#6 少女と美術館に行く。少女の部屋で純白の布を目撃する。

 ハプスブルク展にはずっと行きたいと思っていた。


 幼き許嫁、マルガリータ・テレサ。

 蜂腰で有名なエリザベト。

 そして、マリー・アントワネット。


 有名な肖像画を一度に何枚も見れる素晴らしきラインナップである。こんなチャンスは滅多に無い。

 数百年と歳月を越えても尚、人々を魅了する美しき女性たち。

 いつ来ても、直に見る絵画の迫力は違うなと感じる。

 マリー・アントワネットの巨大な肖像画を見て、僕は思わず感嘆の息を漏らした。


 やはりというべきか、マリー・アントワネットほどの有名人物ともなると、長い間立ち止まって鑑賞する人々が多かった。

 ……しかし、それはどうやらマリー・アントワネットの美貌だけが理由ではないようだった。

 僕は横の同伴者に視線を配る。


「わあ……」


 有坂乃恵は、想像よりもずっと大きいマリー・アントワネットの肖像画を前に言葉を失っているようだった。

 私服姿の有坂乃恵。

 高校生にしては、随分と気品のある服装で彼女はやって来た。彼女いわく「美術館に行くならちゃんと慎みを持った格好で来ないと!」と気合いを入れたらしい。

 そんなに畏まる必要はまったく無いと思ったが……しかし恐ろしいほどに似合っていた。

 有坂乃恵ほどの美少女ともなれば、大人向けの服装は決して背伸びしたものではなく、むしろ素晴らしく調和していて、彼女の美貌をより一層際立たせていた。


 ここに来るまで、彼女は当然のように街中で注目を集めていた。

 ただでさえ美しい少女が気合いを入れておめかしをしたのだ。一緒に歩いている僕は、随分と気後れしてしまった。「なんであんな男と……」と言わんばかりな視線が何本も突き刺さった。

 おかげでお昼に彼女と入ったロシア専門料理店のコースの味も、あまり覚えていなかった。


 一方、少女はずっと機嫌が良かった。「楽しみすぎて、よく眠れなかったよ」と照れくさそうに笑って、一緒に歩くことすら楽しんでいるかのようだった。

 彼女のそんな明るい様子は、ますます周囲を魅了して止まなかった。


 それは、美術館に来ても同じだった。

 名画に見惚れていたはずの人たちが、ふと横を見てみるとゾッとするほどに美しい少女がいることに気づいて、呆然としてしまっている。

 彼女の美しさは、名画の中においても耀いてしまうようだった。





 一通り見て回って、僕らは小休止ペースで寛ぐ。


「はぁ~……凄かった」


 少女は深く息を吐いて、夢見るような顔で宙を見ていた。


「小野くんの言うとおりだったね。画集で見るのとじゃまったく違うよ、迫力が」


 彼女がもしも退屈な思いをしたらどうしようかと心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。

 彼女の瞳には星のような光が瞬いていた。


「可愛かったねテレサちゃん! 生まれながらに誰かの許嫁とか可哀相って思ったけど……あんな肖像画を送られたら『絶対に大事にしよう』って思っちゃう! というか凄いのはエリザベトさんのウエストだよ! 本当に蜂みたいに細いんだもん! びっくり! どうやったらあんなに細くなれるの! でもやっぱり圧倒的なのはマリー様だよね! あんなに大きい肖像画を実家まで運ばせたの!? 当時の運搬技術で!? さすが王妃様って感じ!」


