#9 少女と寝る。少年は誓いを立てる。
客間に布団を敷いてもらい、僕はそこで眠ることになった。
薄闇の中、柔らかな布団に横たわり、ようやく僕は一息吐く。
思わぬことが連続して起きる一日だった。
もっとも、有坂乃恵と出会ってからは思わぬことが起きてばかりだが。
教室での偶然の再会。
美術の授業で似顔絵を描く。
一緒に喫茶店に行き、美術館に行き、彼女の部屋に泊まり、彼女の悩みを知り、そして……
『あなたが、好きです』
彼女に告白された。
「…………」
むくりと起き上がる。
「聞き間違いじゃないよな?」
今更に冷静になる。
というか彼女のあの発言から、すっかり意識が上の空になっていた。
はて、この布団に入るまで自分は何をしていたっけ?
確か、夕飯の席で出し損ねたというデザートの手作りプリンを彼女と一緒に食べた気がする。心なしか、彼女に「あーん」と食べさせてもらったような覚えがある。
確か、ソファーに並んで座って映画を見た気がする。心なしか、肩と肩が触れ合うほどに密着していたような覚えがある。
確か、お風呂を借りたあと彼女が妙にそわそわしていたような気がする。彼女の風呂上がりの艶めかしい姿に、自分もどうも落ち着かない気持ちになった覚えがある。
そして、純白のワンピース型の寝間着姿の彼女に、この部屋まで案内されて、
『……おやすみなさい』
と妙に熱い眼差しを向けられて、笑顔で別れた。
……なんだか、どれも自分が都合よく造りだした妄想のような気がしてきた。
現実味が湧かない。
僕らは、出会ってまだひと月も経っていない。
ありえるのだろうか? そんな短い間に、彼女が特別な思いを実らせるだなんて。
……けれど、絵画教室の先生は言っていた。
『そういうのに、時間は関係ないみたいだよ?』
と婚約指輪を幸せそうに見つめて。
ふと気づくと「この人がいい」「この人じゃないと自分はダメだ」と相手のことで、頭がいっぱいになってしまう。
そうなったら、もう止められないのだそうだ。
僕は……有坂乃恵をモデルに絵を描きたいと思っている。
でもそれは、先生が言うような感情なのだろうか?
彼女に惹かれているのは事実だ。でも、わからない。初めての感情ばかりで、どうしたらいいのかわからない。
明日の朝、どうやって彼女と顔を合わせばいいのだろう?
ちゃんと返事をするべきだ。
でも、なんて?
自分の気持ちもろくに整理できていないのに。
「……」
考えていても、キリがない。
いまは寝よう。
本当に今日はいろいろありすぎた。
朝になれば、思考がスッキリと纏まっていることを願って、僕は目を閉じた。
廊下の足音で目が覚める。
もう、朝か? いや、室内はまだ暗い。
扉が開く。
芳しい香りが部屋に入ってきたかと思うと、背中に熱く柔らかな感触があてがわれた。
意識がはっきりと目覚める。
反射的に背後を向く。
「あ、有坂さんっ!?」
寝床に入り、僕の背にひっつく有坂乃恵と目が合う。
カーテンの隙間から射し込む月明かりに照らされた、寝間着姿の少女。
どこか幻想的で、蠱惑的だった。
「……返事はいいって、思ってたのに」
熱を含んだ瞳を潤ませて、彼女は僕を見つめる。
「一方通行でもいいって、思ってたのに」
細腕を、僕の胸元に回し、ぎゅっとしがみつく。
「……ごめんなさい。ごめんなさい。気づいちゃったから。口にして、やっと気づいちゃったから。もう、止められないの。離れたくないの。一秒でも、あなたと」
暗闇の中でもわかるほどに、彼女の頬が激しく紅潮している。
まるでのぼせたように、うっとりと、僕を見つめる。
「変かな? 私、おかしいのかな? だって、こんな気持ち初めてで。どうしたらいいか、わからないよ。寝ていても、ずっとあなたのことばかり考えちゃうの」
密着する身体。
凹凸の激しい豊満な肢体が、目覚めたばかりの雄を挑発する。
「……ダメだよ。いけないよ。こんなこと」
「私のこと嫌い?」
「そういうわけじゃ……」
鼓動が早まる。
同じくらいの速さで鳴る心音が、背中越しに伝わってくる。
「君は、きっと混乱しているんだ」
「女の子は、いっときの迷いでこんなことしないよ?」
「出会ってから、そんなに月日も経っていないんだぞ?」
「それ、関係あるの? 私は思わない。もしも、時間と一緒にこの気持ちが育まれていくっていうなら……私、もうあなた以外は考えられないよ」
「どうして、そこまで……」
「……運命って思っちゃダメかな?」
切に願うように、彼女は僕を見上げる。
「わかるの。こんな出会い、きっともう二度と無いって。こんな奇跡みたいなこと、もう起こるはずない。べつにいいよ? 盲目的だと思っても。順序が滅茶苦茶でもいい。そんなの、もうどうでもいい。報われなくたっていいから、私は……あなたの傍にいたい。ダメかな?」
いまにも泣きそうな声色で、彼女は必死にしがみつく。
時間は関係ない。と先生は言った。
この人がいい。この人じゃないと自分はダメだ。そう思ったらもう止められないのだと。
……なら、僕は。
