#5 美術教師に絵を見られる。少女と喫茶店に行く。

 あの絵は持ってくるべきではなかったのかもしれない。

 いまさら後悔しても遅いが。

 おかげで、いらぬ気苦労を背負い込むことになってしまった。


「ほうほう。これが学園一の美少女を泣かせた罪深き絵か~」

「やめてくださいよ。そういう言い方」


 放課後、美術教師に例の絵を見せる羽目になったのも、その気苦労のひとつだ。


 玉井瑠美。29歳独身。通称「タマちゃん先生」と生徒の間で呼ばれている美術教師は、いつも眠たそうにしているトロンとした目で僕の絵を眺める。


 有坂さんを保健室に送り届けた後、美術の授業に遅れた言い訳を教師にどう言ったものか悩んだ。

 考えた挙げ句、僕は素直に起こったことを話した。なんとなく、変に作り話をしないほうが良いと思ったからだ。

 堅物な教師なら「くだらん嘘を吐くな」と一蹴するところだったのだろうが、やはり美術教師というのは変わり者が多いのか「へ~。じゃあ放課後にその絵見せてよ」と、彼女は僕の絵に関心を示した。


「ふむふむ……君、美術部には入ってなかったよね?」

「入部する気はありません」

「べつに勧誘してるわけじゃないよ~」


 相変わらず聞いているこっちの気が抜けそうな間延びした声でタマちゃん先生は笑う。

 こういうペースが乱されるようなタイプは苦手だ。


「この間の似顔絵のときから思ってたけど、君だけ抜きん出てうまいから先生ってば驚いちゃったよ」

「どうも」

「美大に行く気なの?」

「まさか。ありえないでしょ。堅実な選択じゃないです」

「おいおい。元美大生を前にそんなグサリとくるようなこと言うなよ~」


 確かに美大生だった人間の前で口にするようなことではなかった。

 しかし彼女はべつに気を悪くするわけでもなく、僕の生意気な発言を嗜めるでもなく「まあ、事実だけどね~。はははっ!」と陽気に笑うだけだった。


 彼女を見ていると何だか腹が立つ。

 なぜ、いちいちそんなにヘラヘラしていられるのか。

 やっぱりハッキリと「見せたくないです」と言って無視するべきだったかもしれない。


「もう、いいですか? 俺も暇じゃないんです」

「え~、せっかくだから講評聞いていきなよ~?」

「あなたから受ける講評なんて無いです」

「私が『夢破れて高校教師している元画家志望』だからかな?」

「……」


 ヘラヘラしているくせに、妙なところでは鋭い。

 絵描きの中には、こういう人種がやたらと多い。

 だから、苦手なんだ。


「なんとなく、わかるよ。君が迷っている気持ちが」

「俺は迷ってなんかいないです」

「誰だって怖いさ。なんの保証もない道に進むのは」


 僕の発言を無視して彼女は続けた。


「確かに三浪もしておきながら在学中に結果を出せなかった私の指導なんて信用できないだろうけど……だからこそ教えてあげられることもあると思うんだよね~」


 風の噂で聞いた。

 彼女が美術部の顧問を務めてからというもの、毎年現役で美大に合格する生徒が増えたという。


「この絵、良いと思うよ。もちろんまだ受験で通用するレベルには達していないけど……自分の才能に見切りをつけるには、ちょっとまだ早すぎる気がするな」

「絵は趣味にするって決めたんです」

「うん、それもいいと思うよ。でもさ……」


 彼女はひと呼吸置いて、真顔になった。


「君が描いた絵は、見た人に涙を流させた。それは、まぎれもない事実なんだよ?」

「……だから、何だって言うんですか?」

「誰にでもできることじゃない、って言ってるんだよ。有坂さんはこの絵を見て、何かを感じ取ったわけだ。未成熟な絵の中に光る原石みたいなものをね」

「それを耀かせられなきゃ、結局意味がないでしょ?」

「だからこそ描き続ける必要があるんだよ。現に君はまだ描いてる。それってさ、なんだかんだで……」


 やめろ。それ以上言うな。

