#12 私のキリスト。恋人の嫉妬。

 乃恵の絵を何枚も描いてきた。

 「次はどうしようか?」と何度も試行錯誤してきた。

 だから、考えなかったわけではない。

 次の段階を。


 乃恵の裸体を描くことを。


 どうして画家はヌードを描くのか。


 肉体美の追求。

 精神性の追求。

 単なる欲望の延長。

 作品として昇華されるなら理由は何だっていい。


 けれど、絵画教室の先生は僕にこう言った。


 裸はやっぱり、人間の本来の姿だから。

 美しい面も、醜い面も、ヌード画はすべてを暴き出す。

 人の裸体を描くことは解剖に似ている。

 モチーフの本質に迫る行為だから。


 もしも、誰かをモチーフに描きたくなったのなら。

 その人のすべてを絵で表現したいというのなら。

 ヌードデッサンは、避けては通れない。




 一度だけ、セルフヌードを描いたことがある。

 自分の身体なら、最後まで描けるのではないかと思ったからだ。

 自画像でもそうだが、自分をモチーフにするというのは妙な感覚だった。

 普段、洗面所や風呂の鏡で見ているものだが、もちろんマジマジと観察しているわけじゃない。


 だから、意外にも発見は多かった。

 いつのまにか覚えのない箇所に黒子ほくろができていたとか。

 男性ホルモンがちゃんとあるのか心配になるほどに体毛が薄いと思ったが、よくよく見ればしっかり生えていたとか。

 ろくに外に出て運動もしていないから、日に焼けていない青白い身体には筋肉もない。

 男にしては小食だから、全身も情けないほどに細い。


 なんとも見映えのない身体だった。モチーフとしてまるで魅力がない。

 それでも不思議とスラスラ描けた。

 気恥ずかしくはあったが、抵抗感は無かった。

 それはやはり他人の身体ではなく、自分の身体だからだろう。


 そして自分の綺麗な部分も、汚い部分も理解していたからだろう。


 乃恵も、知りたがっている。

 自分の美醜を含めた、ありのままの姿を、僕の手で描いてもらうことを。

 そして、それが僕の成長に繋がるというのなら……彼女は迷わない。


 衣服を脱ぎ、純白の下着姿となった乃恵。

 僕が頷けば、乃恵はその場で生まれたままの姿になっただろう。

 でも……。


『……考えさせてくれ』


 僕にはまだ勇気がなかった。

 有坂乃恵の本質に迫ることに。

 それを描く責任の重さを受け入れることに。

 絵描きとして、モデルとして、お互いに一線を越えることに。




    * * *




 選択美術の最後の課題は自由課題だった。

 色鉛筆、クレヨン、水彩、アクリル、油彩、切り絵、手段は問わない。自由に好きなものを描いて提出すること。

 こういったお遊び感覚の授業では手を抜く者がほとんどだが、思いのほか生徒たちは真剣に自分の課題に取り組み、各々が力作を完成させた。


「ええ~皆さん。初日と最後の絵を見比べてどうでしょう? 描き続けることで絵はどんどん良くなることを実感できたのではないでしょうか? どの作品も独特で創意工夫されていて、先生はとても感銘を受けました。もともと絵が好きでこの授業を選んでくれた人も、ちょっと興味があって試しに選んでくれた人も、そうでない人も、これをキッカケにもっと美術に関心をいだいてくれたら、先生としてはとても嬉しいです。それでは今日までお疲れ様でした。良い夏休みを」