 彼女はどうやら興奮すると言葉が止まらないタイプらしい。

 教室でのお淑やかな雰囲気からは想像しにくい、彼女の隠れた一面だった。


「楽しんでもらえたなら、良かったよ。俺も今日は見に来れて良かった」

「ふふ。小野くん、すっごい熱心に見てたもんね?」

「え? そう?」

「うん。ちょっと声かけづらいくらいだったもん」

「あ、ごめん。美術館に来ると、いつもそうなんだ……」


 僕は熱中し過ぎるとヘタをしたら一時間以上も同じ絵の前で立ち止まってしまう。

 一度紗世と美術館に来たときは「もう二度と朝人とは美術館行かない!」と怒らせてしまった。


「もしかして俺のペースに合わせてくれてた? ごめん、全然気づかなくて……」

「うぅん。平気だよ? 私もじっくり見たかったし」


 彼女は本当にいい人だ。

 二人組で美術館に来るとき起こりがちなトラブルを、彼女は穏やかに受け入れてくれる。


「それに、真剣に見てる小野くんの横顔を眺めてるのも、それはそれで有意義だったし……」

「え?」

「……あっ。何でもない! いまの忘れて! そうだ! 売店行こうよ! せっかく来たんだし何か買って帰らなきゃ!」

「う、うん。そうだな」


 顔を真っ赤にして慌てる彼女に連れられて、売店へ向かう。


 ……僕が彼女の横顔に見惚れていたように、向こうも僕を?

 ……いや、まさかな。





「……有坂さん」

「……うん」

「ずいぶん、買ったね?」

「あ、あはは。つい」


 女子の衝動買いというものを甘く見ていた。

 美術館に行ったときに画集やポストカードを買うのは一種のお約束だが……彼女はそれらに加えて、ハプスブルク王朝印の紅茶セットやジャム、チョコレート等々……見事に名画に感銘を受けた人間がつい手を出してしまいがちな品々まで買っていた。

 すっかり大荷物だ。


「大丈夫? 全部持って帰れるソレ?」


 ただでさえ画集一冊だけでも相当重いというのに。


「だ、大丈夫だよ~。こう見えて私力持ちなんだから。よいしょっと……あうぅ」


 どう見ても大丈夫ではなかった。


「……」


 このときの僕は、ひょっとしたら人生で一番悩んだかもしれない。

 人によっては下心があると思われかねないし、怖がられるかもしれない。

 けれど女の子ひとりにこんな大荷物を持たせるのも良心が痛む。

 なので。


「その……俺が持つよ。家まで送るから」

「え?」


 思いきって言った。

 僕の提案に、彼女は口をポカンと開けて驚く。


「そ、そんな! 悪いよ~」

「でも、大変だろ? なんか雲行きも怪しくなってきたし」

「あ、ほんとだ。あんなに天気良かったのに……」


 いまにも降り出しそうな不穏な雨雲。

 こんな中で大荷物を持った彼女ひとり帰らせるのは、やはり不安だ。

 さすがの彼女も厳しいと感じたか、ペコリと素直に頭を下げてきた。


「……じゃあ、お言葉に甘えても宜しいですか?」

「宜しいですよ」


 僕も非力なほうだが、一応男だしこれぐらいは……って、本当にいっぱい買ったな。




    * * *




 彼女の住まいは立派な高層マンションだった。

 カードが無いとゲートもくぐれない、警備が徹底したやつだ。

 普段の所作から育ちが良いとは思っていたが、やはり有坂乃恵はいいところのお嬢さんのようだった。


「本当にありがとう。私の荷物なのに、ここまで運んでもらっちゃって」

「いいって。じゃあ、俺はこれで……」

「待って! せっかく来たんだし、良かったら上がっていってよ。お礼にお茶ご馳走するから」

「え? いや、さすがにそれは……」

「だって申し訳ないよ。このまま帰しちゃ」

「で、でもさ……」


 家まで送ることだって勇気を要したというのに、このまま彼女の部屋にお邪魔するなんて……心臓が破裂しかねない。

 だいたい、娘がとつぜん男を連れてきたら、ご家族は大騒ぎするのではないか?


「その、いきなりお邪魔したらご両親に迷惑だろうし、ご挨拶の品とか何も用意していないし、やっぱり今日はここで……」

「あ、その心配はしなくていいよ」

「え?」

「私、ひとり暮らしだから」




    * * *




「親と約束してたんだ。特待生になって学費免除になったら、ひとり暮らしさせてって」

「へ、へえ。さすがだね……」


 エレベーターという密室の中で、ぎこちなく受け答えする。


 学費免除になるほどの才女、有坂乃恵。僕はいま彼女が住む部屋に向かっている。親も兄弟姉妹も居ない、彼女だけが暮らす部屋に。


 いったい、どうなってるんだ?