 なんで、そんな何もかもわかったみたいに……。


「完全に断筆しきれていないってことはさ──君は、まだ自分の可能性を心のどこかで信じているんだよ」


 胸の中の溶鉱炉から、炎が噴き上がりそうになる。

 それを、僕は必死に抑える。


「……失礼します。約束があるので」


 もちろん嘘だ。約束なんて無い。とにかく、これ以上この人と一緒に居たくなかった。


 ブレそうになる。覚悟が。


「美術部はいつも部員を募集してるよ~。いつでもおいでね~」

「絶対に行きません」


 特にこの教師が居る美術部なら、尚更に。


 選択美術を取ったのは失敗だった。

 一学期の終わりまでこの教師と顔を合わすとか最悪だ。


「ねえ、小野くん。教師としては生徒の意思を尊重したいから、あまり込み入ったことは言えないけどさ……でもね? 元画家志望として、これだけは言わせてもらうね?」


 陽気な笑顔の裏に、意地の悪い色を加えて彼女は言った。



「宙ぶらりんな男はさ、一番かっこ悪いよ?」



 本当に、最悪だ。



    * * *



 廊下を歩いていると、ヒソヒソと話す声が耳に届く。

 噂が広まるのは早いなとしみじみ感じる。


 有坂乃恵を泣かせた。授業をほったらかしにして保健室に連れて行った。


 思春期の想像の翼を広げるには十分すぎるイベントだ。きっと事実よりも歪曲した形で話は出回っていることだろう。

 無理もない。だいたい、絵を見て泣いた、なんて話を誰が信じるのか。


 短い夢だったな。と思う。

 僕の高校生活はこの先どうやら灰色に染まってしまうようだ。

 せめて幼馴染の紗世だけは味方でいてほしいとは思うが、彼女も彼女で噂を信じ込みやすいタイプなのであまり信用ならない。

 世間体を気にして「え? アタシに幼馴染なんていませんけど?」とちゃっかり言い出しかねない。


 とても辛い。卒業まで僕の精神力は保つだろうか?

 とにかく、こうして好ましくない噂が広まった以上、有坂乃恵もさすがに僕と一緒にいることを気まずく思うに違いな……。


「おーのーくーん!」


 とか思っていたら件の少女がもの凄い勢いでこちらへ来た。


「あ、有坂さん?」

「や、やっと見つけた。もう帰っちゃったかと思った……」


 周りの好奇の視線も気にせず、少女は僕の前で息を整える。

 保健室に送った後、どうも気まずそうに僕と目を合わせようとしなかったので、てっきり避けられていると思ったのだが……。


「小野くん」

「は、はい」

「喫茶店に行こう!」

「え?」


 ガシッと少女に手を掴まれる。


「お詫びをさせて! せっかく素敵な絵を見せてもらったのに私泣いちゃったりして! 授業に遅刻させちゃって! しかも泣いた私が悪いのに何か避けてる感じになっちゃって! 恥ずかしかったの! 許して! とにかくごめんなさい! だからお詫びにご馳走させて!」

「お、落ち着いてよ有坂さん。なんか凄い注目されてる、から……」


 矢継ぎ早に謝罪の言葉を連ねる彼女を物珍しそうに見る生徒たちの視線。


「……あ」

「あ」


 その中には幼馴染の紗世のものもあった。

 あたかも「いまちょうど話しかけようとしたが思わぬ相手に先を越されてしまい気まずそうに佇んでいる」……そんな状態だった。


「小野くん怒ってる? やっぱり怒ってるよね? そうだよね……でも誤解しないで! 私、あの絵を見て本当に感動したんだよ? 絵を見て涙を流したなんて初めてだからいろいろ戸惑っちゃって、どんな顔すればいいかわからなかったの! うぅん、こんなの言い訳。とにかく仲直りしましょ! 喧嘩とかしてたわけではないけど仲直りの握手しましょ! そして一緒に喫茶店に行きましょ! この間の散歩でいいところ見つけたの! 案内するね! 小野くん甘いの好き? 苦手なら甘さ控えめのパウンドケーキとかボリュームたっぷりのハンバーガーもあるから安心して……」

