#8 少女の部屋に泊まる。少女の真実の姿を知る。

 すでに日も暮れた時間帯。

 僕は近場のコンビニで必要なものを買って、少女の部屋に戻ってきた。

 歯ブラシなどは一応、客用のものを予め用意していたそうなので、下着やタオル、寝間着代わりになりそうな薄着などを買い込んだ。品揃えのいいコンビニで助かった。


「だからさ、友達の家で勉強会するんだ。うん。とつぜんそうなっちゃって。大丈夫、迷惑はかけないよ。うん。ごめん、父さんにはうまく伝えておいて……。うん、明日の朝には必ず帰るよ。それじゃ」


 自宅への電話を済ませる。


「……非行の始まりってやつなのかな、コレ」


 まさか自分が親に嘘をついてまで外泊する日が来るとは思いもしなかった。

 これが高校生になるということなのだろうか?

 とてもイケナイことをしている自覚があるので、どうも落ち着かない。


 もしもこれが男友達たちとのお泊まり会なら僕もまだワクワクしていたに違いないし、ここまで罪悪感も湧かなかった。

 しかし生憎そこまで気安い男友達はまだ高校には居ない。なんとも悲しいことに。


 どうも僕は、紗世が言うような『あるべき高校生の青春』とやらを真っ当に送れていない気がする。

 順序が狂っているとしか言えない。

 だって、そうだろう?

 なにもかも段階をすっ飛ばしすぎている。


 出会って間もない少女の部屋にお邪魔するどころか、お泊まりすることになるだなんて。




 リビングに行くと、少女はエプロンを身につけて夕飯の支度をしていた。


「あ、お帰りなさい」

「……うん」

「もうちょっと待っててね。そろそろできるから」


 そう言って彼女は忙しなく台所周りを動く。

 髪を結び、うなじを明かりのもとにさらして、料理をする有坂乃恵の後ろ姿が見える。

 生白く無防備な、細い首元に、つい視線が吸い寄せられる。

 恐らく、僕は学園中の男子が……いや、全国の男性が目にしたいであろう光景を拝んでいるに違いない。


「お待たせ。今夜はイタリアンで~す。えへへ、せっかくだから気合い入れてみました~」


 テーブルの上に豊富なイタリアン料理が並べられる。

 前菜にはトマトとモッツァレラチーズのマリネ。パスタはペペロンチーノ。メインディッシュにはナスとパプリカを添えたローストビーフ。

 どれも、家庭料理のレベルとは思えない出来映えだった。

 これでワインがあれば完璧なフルコースである。


「雰囲気を出すために葡萄ジュースをどうぞ~」


 彼女はそう言って、わざわざワイングラスにジュースを注いでくれた。


「せっかくだから乾杯しよっか?」

「何の乾杯?」

「う~んと……私と小野くんとの出会いを祝って?」

「……有坂さん。かなり恥ずかしいこと言ってるぞ?」

「あ、あはは。やっぱりそうかな?」

「まあ、いいけどさ」

「うん。それじゃあ……」


 僕らはグラス同士をくっつけ、食事を始める。


「お口に合うかな?」

「まいったな。今日食べたロシアン料理の味が霞むくらいおいしい」

「あはは。大袈裟だよ~」

「いや、お世辞抜きにおいしいよ」

「ありがとう。すごく嬉しい」


 うっとりした様子で彼女は僕の食べる様子を見ていた。


「なんだか、新婚さんみたいだね?」


 思わず咳き込む。

 まったく。僕もつい考えてしまって口にしなかったことを……。


「……あのね? 今日みたいに男の子を部屋に招くなんて、私ちっとも想像してなかった。そういうのって、ず~っと先……大人になってからだと思ってたの」

「俺も同じこと思ってるよ」

「……ごめんね。私のワガママに付き合わせちゃって」

「いや」


 仕方がない。

 あのまま彼女を放っておくことなんてできなかった。


 表面上は明るく振る舞っているが、彼女の周りには、いまだに暗澹とした灰色が滲んでいる。

 彼女をひとりきりにしてはいけない、と僕の勘が訴え続けていた。


「……話、聞いても、いいのかな? イヤなら、いいんだけどさ」

「うぅん。ちゃんと話す。迷惑かけちゃってるし」


 食器を置いて、彼女は改まった態度を取る。


「さっきの電話の相手、お母さんでいいんだよね?」

「うん」

「そっか……」


 とすると彼女はやはり母親相手に、あのようなおどろおどろしい色を吐き出したということだ。


 僕は、有坂乃恵をずっと清廉潔白な少女だと思い込んでいた。

 彼女が人に対して、それも親に向けてあのような感情の色を放出するだなんて信じられなかった。


 けれど、有坂乃恵も人なのだ。

 どれほどの才女でも、どれほどに恵まれた美貌と素質を持っていても、心に暗い一面を持たない人間なんて居ない。

 いま僕はもしかしたら、を知る数少ない人物になろうとしているのかもしれない。


「べつに、親と仲が悪いわけじゃないんだ。お母さんもお父さんも私のことを本当に大事にしてくれてる。こんな良い部屋に住まわせてくれているわけだしね。小さなことでも成功すれば褒めてくれる。私の幸せを本気で願ってくれてる。良い両親だよ。それは本当。でもね……」