 今日はもう十分に幸せな時間を過ごしたはずだ。

 有坂乃恵と駅で待ち合わせをして、有坂乃恵とお昼にロシア専門料理店で食事をして、有坂乃恵と一緒に美術館に行った。

 もうこの時点で、一生分の運を使ったのではないかと思うほどの幸運だ。

 ……だというのに、ひとり暮らししている彼女の部屋にお邪魔するだと?


 彼女も彼女だ。

 普通はもっと警戒すべきではないのか?

 本気で天然なのか、それともそれだけ僕を信頼しているのか、あるいは……。


 変な想像を振り払う。

 これはあくまで彼女の善意なのだから、妙な期待をいだいてはいけない。


「それにしても本当にいきなり降ってきちゃったね。雨が止むまで、ゆっくりしていっていいからね?」

「あ、うん。ありがとう」


 もちろん僕だって最初は遠慮して帰ろうとした。

 しかし、ああも外が土砂降りになっていながら無理に帰ろうとしたら「そこまでイヤなの?」と逆に彼女を傷つけるかもしれなかった。

 本当に、なんというタイミングで降ってくれたのか。


「……小野くんには申し訳ないけど、私的にはラッキーだったな、雨が降ってくれて」

「え?」

「もうちょっと、一緒に居たかったから」


 ポーンと音が鳴ってエレベータが目的の階に到着する。


「あ、有坂さん。それってどういう……」

「だって、まだいろいろ感想とか言い合いたいもん。美術館の」

「あ、ああ、そういう意味……」


 本当に、僕は何を期待しているんだ。


「ここだよ。さ、上がって上がって♪」

「お邪魔します……」


 まさか、出会って間もない女の子の部屋にお邪魔する日が来るだなんて思いもしなかったな。

 ……ってダメだというのに。変な考えをいだくのは。


 自宅とは明らかに異なる少女の生活感が漂う室内の香りを努めて意識しないよう、僕は理性を総動員させる。

 リビングに案内されるまで、なるべく周りのものを見ないようにした。


「ちょっと待っててね。いまお湯を沸かすから。ゆっくり寛いでて?」

「ああ、お構いなく……っ!?」


 ひとり暮らしするには広すぎるリビング。

 ソファに腰掛けて、しばらく大人しくしていようと思った矢先に、ソレは視界に入ってしまった。


「あ、あ、有坂さんっ!」

「んっ? どうしたの小野くん? そんなに慌てて……あ」


 彼女のほうも、僕の視線の先にあるものに気づいた。


 きっと彼女もうっかりしていたのだろう。

 そもそも今日は来客の予定はなかったわけだし、まさか異性を部屋に招くなんて彼女だって想像していなかっただろうし、ひとりの生活に慣れ始めるときっと僕も同じことをしてしまうのだと思う。


 丁寧に畳まれた衣服。

 その上に鎮座する、二枚組の刺繍が施された純白の布。

 少女はソレを素早く手に取って、胸元に隠した。


「お、お見苦しいものをお見せしました……」

「い、いや、俺のほうこそ、何だか、申し訳ない……」

「み、見なかったことにしていただけますと助かります……」

「記憶から消すよう努力します……」


 お互い真っ赤になっているであろう顔を逸らす。

 僕は宣言どおり見てしまったものを記憶から消去しようと試みる。

 衝動的に浮かび上がる煩悩と必死に戦う。


 想像以上にサイズが大きかった……。ダメだ忘れろ。

 意外とおっちょこちょいなんだな……。彼女の名誉のためにも忘れろ。

 しかし、さっきから良い匂いがするな……。いい加減にしろ思春期の僕。


「チョ、チョコレートの箱あけていいからね! 好きなだけ食べてね!」

「お、お言葉に甘えて」


 握りしめた二枚組の布と一緒に、彼女は逃げるようにリビングを出た。


「……はぁ」


 気まずい。やっぱり帰りたい。

 だが窓を叩く雨は、まったく止む様子がない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る