「わかった。わかったよ有坂さん。仲直りしよう。喧嘩したわけではないが仲直りしよう。だから落ち着こう」


 これ以上、注目を浴びるのは耐えられない。

 とりあえずいまは興奮気味の彼女を連れて、この場を離れよう。

 向こうで固まっている幼馴染にはジェスチャーで「すまんが話はまた今度」と伝えて、逃げるように校舎を出た。




 このとき慌てている僕は気づかなかった。

 急ぐあまり、有坂乃恵と手を繋いで校舎を歩き回っていたことを。


「あ……」


 彼女は顔を赤くしつつも、決して拒む様子はなく、どころか……。


 このときの僕は、何も気がついてはいなかった。




    * * *




 小さいが、落ち着きのある静かな喫茶店だった。

 この前の花見の帰りに、ひっそりと開店しているところを見つけたのだという。


「いい雰囲気でしょ? 昔ながらの喫茶店って感じで素敵だと思うの」

「そうだな。俺もこういう感じ、好きかな」


 店内には穏やかなクラシック音楽が流れている。サティやラヴェルやドビュッシー……好きな選曲だった。


 とりあえず僕らは紅茶とケーキを頼んで、一息吐いていた。


「あらためて、ごめんね小野くん……今日は迷惑かけちゃって……」


 平静さを取り戻した彼女は、縮こまるように頭を下げた。


「気にしてないよ。むしろ謝るのは俺のほうだよ。あんな絵見せちゃったせいで……」

「小野くんが謝ることじゃないよ! さっきも言ったけど、私ね、本当に感動したんだよ? 見た瞬間、自分でもよくわからない感情でグチャグチャになっちゃって……あ、でも悪い意味でじゃないよ? 本当に、本当に素敵な絵だと思ったの。だから……」


 彼女は必死にふさわしい言葉を探しているようだった。

 けれど、絵の評とは常々そうであるように、はっきりと言語化はしにくいものだ。言葉にすると却って陳腐なものに成り下がってしまうのではないかと、躊躇してしまう。


 ……それだけのものを、彼女はあの絵から感じ取ったというのか。


「私ね。いままで教科書に載ってる名画とか見ても、ぜんぜん何も感じてこなかったの。なのに、どうしてかな? 小野くんの絵には心を動かされる気がしたんだ。自分でも本当に不思議なんだけど……びっくりしちゃった。私って、絵を見て泣けるんだって」

「それは……たぶん有坂さんが、まだ実物の名画を見てないからじゃないかな?」

「え?」


 僕は彼女に語る。

 まるで、べつに僕の絵が特別なワケではないと、言い聞かせるように。


「今度、どこかの美術館に行ってみるといいよ。実物の絵をね、肉眼で見るとぜんぜん違うんだ。画集で見るのとじゃ、印象がまるで変わってくるから。これ、誇張じゃないよ?」


 小さい頃は数えきれないほどの美術館に通って、何枚もの名画を見た。

 はじめはインターネットで画像検索すれば見れるものを、なぜお金を払ってまで見に行くのか理解できなかったが……いざ本物の名画を前にしたとき、その考えは吹き飛んだ。


 世界に一枚しかない、それも何百年も前の絵画を生で見るという経験。

 その経験をした者と、しなかった者との差は、歴然と出るのだと思い知った。


「たぶん小学生の頃とかなら一度授業の鑑賞学習で行った経験あるかもしれないけど……いま見に行ったら、小さい頃とはまた違う印象を受けるんじゃないかな? これは本の受け売りだけど、一流のビジネスマンたちほど必ずというほど定期的に美術館に通って刺激を得て、感性を磨くんだってさ」