僕のいま胸に宿る感情は。
「……」
ゆっくりと起き上がる。
名残惜しむように、彼女の手が離れていく。
「いまは、きっとダメだよ」
僕はそう断言する。
一過性の衝動で、そんな真似はしたくない。
特に、彼女に対しては。
「君のためにならない」
「……やっぱり、迷惑?」
「違う」
今日、僕は知った。
彼女が何を思って、何に苦しんでいるのか。
そして、どれだけ僕の絵を必要としているか。
それがわかった時点で、もう彼女は……ただの他人ではなかった。
「君が大切だから。守りたいんだ。そのやり方は、きっと、こういうことじゃない」
「……っ!?」
僕の言葉に、彼女は感極まったような表情を浮かべて、頬を紅潮させる。
「それって……」
「いままでは、自分の絵が誰かを救うなんて考えもしなかった。そこまでの価値があるなんて思いもしなかった。でも、有坂さんが必要としているなら……」
僕が描き続けることで、彼女が癒やされるのなら、もう迷わない。
「傍にいるよ。君の傍で、絵を描くよ」
そうだ。
僕はきっと、ずっと欲しかったんだ。
絵を描く理由を。
ただ自分のために描くだけでは見つけられなかった。
有坂乃恵と出会って、僕はやっと、心の底から絵を描きたいと思えたんだ。
彼女の手を握る。
震える手からは、藍色ではなく、黄色と桃色が混ざり合った色彩が溢れてくる。
「……私、結構欲張りみたい」
「いいよ」
「きっと、たくさん振り回しちゃうと思う」
「いいよ」
「……誰かに甘えたことって、ちっとも無かった。だから……」
「いいよ。全部受け入れるよ」
彼女の幸せのためなら、何だってしてあげたいと思う。
彼女から溢れる黄色と桃色。心地よく伝わってくる感情。それと同じものを、僕も彼女に与えたいと思う。
……ああ、そうか。つまり僕も……。
「好きだよ」
「え?」
「俺も有坂さんが好きだ」
「あ」
きっと僕にも、彼女と同じ色彩が溢れている。
色と色が混じり合って、ひとつの模様を作りだしていくのを感じる。
運命だなんて、大袈裟だと思っていた。
けれど、本当に、そういうものがあるのかもしれないと思った。
握った手を、彼女は強く、固く結んだ。
「素敵だね」
涙を浮かべて、彼女は言う。
「人を好きになることって」
生まれた感情を愛おしむように、彼女は胸元に片手を当てた。
「乃恵って、呼んで」
甘えるように、彼女は言った。
「あなたの口から、呼ばれたいの」
ノエ。
ずっと素敵な響きだと思っていた。
心の中でも、そう呼びたくなるのを我慢していた。
もしも、呼んでしまったら、歯止めが効かなくなりそうだったから。
……そうか。その時点で気づくべきだった。
あの桜並木で会ったときから、僕の心も、とうに決まっていたんだ。
「乃恵」
「うん」
心に刻むように、乃恵は僕の声を聞き入る。
「……朝人」
恐る恐る、彼女は口にする。
「そう、呼んでいい?」
「うん」
僕らは手を握ったまま、布団に横たわった。
もはや自然と、そうしていた。
「……このままでも、いい?」
「いいよ」
「……我慢できなくなったら、どうする?」
「努力はするよ」
「私が我慢できないかも」
「……いろいろ早急だね君は」
「だって……どんどん大きくなるんだもん。この気持ち。いまも、ずっと……」
思いの丈を伝えるように、彼女は僕の手を胸元に導く。
ふくよかな感触に手が呑まれる。
そんなことをしなくても、彼女の色が思いの丈を示しているが、僕は黙っていた。
悲しき男のサガだ。
「感じる?」
「感じるよ」
「すごく、幸せな気持ちだよ?」
「よかった」
「うん。あなたに、出会えて、よかった」
多幸に包まれた笑顔で、彼女は言った。
いままで見てきた中で、一番素敵な笑顔だと思った。
「あなたの絵、これからも、ずっと見ていたい」
「描くよ。いくらでも」
「うん。楽しみにしてる」
夢見るように、彼女は瞳を閉じる。
やがて規則正しい静かな寝息が聞こえてくる。
穏やかな寝顔だった。
彼女が悪夢を見ないように、僕はずっと手を握っていた。
僕らは結ばれた。
そして、それは同時に《盟約》でもあった。
止めたはずの溶鉱炉。
今なお冷めない熱量を伴って、ソレは問いかけてくる。
誓うか?
溶鉱炉の奥から、何者かが問いかけてくる。
誓うか?
常道から外れることを。
果ての見えない、過酷な道を進む、旅人になることを。
今度はもう、引き返すことはできないぞ?
一度は逃げ出した道。
普通でなくなることが怖くて、目を逸らした。
でも……もう、そんなのはどうでもいい。
外れたっていい。
壊れたっていい。
この腕が、彼女の幸せを造るというのなら……。
僕は喜んで、
溶鉱炉が汽笛を上げる。
再び稼働した歯車が、大きく回り出す。
有坂乃恵という、触媒を糧にして。
描こう。
描いてみせよう。
僕の絵は、もう乃恵のためにあればいい。
乃恵の幸福の形を、この手で、描いてみせる。
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