 混じる。灰色の中に、ゆっくりと、底冷えするような闇色が。


「二人とも、ずっと喧嘩してるんだ。私のことを巡って。まるで競うみたいに『どっちが娘を一番幸せにできるか』って。小さい頃から、ずっと」


 食事テーブルを見苦しく汚さないように僕は意識を強くもつ。

 大丈夫。まだ耐えられる。


「私がいけないんだ。お父さんにも、お母さんにも喜んでほしかったから、ずっと二人が望むような良い子でいたんだ。それが、うまくいきすぎちゃった。だんだんとね、二人の中の『私』がすれ違うようになったんだ。気づけばいつもこう言い合ってた。『乃恵のこと、何もわかってない』って」

「…………」


 彼女は、きっと、出来が良すぎた娘だったのだろう。

 誰でもきっと一度は想像する「こんな子どもが欲しい」という夢。

 有坂乃恵は、そんな両親の「子どもの理想像」を再現することに、あまりに長けていた。

 どんなことも、そつなくこなせるがゆえに起きた悲劇。


「この間の進路希望調査書に書いたのも、全部親の希望なの。医者はね、お父さんの夢。弁護士はね、お母さんの夢。二人とも、自分のなりたいものになれなかったから、娘の私に託したいんだって。『乃恵ならできる』って。……私、ずっとそうなの。他人が求めている『自分』を演じているだけ。家でも、学校でも。ずっと、ずっと……」

「それは……」


 少し、感じていたことだ。

 八方美人とまでは言わないが、有坂乃恵はどうも相手によって顔を使い分けているような節があった。

 誰しも、そうなのでは? と言われればそうだが、有坂乃恵の場合、それを不自然と思わせない巧みさがあった。仮面を自由に付け替えれるように。


 他人の望むように立ち振る舞えるのは一種の才能だろう。

 ……けれど、そんなことばかりを繰り返していたら、どこかで本当の自分を見失ってしまうのではないか?

 有坂乃恵の場合、それを幼少期から続けていたら……。


「私にはね、『絶対にこれだけは譲れない』っていうものが無いの。だから、いつも周りに流されちゃう。わからないんだ。自分がいったい何に興味を持っていて、どんなものに熱中するのか」


 人は本来、自分の感情を指針として生きるものだ。

 でも、有坂乃恵にはそれが無い。

 彼女の指針は、常に誰かが握っているから。


「もちろん、遊んでいて『楽しい』とか、甘いお菓子を食べて『おいしい』とかは感じるよ? ……でも、人生を賭けてまでやりたい、ってものがずっと無いの」


 人生を賭けてまで。

 彼女のその言葉に、チクリと棘が刺さるような痛みを感じた。


「私って、空っぽだなっていつも思ってた。まるでお人形さんみたいだって。大人になっても、こんな風に生きていくのかなって……でも、そんなときに、小野くんに出会った」


 桜色に染まった景色がフラッシュバックする。

 僕と有坂乃恵の初めての出会い。

 彼女はあのとき、僕の絵を見て、確かに目を輝かせていた。


「初めてだったの。自分が絵に引き込まれるだなんて。私でもそんな風に何かに感動できるんだって……小野くんの絵を見て、私は初めて、人間らしい自分と出会ったの」


 彼女はいまにも泣きそうな顔で、熱い眼差しを向ける。


「桜の絵を見て泣いたのはね、きっと嬉しかったからなんだ。私は空っぽじゃないんだって。素晴らしいものを見たら、ちゃんと心が動かされるんだって。小野くんの絵が……小野くんが描いた絵だから、私は泣けた。……だから、私、小野くんの絵が好き」


 まるで愛の告白をするように、少女は頬を染めて断言する。


「変われる気がするんだ。小野くんの絵を見れば、『本当の自分』を見つけられるような気がするの。今日、美術館に行って確信した。私の心は、やっぱり小野くんの描く『何か』に一番惹きつけられているんだって。それが何かわかれば、私ははっきりと『自分が何者なのか』わかる気がするの。……すごく、変なこと言ってるかもしれないけれど、私にとって、それがいま一番、大切なことなの」

「…………」


 己を知る。

 本質を知る。

 心を知る。


 これまで何人もの哲学者が問いかけてきたことだ。

 決して、おかしなことではない。

 誰だって、自分が何者なのか知りたがっている。

 中にはその答えをあっさりと見つけたり、これでいいと納得する者がほとんどだろう。


 でも有坂乃恵は違う。

 彼女は本気で自分という人間の正体を知りたがっている。

 決して、他人の言いなりになるだけの人形なんかじゃない。

 確固たる自我を持つ存在だと証明するために。


「私、ちゃんとお父さんとお母さんと向き合いたいんだ。理想的な娘としてじゃなくて、ちゃんと自分の意見を伝えられるようになりたい。いまなら、それができる気がしたの。だって……小野くんと一緒に居るときだけ、私、自分を偽っていないことに気づいたの」


