怪しいくらいだ。
けれど、いざ絵を見始めると、不思議と当時のことが瞬時に思い出せた。
「あれ? これ、人の身体? 手とか、指とか……身体のパーツがいっぱい描いてある」
「ああ……それか……」
そういえば、こういうときもあった。
いわゆる、意地によるリベンジだ。
「一応さ、克服しようとしたんだよ。人体を描けないのは、やっぱり絵描きとしては致命的だから。全体像じゃなくて、パーツだけなら何とか描けるんじゃないかと思ってさ」
乃恵の絵を何とか形にできるのも、この頃の訓練があってのことだ。
パーツだけなら、生物としてではなく、物体として意識して描ける。
だが……。
「それでも、ダメだったよ。絵画教室でヌードデッサンがあって参加したけど……途中で抜け出した。それっきりだ」
絵画教室が無くなって以降は、完全に自分が好きな絵だけを描くようになってしまった。
だから、もう人物画は描かないだろうと思い込んでいたが……運命とはわからないものだ。
「……やっぱり、ヌードデッサンが描けるかどうかって、重要なの?」
「画家を本気で目指すならね。でも俺は……」
そこまでして画家になろうとは思っていない。
僕は、乃恵だけの絵描きなのだから。
乃恵だけ描ければそれで十分だ。だから、いまのままでも僕はべつに……。
「ねえ、朝人」
僕の思考を遮るように、乃恵が真剣な声色で言う。
「前に言ったよね? 朝人の絵のためなら、私何でもするって」
「……乃恵?」
何か意を決したような顔で、少女はソファーから立ち上がる。
「私、朝人なら素晴らしい画家になれるって信じてるんだ。朝人の成長のためなら、何だってしてあげたいの」
僕の目の前に立つ乃恵。
いったい何を? と問いかける前に、乃恵は、薄着の肩紐に手をかけた。
「朝人。お願い」
スルリと、衣服が重力に従って床に落ちる。
生白い身体が、眼前に広がる。
「私で、ヌードを描いて」
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