#7 桃色の感情。少女の涙。

 喜んでいるときは黄色。

 怒っているときは緋色。

 泣いているときは藍色。

 楽しんでいるときは橙色。


 昔、「人の感情が色として見える」と言ったら笑われた。

 ほんとうに目に見えるわけじゃないけど、そう「感じる」のは事実だった。

 いまは、さほど感じない。

 感じないように意識をシャットアウトした、と言ったほうが正しい。

 だって辛いから。表面上は笑っているのに、緋色や藍色が見えたら、どうしたらいいかわからない。


 紗世だけは僕の言葉を信じてくれた。彼女だけはいつも僕の味方だった。

 でも、それから紗世の色が不安定になった。

 まるで本当の色を覆い隠すように、淀んで、靄がかかってしまったのだ。


 言うべきではなかった、と僕は激しく後悔した。

 これは、人には過ぎたものなんだと、僕はようやく悟った。


 人の世界で生きやすくなる秘訣とは? 鈍感になることが一番だ。

 どうあったって人と関わって生きていくのだから、何事も見えすぎるのも、感じすぎるのも良くない。

 最初のうちは苦労したが、訓練次第でどうにかなった。

 いまは昔ほど幼馴染や妹の感情が読めなくなった。それでいいと思っている。近しければ近しいほど、心の実体を知るのは怖い。


 感情を色として見ることだけじゃない。

 人の世界で生きるため、僕はあらゆる感覚を捨てた。


 太陽の光を甘い飲み物のように感じていたけど、おかしいと思われるから感じなくした。

 けたましく鳴きながら飛ぶ鳥が青い光の筋のように見えたけど、おかしいと思われるから見えなくした。

 おやつのドーナツを食べると口の中で無数の音符が踊るような気がしたけど、おかしいと思われるから気にしなくなった。


 そうして、少しずつ僕は人間らしくなっていった。

 それに合わせて、絵の内容も大人しくなっていった。

 それで、いいと思っている。

 幸せな一生を送りたいなら、普通から外れてはいけないのだから。

 僕は真っ当な人間になって、普通の幸せを得るんだ。

 そう決めていた。

 ……そのはずだったのに、どうしてだろう?


 いま、僕には見えてしまう。感じてしまう。

 さっきから、チラチラと、光が明滅するように、色の翳りが彼女から。

 それは……僕が彼女のことを知りたいと、思っているから?


 彼女を包む色。

 それは淡い桃色。

 初めて見る感情の色。

 彼女はいま僕と居て、何を感じているんだろう?


 知りたい。

 もっと彼女のことを。


 有坂乃恵のことを知りたい。




    * * *




「画集って、余韻を楽しむためのものだったんだね。実物を見たあとの」


 ソファーの上でハプスブルク家の画集を広げながら彼女は言った。


「そうだね。予習のために買う人もいるけど、実際に見たあとだと印象がガラッと変わると思うよ」

「うんうん。わかるよ。実物は結構、絵の具の盛り上がりがあったとか、印刷されたやつじゃわからないことに気づけるもん」


 有坂乃恵がひとり暮らしをする高層マンションの一室。

 僕らは買ったばかりの紅茶やチョコレートを口にしながら美術館での感想を言い合っていた。


「思いきって行って良かったなー。なんか人生観変わった気がするよ~」


 表情をコロコロと変えながら、彼女は朗らかに笑う。


「小野くん、今日は本当に連れて行ってくれてありがとね?」

「いいって。有坂さんが美術に興味持ってくれて、俺も嬉しいよ」


 そして彼女もこれで理解しただろう。

 本物の名画と僕の絵では、あまりにも格差があることを。


「これからも、いろんな美術展に行ってみるといいよ。たくさん見ていけば、自分がどういう画風が好きで、どんなテーマに興味があるのか、わかっていくはずだから」

「なるほど~。……じゃあ、やっぱり、いまのところは私、小野くんの絵がいちばん好きかな~」

「……え?」


 今日、数々の名画を見た。

 それにも関わらず……やはり彼女は僕の絵が好きだと言う。


「で、でも有坂さん。素人の俺の絵と名画とじゃ全然レベルが違うじゃないか」

「え? だって好きか嫌いかの話でしょ? 確かに名画の迫力は凄かったけど……私が惹かれたのは、やっぱり小野くんの絵だから」


 照れくさそうに、彼女は言う。


「美術に興味を持ったきっかけも、あの日、小野くんの絵を偶然見たからだしね」

「どうして、そんなに……」


 どうして、そんなにも、僕の絵を彼女は評価してくれるのか。


「……ひと目惚れ、したからかな?」

「え!?」

「小野くんの絵に」

「あ、ああ、そういう……え?」


 とんでもない発言に、危うく心臓が飛び出るかと思った。


「今日、もしかしたら美術館であのときみたいに泣いちゃうのかなって思ってたけど……やっぱり私が涙を流したのは、小野くんの絵だけだった。それだけの魅力が、小野くんの絵にはあるんだよ。少なくとも、私にとっては」