 彼女の周囲に、再び、淡い桃色が浮かび上がる。

 恥じらうように、ほんのりと温かな色合いが、少女を彩る。


「こんなこと、初めてなんだよ? どうしてなのか、自分でも不思議だけど……小野くんの前なら、自然体でいても良いって思えるの。小野くんと絵のことを話すと、嬉しくて、楽しくて、胸が温かくなって……」


 淡い桃色が、鮮明に濃度を上げていく。

 気づけば、咽せるほどに濃い桃色の霞が部屋に漂う。


 胸が激しく動悸している。

 もしも今感じているものが、有坂乃恵から流れ込んでくる感情ならば、彼女は……。


「いまなら……いまの私ならちゃんと話せるって思ったの。お母さんにしっかりと自分の言葉を伝えられるはずだって信じてた。でも……」


 桃色の瘴気は霧散する。

 彼女が再び、涙を流したがために。


「ダメだった。全然、できなかった。やっぱり、演じちゃうの。お母さんの理想通りの自分としてしか、振る舞えなかった。……何も、何も酷いことは言われていないの。ただ……自分が情けないって思っただけ。変われるって思ったのに、何も変わっていない自分が嫌で……悔しくて……辛くて……私って、何なのって……」


 彼女を包む色は、もはや寂れた灰色でも暗澹とした闇色でもない。

 純粋な藍色だった。


「…………」


 僕は彼女の座る椅子へ向かう。


「有坂さん」


 顔を覆って泣く彼女の肩に、そっと手を置く。


「……絵を、描かせてくれないか? 君をモデルに」


 僕の言葉に、彼女は「え?」と涙で濡れた顔をあげる。


 彼女は自分を「空っぽ」と言う。

 彼女が自分を見失ってしまい、本当の自分がわからないというのなら……。


 僕が、いまの彼女を形にしてみせよう。




    * * *




 食べ終えた食器を片付けて、僕らはリビングで絵を描いていた。

 借りたスケッチブックと鉛筆で、椅子に座った彼女を描いていく。


「……なんだか、改まってモデルになると緊張しちゃうな」

「楽にしてていいよ。正確に模写するわけじゃないから」


 いま僕が感じている彼女への印象を、スケッチに描き起こす。

 これまで見てきた、彼女の姿を思い浮かべて。


「……あのね、小野くん」

「なに?」

「私、やっぱり絵を描いているときの、小野くんの目……好きだな」


 少女はうっとりとした瞳で、手を止めず描く僕を見る。


「実はね? 初めて会ったときも、最初に目に留まったのはね、絵のほうじゃなくて……絵を描いている小野くんだったの」

「…………」


 彼女は言った。

 僕の絵にひと目惚れしたと。

 でも、最初に目に留まったのが絵ではなく、僕のほうだったというのなら……。


 桃色の瘴気が、部屋中に充満する。


「教室で小野くんを見かけたとき、どんな気持ちだったと思う? こんな偶然あるのかなって、胸がすごくドキドキした。似顔絵を描いてもらってるときも、その目で見つめられて、身体がとっても熱くなった」


 彼女の胸の鼓動が、桃色の瘴気と一緒に、こちらにも伝わってくる。


「鏡を見るよりも、小野くんに描いてもらった自分を見る時間が増えたの。彼から見える私は、こうなんだって考えるだけで、どんどん、胸が温かくなったの」


 彼女は、求めている。

 私のこの気持ちを形にしてと。

 この気持ちに気づいてと。


 僕は言葉では返事をしなかった。

 すべての答えは、絵の中に込める。


「ねえ」


 希うように、少女は、僕を見つめる。


「あなたの目には、いまの私は、どう見えてる?」

「……描けたよ」


 出来上がった絵を彼女に差し出す。

 口で伝える必要はない。

 彼女の求めるものはソコにあるから。


 僕らは出会って間もない。

 それでも僕は知った。


 有坂乃恵が、単なる美しい少女ではなく、普通の女の子のように喜んで笑って、人をからかったり、ちょっと強引だったり、気分が高揚すると周りが見えなくなって、衝動買いをしたり、マイペースだったり、意外とおっちょこちょいだったり……そして、苦悩からもがきながら涙を流す。


 有坂乃恵は、決して空っぽな人間じゃない。


「有坂さん。ゆっくり、見つければいいよ。『本当の自分』ってやつをさ。俺の絵が、その助けになるっていうなら……」


 画家の夢は、とうに諦めた。

 でも、僕が絵を描くことで、誰かを救えるというのなら。


 僕は……。



 有坂乃恵だけの、絵描きになろう。



「小野くん……ありがとう」


 彼女はスケッチブックを胸に深く抱きしめる。


 涙をいっぱいに流す少女。

 けれど、彼女を包む色は、決して悲しみの藍色ではなかった。

 そこにあるのは喜びの黄色。そして……


「私、やっぱり好き」


 黄色と混じるように浮かび上がる、たくさんの桃色。


「あなたが、好きです」



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