#10 幼馴染と勉強する。恋人の胸の中で甘やかされる。

 金曜の夜はすっかり勉強会になってしまった。

 そろそろ期末試験も差し迫っているので、本腰を上げてやらねばならない。


 主に幼馴染の救済を。


「もう無理~! 頭がオーバーヒートする~! 勘弁してください朝人さま~!」

「赤点で補修はイヤだろ? 夏休みが潰れるのはイヤだろ?」

「イヤじゃ~! JKの夏休みは人生で最も貴重なイベントなんじゃ~!」

「だったら頑張れ。ほら、あとこの範囲だけだから」


 通い慣れた紗世の自室。

 案の定、中間試験と同じように僕は紗世の勉強の面倒を見る羽目になっていた。

 おでこに冷却ジェルシートを貼った紗世は、本当にいまにも頭から湯気が出そうな勢いで問題を解いている。


「うぅ~。朝人~。頑張ったらなんかご褒美ちょうだい?」

「えぇ? 持ち合わせ何もないよ」

「ケチくさいこと言うなよ~。たとえば『アイスを買ってきてやる~』とか言ってくれたら紗世ちゃんもっと頑張れちゃう」

「何で勉強見てやってる上にアイスまで奢んないといけないんだよ……」

「くっ。やはりこの乳か。よし、いいだろう。アタシも女だ。報酬としてこの膨らみを好きに揉むが良い……いて~っ!」

「冗談でもそういうこと言うなっつの」


 過負荷で正常に働いていないであろう紗世の脳天に教科書の一撃をお見舞いする。

 いくら気安い仲だからといって、僕らももう高校生である。異性として越えてはならないラインは守り、慎むべきである。


 ……本当なら、こうして夜な夜な異性の幼馴染の部屋に上がることだってギリギリなラインだとは思うが。

 特に、ここ最近は僕を取り巻く事情が事情なだけに、どうも気を遣ってしまう。

 その辺のことは、一応彼女にも相談したのだが……。


『う~ん……片桐さんなら、しょうがないかなって気もするし。ちゃんとそっちの付き合いも大事にしないとって思うし……うん、だから気にしないでいいから』


 と大らかに言ってくれた。


「朝人さま~! やっぱりわっかんね~! もう終わりだ~! アタシの夏休みは潰れるんだ~!」

「諦めが早すぎる。柔道の試合はしつこいくらい粘るんだから、勉強でもあれぐらいの根気強さを見せろって」

「てへ♪ 紗世ちゃんってば、得意分野でしか、しぶとくなれないの♪」

「苦手分野でもしぶとくなれ。ほら、サボってると問題追加するぞ?」

「ぎゃあああ! わかったわかった! 真面目にやります! 今日はもうこれ以上は勘弁してけれ~!」

「まったく……」


 こんな調子で一緒に卒業できるんだろうか、この幼馴染は……。




「だぁ~! 疲れた~! もう今日は何もしたくな~い!」


 なんとか今日の分のノルマを達成した紗世は、勢いよくベッドの上に身を投げ出した。

 薄着の寝間着に包まれた豊満な膨らみが大きく弾み、無防備に曝された生足が際どい角度で曲げられる。

 相変わらず平気で目のやり場に困るような真似をする幼馴染に、僕は辟易する。


「あのさ。男の前で軽々とそんな格好するなよな」

「え~? べつにいいじゃん。男っていったって、アンタしかいないんだし」

「いや、そうなんだけど……」


 警戒心が本気で薄いのか、完全に異性として認識されていないのか、あれだけ日々「男の視線がどうのこうの」と言っているわりに、紗世は僕の前では何とも不用心だった。

 ……もっとも、貧弱な僕に襲いかかれたところで紗世なら容易く反撃できるだろうし、単に舐められているだけなのかもしれない。


「ていうかさ。いつからそんなにデリケートくんになったのよアンタ。今更気にするような仲でもないでしょ?」

「親しき仲にも何とやらだろ。俺たちも一応、子どもって歳じゃないんだし……」