「美術館、か……」


 彼女ほどの才女なら、真の名画の価値にすぐ気づけるだろう。

 僕の絵を見て、彼女は涙を流すほどに感動した。

 それは、本当に嬉しい。誇らしく思う。


 でも……たとえ彼女が僕の絵から何かを感じ取ったのだとしても、きっとその感動は美術館に行くことで塗り替えられるだろう。

 彼女には本当の絵画というものを知ってほしい。

 好き好みはあるだろうが、僕のようなアマチュアの絵よりも、きっと多くの感動を得るはずだ。


 そうであることを願う。

 でなければ……。


『有坂さんはこの絵を見て、何かを感じ取ったわけだ。未成熟な絵の中に光る原石みたいなものをね』

『完全に断筆しきれていないってことはさ──君は、まだ自分の可能性を心のどこかで信じているんだよ』


 ノイズを振り払う。


 思い上がるな。

 彼女はまだ本物の芸術品を見ていないだけ。

 だから、何かを期待しちゃいけない。

 そう言い聞かせる。


「最近のだとオススメは……『ハプスブルク展』かな? 貴重な作品がいっぱい来日してるはずだから、是非行ってみるといいよ」

「そっか~。じゃあ次の休みに一緒に行こ♪」

「え?」


 満面の笑みで、彼女はさも当然のことのように言った。


「お恥ずかしながら名画のこととかさっぱりなので、小野くんがいろいろと教えてくれると嬉しいな」

「ちょ、ちょっと待って有坂さん。一緒にって……俺と二人で?」

「え? うん。そうだよ?」


 何を言ってるの? という具合に彼女は首を傾げる。


「楽しみだね♪ 小野くんの言うとおり美術館に行くなんて小学生以来だよ~。ドキドキするな~」

「あ、あの有坂さん。俺はその……そんなつもりじゃ……」

「え? ……あ、ごめん! 小野くんの予定も確認せずに勝手に決めて。もしかして、もう誰かと約束しちゃってた? ……ひょっとして、片桐さん、と?」

「え?」


 とても不安げに彼女は尋ねてくる。

 なぜここで紗世の名前が出てくるのかはわからなかったが、まるでそこが最も重要だと言わんばかりの気配を漂わせて、彼女は答えを待っている。


「いや、べつにそういうわけじゃないんだけど……」

「じゃあ、予定空いてる?」

「う、うん」

「よかった~♪ じゃあ一緒に行こうよ!」

「いや、その……いまどきはソロで行くのは珍しくないし、ひとりだからって変な目で見られないと思うよ?」

「え~!? ひとりで行くなんて不安だよ~! 私、映画館だってひとりで入れないもん!」

「な、なら、他の友達とか誘って……」

「もう~! 私は小野くんと行きたいの!」

「わっ!?」


 テーブル越しに彼女の美顔が迫ってくる。

 子どもっぽく頬を膨らませていても、彼女の美しさは損なわれない。


「小野くんは、イヤなの? 私と一緒に美術館に行くの?」


 むぅ~、とジト目で睨んでくる。

 それすら愛らしくて、僕は真正面から彼女を見ることができなかった。


「え、えっと……イヤなんかじゃ、ないよ」


 目を左右に泳がしながら、そう答えるのが精一杯だった。


「……あはっ。じゃあ決まりね♪ 約束破っちゃヤダよ?」

「う、うん」


 彼女の勢いに負けて、つい了承してしまったが……これ、完全にデートの約束じゃないか?

 彼女は自覚しているんだろうか?


「あ……」


 というか。

 こうして喫茶店で一緒にお茶しているのだって、傍目から見たらデートそのものだ。

 そのことにようやく気づいた僕は、カァッと全身を熱くさせた。


「えへへ。週末が楽しみだね、小野くん♪ はむっ……う~ん♪ やっぱりここのケーキおいしい~♪」


 こっちの気も知らず、彼女は機嫌良さげにケーキを頬張るのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る