 彼女はそう言って、小さな額縁を持ってきた。

 額縁の中には、僕が彼女にあげた似顔絵が入っていた。


「それ……わざわざ額縁に?」

「うん。だって、初めて小野くんにプレゼントしてもらった絵だもん。ついつい何度も見ちゃうの。自分の顔なのに、変だよね。でも……小野くんが描いてくれた絵だって思うと、いつまでも眺めていられるんだ」


 頬を赤くして、彼女は言う。


「私、もっと見たいな、小野くんの絵が。他にどんなのを描くのか、すごく興味あるの。今日みたいに一緒に名画を見に行くのも楽しいけど……小野くんがこれからどんな絵を描くのかが、すごい気になる」

「有坂さん、俺は……」


 彼女の顔を直視できない。

 うっとりと目を輝かせて、夢見るように見つめられても……きっと彼女が望むような絵を僕が描くことはもう無いのに。


 なのに……ああ、彼女から漏れ出る桃色が、濃くなっていく。


 その色の意味は、いったい何なんだ?

 君は、僕の絵に何を求めているんだ?

 ……もし、いまここで絵を描かないと言ったら、その色は何色に変わるのか。


「……雨、なかなか止まないね?」

「そう、だね……」

「……ねえ、よかったら、何か描いてくれないかな? 雨が止むまででも、いいから」

「止まなかったら?」

「泊まっていってもいいよ?」

「冗談を……」

「冗談じゃないよ?」


 少女は真顔で言った。


「私もね、自分で変だと思うよ? でもね、小野くんの絵のためなら、どんなことでも協力したいって本気で思っちゃうんだ」

「……そこまでの価値が、俺の絵にあるっていうの?」

「私にとっては、ね」

「わからないな」


 本当にわからない。

 彼女ほどの才女が、きっと誰よりも賢くものを考えられるはずの彼女が、僕の絵に固執する理由が。


「……ごめんね。ワガママ言っちゃった。迷惑なら、そう言って?」

「いや、べつに……。気にしてないよ」

「あのね。嘘じゃないから。小野くんがいいなら、私は本当に何でもするよ?」


 ドクン、と心の中の溶鉱炉が熱を灯す。

 何を、何を口にする気だ。

 止せ。抑え込め。だって僕らは、出会って間もないんだぞ?


「本当だよ? 絵のことはまだ詳しくないけど、私にできることなら何でもしたい。もちろんこの間みたいにモデルになることだって……」

「俺が、ヌードを頼んでも?」


 雨音が部屋を包む。


 言ってしまった。

 でも、彼女が口にしているのはそういうことだ。


 美術や芸術を高尚なものだと思うのは、その人の自由だ。

 でも、もちろんそんな側面ばかりじゃない。

 人が人を描く以上、醜い部分も、汚い部分も……そしてもちろん淫らな側面も、絵はすべてを内包する。


 僕はバカだ。

 せっかく彼女とここまで親しくなれたのに、たった一言ですべてを台無しにしようとしている。

 けれど……それが彼女のためかもしれない。

 僕と出会ってしまったがために、僕の絵を見てしまったがために……彼女の中で、何かが壊れてしまったのではないだろうか?


 僕とこれ以上付き合っていたら、いずれ彼女は、本来なら至るはずのなかった領域に足を踏み込んでしまうのではないだろうか?