「……ふふ~ん? ほ~? な~に~? 朝人くんってば~。いっちょ前にそういうこと意識しちゃうお年頃なの~? 紗世ちゃんのこと、そういう目で見始めちゃったの~?」


 妙に嬉しそうな顔で紗世はからかってくる。


「そっかそっか~♪ 絵ばっかり描いてた超草食系の朝人にも思春期が訪れちゃったのか~♪」

「思春期、ね……」


 確かにそうなのかもしれない。

 これまでは紗世相手に、ここまで際どい点を意識して、気を張るようなことはなかった。

 そうなってしまうのはやはり……。


 僕が、男として女性と触れ合うことを知ってしまったからかもしれない。


「……ちょ、ちょっと何か言い返しなさいよ。え? ガチ? ガチなの? そ、その……朝人ってば、いまのアタシにそういう気持ちになっちゃってるの?」


 いまさら危機意識が芽生えたのか、紗世はたわわに実った身を庇うように抱きしめる。

 しかしそれでも表情には何やら淡い期待が混じっているように見えた。


 正直なところ、高校に入ってからさらに女性らしくなっていく紗世を見て、落ち着かない気持ちになるのは事実である。

 ……だからといって、当然を悲しませるようなことをするつもりはない。


「安心しろ。万が一に我を忘れたとしても、紗世に襲いかかるような命知らずな真似は絶対にしな……がふっ!」


 クッションを投げつけられた。

 紗世が投げるのでクッションといえど凄い威力である。


「バーカ、ブァアカ! さっさと帰ってしまえ! この軟弱者が~!」

「そうさせてもらう。明日も約束あって早いんでな」

「……ねえ、ここ最近というか、ほぼ毎週土日に予定入れてるわよねアンタ。何か習い事でも始めたワケ?」

「おっと……」


 うっかり口を滑らせてしまったなと後悔した。

 と言っても、こうも土日の予定が合わなくなってばかりでは、さすがの紗世も不審に思うだろう。


「……べつに、何だっていいだろ。紗世だって土日は女友達と遊んでばっかだろ?」

「いや、そうなんだけど……たまには、アンタとだって、遊んであげてもいいかな~とは思ってるし~。というか、いくらなんでも付き合い悪いんじゃないの?」

「こうして毎週金曜に勉強見てあげてる俺のどこが付き合い悪いって? お望みなら土日も勉強漬けのお時間にしてやろうか?」

「ぐえっ。いまの無し。ああ~もうわかったわよ。どこへでも行っておしまい! この薄情幼馴染!」


 失礼な。こんなにもテスト対策に尽力する情の深い幼馴染が他にいようか。

 テストの結果が良ければ何かスイーツをご馳走してやろうと思ったが、そんな気持ちも霧散して、僕は荷物をまとめ帰宅の準備をする。


「……あのさ。夏休みなら、さすがに時間あるよね?」


 部屋から出ようとすると、紗世が小声で不安げに聞いてくる。


「……どうかな」

「どうかなって、何よそれ」

「いや、三者面談とか夏期講習もあるし。課題とかもいっぱい出るだろうし……」

「そんなの、一日も暇作れないってほどじゃないでしょ? ……それとも何? そんなにも外せないような用事ができたワケ?」

「……そんなところかな」


 紗世だけには、いつかはちゃんと話すべきだとは思っている。

 けれど、おしゃべりな紗世のことだ。内緒にしてくれと言っても、きっと辛抱が効くまい。

 女子の間で広まる噂のスピードは凄まじいものがあるし、やはりもう少し落ち着いてから打ち明けたかった。


「じゃあ帰るよ。ちゃんと復習しとけよ?」

「あ、うん……」


 どこか力なく返事する紗世に釘を刺して、扉を閉めようとする。


「……夏祭り」


 扉の隙間から、紗世の縋るような声が聞こえてくる。


「夏祭りはさ、一緒に行こうよ。毎年、そうしてるんだから」


 近所の夏祭りには、幼い頃からずっと、紗世や妹と出かけている。

 けれど。今年は、どうだろうか?

 ……いっそ、そのときに打ち明けて、皆と一緒に楽しむのもアリかもしれない。


「新しい浴衣、着ていくからさ……予定、ちゃんと空けておいてよね?」

「ああ、そうするよ」

「ん。約束、だからね?」

「…………」


 見間違いだろうか。

 扉の隙間からチラリと見えた紗世の表情から一瞬……見覚えのある「色」が溢れたような気がした。




    * * *




 五日というのは思いのほか長い。

 我慢すればするほど、そう感じてしまう。

 毎週こうして足繁く通うのは確かにどうかと思う。

 紗世に付き合いが悪いと言われても仕方がないし、妹に「もっと構え~!」とからまれるし、近頃は父さんに「実はこっそりと遊びっぱなしなんじゃないか」と疑われる始末だ。

 母さんだけが「まあ、もう朝人も高校生なんですから」と唯一味方でいてくれるのが救いだった。


 心苦しい。

 家族にはあくまで「友達との勉強会」と話を通しているが……背徳の味というのは、一度知ると、なんとも危険な中毒性を持つ蜜であった。

 僕も彼女も、五日間と我慢を重ねたぶん、どうしても抑えが効かなくなってしまう。


 彼女の部屋番号を入力し、インターホンで呼びかけオートロックを解除してもらう。

 エレベーターに乗り、30階の最上階に向かう。

 この一連の動作も随分と手慣れたものになってきた。


 彼女の部屋の扉の前まで来る。


「……うわ」


 僕の来訪を知ってか、すでに隙間から漏れ出ている。

 甘ったるい、とろけるような桃色の濃霧が。


 ……これは、今週も強烈かもしれない。


「お邪魔しま~す……おわっ」


 僕が入室すると、瞬く間に柔らかな温もりと芳しい香りが密着してきた。


「いらっしゃい、朝人」


 玄関で待機でもしていたのか、僕の姿を見るなり、乃恵はものすごい勢いで抱きついてきた。


「ちょっ、乃恵。まだ扉開いてるから……」

「平気だよ。この階に住んでるの、いま私だけだもん」


 そう言って乃恵は遠慮なしにスリスリと、幸せそうな顔で頬をあてがう。


「そ、それでも一応さ。とりあえず一旦離れて……」

「やっ。今週だってずっと我慢してたんだもん。いっぱい朝人を感じるの。ぎゅ~っ」


 背に細腕を回して、より深く密着してくる乃恵。


「の、乃恵。そんなにくっついたら、その……」


 紗世にも負けない、乃恵の豊かな膨らみが胸元の間で押し潰れる。

 来て早々、ただならぬ衝動が芽生えそうになる。


「……ケダモノさんになっちゃう?」


 僕のそんな動揺もわかってか、乃恵は挑発的な笑顔で見上げてくる。

 理性を総動員しても尚、頭の中が彼女一色で染まってしまうほどの美貌が、溢れんばかりの愛しさを募らせて迫ってくる。


「朝人も、ぎゅってして?」


 甘えるような声色で、乃恵が耳元で囁く。

 こそばゆい吐息の感触。雄を揺さぶる温もりと香り。

 逆らえっこない。

 乃恵と同じく、僕も溜まりに溜まった感情を爆発させるように乃恵を抱きしめた。


「んっ」


 乃恵はなやましい声をあげて、身体を蠱惑的に揺する。


「朝人……んっ、あっ……朝人ぉ」


 睦言のように僕の名を繰り返して、乃恵は僕を見つめる。

 彼女の瞳は熱く濡れ、いまにも溶けてしまいそう。


「……好き」


 万感の思いを込めるように、乃恵は好意を吐露する。


「今日も、いっぱい……しようね?」


 清廉さの中に、妖しい色香を含ませながら、乃恵は微笑んだ。




    * * *




 ……まあ、やることと言えば、もちろん彼女の絵を描くことなのだが。


「じゃーん! 新しく買ったサマードレスだよ~! 綺麗でしょ~?」


 レース生地の水色サマードレスを、舞踏会で踊る令嬢のように見せつけながら乃恵は言う。


「うん、よく似合ってる」

「インスピレーション、刺激されましたか先生?」

「インパクトとしては、この間の着物のほうが強かったかな? とりあえず描いてみるよ。そこに座って」

「はい」


 乃恵は従順な子犬のように、指定した位置に腰掛ける。

 イーゼルにキャンバスを設置し、下書きを始める。

 基本的な構図が決まれば、あとはモデルの乃恵にはリラックスな姿勢でいてもらう。


 気づけば、乃恵の部屋に一通りの画材が揃ってしまった。

 いまや、乃恵の部屋は僕のもうひとつのアトリエになっていた。


『いいのよ? 朝人が伸び伸びと描ける環境、私が揃えてあげるから』


 そう言って、乃恵は嬉々として僕の私物が増えることを良しとした。「何だか、朝人の色に染められていく感じがして、素敵……」と乃恵はうっとりとした顔で言っていた。


 僕がこうして絵を描いている最中も、乃恵は夢見るような顔で、見つめてくる。


「朝人が絵を描いているところ……やっぱり好き……いつまでも見れちゃうな……」

「授業中だって見てるだろ」

「ええー? そんなことないよ~? 約束どおり学園では付き合ってることがバレないように気を遣ってるよ~?」