 ……それこそ、僕が恐ろしく感じて逃げ出した、芸術の深遠のようなものに。


「いいよ」


 彼女は頷いた。

 頷いてしまった。


「小野くんにとって、それが必要なことなら」


 雨音の中に、衣擦れの音が混じる。


 彼女を止めろ。

 彼女はきっといま正気じゃない。

 だから止めろ。

 巻き込んではいけない。

 こっち側へ彼女を呼んではいけない。

 帰すんだ。普通の人間の世界に。

 僕も、そっちで生きなくてはいけないんだ。

 だから……だから……止まってくれ、僕の中の溶鉱炉。


 雨音と衣擦れの音。

 それを断ち切るように、電子音が鳴り響く。


 テーブルの上に置いた彼女のスマートフォン。それが震えていた。


「あ……」


 正気に返ったらしい彼女は、顔をリンゴのように赤くして身嗜みを整える。


「……ごめんなさい」

「いや。俺も、ごめん……」


 バカなことを口にしたのは僕だ。謝るべきなのは僕だ。


「……電話、いいの?」

「あ、そうだね」


 彼女は慌ててスマートフォンを手に取る。


 途端、彼女の顔が曇る。

 彼女を包んでいた桃色が、一瞬にして灰色に変わる。


「お母さんからだ」


 とても母親からの電話に対する反応とは思えない。

 笑顔なのに、瞳の色が淀んでいる。貼り付けたような笑顔だった。


「ごめんなさい。ちょっと電話してきても、いいかな? お母さん、心配性だから私の声聞かないと、落ち着けないみたいなの」

「あ、ああ、もちろん。俺に構わず」


 彼女の異様な雰囲気に呑まれてしまった僕は、頷くことしかできなかった。


「ありがとう。ゆっくりしていっていいから。さっきのことは、忘れて……」


 そう言って彼女は自室へと向かっていった。



 何だ? いまの彼女は? あれが、有坂乃恵か?

 違う。断じて違う。

 あの桜並木で出会った彼女とは、あまりにも。

 あれでは、まるで……。




 気づくと、雨音が止んでいた。

 雲はいまだに太陽を隠しているが、外に出ても問題ない天候になった。

 帰るならば、いまのうちだろう。

 一声かけるべきだと思ったが、少女はなかなかリビングに戻ってこなかった。


 ずいぶんと長い電話だ。

 心配性の母親と言っていた。娘のひとり暮らしなのだから、もちろん心配になるのはわかる。……けれど、ここまで時間がかかるものだろうか?


「……」


 唐突に、不安になってきた。

 彼女を包む色が、桃色から灰色になったのが気にかかる。

 桃色も含め、あんな寂れた色を見るのは初めてだった。


 僕はリビングを出る。

 勘を頼りに、彼女の自室らしき扉の前に向かう。


「ここかな?」


 ノックをする。

 返事はない。

 やはりまだ電話しているのだろうか?

 それにしては静かだ。

 周囲は無音に包まれている。


「有坂さん?」


 彼女を呼ぶ。

 やはり返事はない。

 不安が大きくなる。


 いけないと思いつつも、ドアノブを握っていた。

 鍵はかかっていなかった。

 恐る恐る開けていく。


「っ!?」


 扉の隙間から、黒い靄が溢れてくる。

 おどろおどろしい、墨よりもずっと濃い黒々とした靄が。


 もちろん、錯覚だ。

 錯覚がゆえに、神経に直撃する猛威。

 僕は思わず、吐き気を抑えてうずくまった。


 昔はこんなことはしょっちゅうだった。

 紗世に迷惑をかけるから、感じないように努めてきた。

 でも、これは……意識をシャットアウトしていても、入り込んでくる。


 闇だ。

 これは闇そのものだ。

 誰の?

 それは、もちろん……部屋の主のものだ。


「有坂、さん……」


 彼女は部屋の中でうずくまっていた。

 電話はとうに切れている。

 まるで投げ出したかのように、スマートフォンは彼女からは遠い場所で沈黙している。


「有坂さん、どう、したの?」

「小野、くん……?」


 僕の存在にようやく気づいた彼女は、ゆっくりと顔を上げる。

 彼女の美しい顔が、涙で濡れていた。

 いつも教室で浮かべる笑顔とは程遠い、泣き崩れた表情。


 どうして。

 どうして、そんな顔をしているんだ。

 母親との電話で、どうしてそうなるんだ?


 僕は彼女を怯えさせないように、ゆっくりと部屋に入る。


「大丈夫? 何か、言われたの? お母さんに」


 踏み込むべきなのか悩んだ。

 けれど、いまの彼女の様子は普通ではない。放ってはおけない。

 何か。何か僕にできることは無いか。


「小野くん……小野くんっ」

「わっ」


 傍まで寄ると、彼女は僕にしなだれかかってきた。

 背に手を回され、力強く服を握られる。


「あ、有坂さんっ!?」


 とつぜんのことに、僕は動揺するしかない。

 しかし、胸の中で泣く彼女を見て、拒めるはずがなかった。


「うっ、うぅ……小野くん……小野くん……」


 啜り泣きながら、彼女は僕の名を繰り返す。

 反射的に、僕は彼女を抱き留める。

 そうすべきだと思った。


「有坂さん、いったい……」

「小野くん……お願い。今夜は、泊まっていって……」

「え?」


 とつぜんの申し出に、僕は困惑する。

 彼女は本気で言っているようだった。

 いつも明るい、清楚な彼女が、まるでダダをこねる幼児のように、僕にすがりつく。


「お願い……傍に居て。ひとりに、しないで……」


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