 僕と有坂乃恵が交際していることは、二人の間だけの秘密と決めた。

 そのほうが絶対に穏やかな学園生活を送れる。

 なにせ相手は学園一の美少女、有坂乃恵である。

 彼女に恋人ができたというだけで、学園中は大騒ぎになるだろう。

 学園では僕らはただの同級生として振る舞っている。

 そのはずだが……。


「だったら、俺が黒板で問題解いてるとき、ジッと見つめてくるのやめろって。英語の先生、たぶん気づいちゃったぞ」

「あ、あはは~。ごめんごめん。でもミシェル先生なら恋愛に理解がある人だから、きっと黙っててくれるよ」

「だといいけど」

「……でも、私はハッキリと言いたいな。そうすれば告白してくる人たちも減るだろうし」

「相変わらずの人気のようで」

「この間なんて『私にはもう心に決めた人が……』ってハッキリ言っても、まだまだ告白してくる人が続出したもの。男の子って本当に情熱的だね」

「……あのなぁ、乃恵……」


 そんなことを言えば、都合のいい願望と妄想をいだいた男子たちが我先にとアタックを仕掛けるに決まっているだろうに。

 本当に彼女は交際を隠す気はあるのだろうか。


「……ねえ、朝人?」

「ん?」

「私、本当にいますごい幸せ……。恋って、とっても素敵な感情だね……」


 自らを「空っぽ」と評した乃恵。

 だが、いま少女の胸に渦巻くのは、恋という名の嵐である。

 僕にはハッキリと見える。

 いまも彼女の周りで星のように光り輝く桃色の波動が。


「朝人に『私』を描いてもらうたび、感じるの。『私はこの人と巡り会うために生きてきたんだ』って」

「……大袈裟じゃないか?」

「そんなことない。私いま、すごく『自分らしく生きてる』って思うもん。あなたの絵を見るたび、私は『私自身』を手に入れてるって感触が確かにある。まるでカケラを集めるみたいに」


 僕は、描いた。

 何枚も、何枚も乃恵の絵を。

 スケッチブックのデッサンだけに飽き足らず、こうしてキャンバスを用意して油彩画にも手を出し始めた。

 乃恵は、その一枚いちまいを、まるで聖遺物でも扱うかのように、大切に保存していた。

 完成した絵を見るたびに、確かに乃恵は、感情豊かになっていった。


「私、好きな人の手で形作られてるんだよ? こんな、素敵なことってある?」

「……そろそろ休憩しようか」


 ときどき、乃恵の過剰にまで熱い視線を恐ろしく感じることがある。

 そういうときは、すぐに描くことを中断した。

 このときの乃恵は、描くべきではないと思ったからだ。


「仕上げは来週頃にするから、午後はテスト勉強しよっか。実は物理のほうがまだ進んでなくてさ、教えてもらえると助かるな」


 当然だが、乃恵の部屋に訪れて、絵ばかりを描いているわけじゃない。

 家族に言った手前、一応勉強会もしている。

 成績トップの乃恵と勉強するのは正直僕としては助かっているので、可能な限りはやるようにしている。


「うん、いいよ。でも、その前に……」

「乃恵? むぐっ……」


 椅子から立ち上がろうとすると、乃恵の胸元に抱き寄せられた。

 上品な生地を越して、乃恵の豊かな膨らみが顔中に広がる。


「いつもありがとう。私のために絵を描いてくれて」

「ちょっ、むがっ、な、何するんだ?」

「いつも頑張ってる朝人を労ってるの。どう? 嬉しい?」

「あ、あのな。女の子が軽々しくこんなことするものじゃ……」

「だって、私たち恋人同士だよ? いけないかな?」

「それは……いや、でもまだ付き合って日が浅いし……」

「もう~。前にも言ったでしょ? こういうことに時間は関係ないって。私がそうしたいから、そうするの。むぎゅ~」

「むぐっ」


 より深く、柔らかく大きな感触に顔面が呑み込まれる。


「……こうして、好きな人を抱きしめたいって思えるのも、朝人が絵を描いてくれたおかげなんだよ? とっても幸せな気持ち……。もっと、もっと、あなたのためにいろいろしたいの。だめ?」


 ずっと、自分の本当にやりたいことがわからなかったという乃恵。

 そんな彼女はいま、恋人に尽くすという喜びに目覚めて、暴走しっぱなしであった。


「ふふ♪ 赤くなってる朝人、かわいい。もっと甘やかしたくなっちゃう。よしよし」


 エスカレートしてきた彼女は、ついには僕を幼児のように扱いだす始末である。


「お昼ご飯、朝人の好きなものたくさん作るからね? 疲れたら、この間みたいに膝枕してあげる♪ うふふ。素敵な絵を描いてくれる朝人には、たくさんお礼をしてあげるね? だから……したいこと、な~んでも私に言ってね?」


 多幸に満ちた声で、乃恵はどこまでも男をダメにするような勢いで僕を甘やかすのだった。




 恋人として、そして彼女を描く者として、できれば清い関係を築きたいと思っているが……この調子だと僕の理性は長く保たないかもしれない。

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