 珍しく改まった様子で、玉井先生は授業を締めくくった。

 何だ。この人も真面目に教師らしいことが言えるのかと感心した矢先。


「あっ、ちなみに夏に私の個展があるので良かったら来てね~! チケット山ほどあるからお友達にも配ってね~! よろしく~♪」


 いつもの陽気な笑顔で無理やり生徒全員にチケットを数枚手渡してきた。

 やはり最後まで締まらない人だ。


 しかし、個展か。

 たとえ小さい舞台でも作品を発表するあたり、この教師もべつに夢を諦めたわけではないということか。


 ……まあ、どうでもいいが。

 どうせもう関わることがない人だ。

 次の選択授業は紗世と同じように書道にでもしておこう。


「あっ、小野く~ん。君はちょいと居残り~」


 さっさと美術室から退室しようとすると、最初から狙っていたのか、玉井先生に呼び止められる。

 舌打ちになりそうになるのを堪える。


「……何ですか? 課題はちゃんと提出しましたよね?」

「ん~。まあ、ちょっと個人的に話があるだけさ~」

「なら放課後でもいいでしょ?」

「ダメだね。絶対に来ないでしょ君? 逃がさんぞ~」


 意地の悪い笑顔でワキワキとやらしく手を動かす独身教師。

 ……まったく、こうして絡まれるのがイヤだからさっさと抜け出したかったのに。


 僕と一緒に教室に戻ろうとしていた乃恵と目が合う。

 視線で「助けてくれ」と彼女に請う。


「えーと……」


 学園ではただの同級生として振る舞うという約束だが、それでも何か助け船を出してくれることを期待した。

 しかし。


「じゃ、じゃあ、先に教室に戻ってるね小野くん?」


 と言って乃恵は気まずそうな笑顔で去っていった。

 裏切り者め。


 ポンと肩に手を置かれる。


「よしっ。じゃあ先生と熱く語り合おうか」


 帰りたい。


「とりあえず聞きたいんだけどさ……コレ、わざと?」


 そう言って玉井先生は一枚の絵を取り出す。

 僕が提出した自由課題だ。


「……べつに手は抜いていませんよ?」

「うん。それはわかるよ。でも……君なら、もっと凄いの描けたよね? 最後の課題がコレってのはちょっと勿体ないんじゃない?」


 僕が提出した自由課題はシンプルな鉛筆デッサンだ。

 モチーフは適当に目の前にある筆記用具を選んだ。

 だからといって雑に描いてはいない。一応作品として成立するように仕上げたつもりだ。


「自由課題なんだから何描いたって許されるのでは?」

「まあ、そうだけどさ……モヤモヤするんだよね~。先生ってばもっと迫力のある絵を期待していたからさ」


 周りの生徒たちが気合いを入れて製作していたぶん、僕の作品は確かに地味だ。

 というより、必要以上に主張を抑えた作品となっている。


「そんなに私に見せたくないかい? 自分の絵を」


 あの桜の絵を見られて以降、僕はこの授業では本腰を入れて描くまいと決めていた。

 それがこの教師にとっては気に入らないようだ。


「……年末にさ、年齢経歴不問の大きなコンクールがあるんだ。締め切りはちょうど夏休みが終わる頃。先生もこの夏の間に描き上げる予定」

「そうですか。がんばってください」

「君は出さないの?」

「興味ないです」

「一度くらいやってみたらどう? こういう大きい舞台で自分の腕を試すのも」

「……何でそこまで俺に構うんですか?」

「勿体ないからに決まってるじゃないか。せっかくそんなに描けるのに。自分から才能を腐らせようとしている生徒を見たら美術教師としては見過ごせないよ」

「世間に認められる絵を描くことだけが絵の道じゃないでしょ?」

「だったら、君は何のために絵を描いてるの?」

「それは……」


 僕の絵はひとりの少女のためだけに。

 彼女だけが僕の絵の価値を知り、僕の絵によって救われるのなら、それ以上は望まない。そう思っているのに……。


「ねえ。この絵じゃ不完全燃焼なんじゃない? 本当は、もっと大きいことしたいと思ってるんじゃないの?」

「…………」


 やはり、この教師は好きじゃない。

 何もかも見抜いたようなことを言って、僕の覚悟を揺さぶってくる。


「……話はそれだけですか? だったら、もう教室に戻るんで」

「んっ。まあ、ゆっくり考えるといいよ。相談なら夏休みでも乗るからさ」

「しませんから」

「あっそ。じゃあ良い夏を~。個展には是非来てね~♪ 有坂さんと一緒に♪」

「……何でそこで有坂さんの名前が出てくるんですか?」

「あれ? てっきり付き合ってるものだと思ってたけど、違うのかい? 授業中もあんなに見つめ合ってたりしてたのに」

「それは……モチーフを観察してるときにたまたま目が合ったんですよ」

「たまたまね~。それが何回も起こるもんかね~?」


 ニマニマといやらしい顔で玉井先生が見てくる。

 ……乃恵め。だから授業中はあんまり見つめてくるなと言っているのに。

 交際を隠せていると思っているのは実は当人の僕らだけで、すでに結構な人数にバレているのかもしれない。


「まあ、生徒の恋愛にあんまり横槍を入れるつもりはないけどさ~……ん~、有坂さん、実は結構重い女の子だったりするのかね?」

「……何でそう思うんですか?」

「彼女の自由課題を見ると、ちょっとね……。小野くんは見た? 有坂さんが最後に描いた絵」

「いえ……」


 恥ずかしいから、という理由で見せてもらっていない。


「……見せてあげようか? 有坂さんには内緒で、だけど」

「教師がそんなことしていいんですか?」

「普通はしないね。でも、君は見ておいたほうがいいかなと思って」

「…………」


 乃恵には悪いと思いつつも、好奇心を抑えられなかった。


 それは水彩絵だった。

 桜色が滲む空間で、ひとり佇む少年らしき影。

 彼が立つ周りだけ、まるで太陽が光っているかのように真っ白に染まっている。

 少年は片手に筆を持って、もう片方の手には何故か心臓らしきものを握り、何色もの色を塗りたくっている。


「これって……もしかしなくても小野くんなんじゃない?」


 玉井先生が、恐る恐る訪ねてくる。


「なんかさ。女の子が恋する気持ちを絵にしたとか、そういう微笑ましい作品なら良かったんだけど……この絵から感じ取れるのは、そういうのじゃないんだよね」


 玉井先生は、どこか畏怖を孕んだ声色でそう言う。


「ねえ、小野くん。もしもさ。もしもこの先も彼女と付き合っていくっていうなら……いまのままだと、彼女、危ういかもしれないよ?」


 これから何が起きるのか。

 まるで見通すかのように、彼女はそう忠告した。


 乃恵の作品。

 タイトル欄にはこう記されていた。



『私のキリスト』




    * * *




 それから数日。

 終業式を終えて、夏休みが始まった。

 途中で合流した乃恵と一緒に彼女のマンションへ向かう。


「……何でそんなに怒ってるんだ?」

「べっつに~?」


 せっかくの長期休暇が始まるというのに、乃恵はご機嫌斜めだった。


「私のご機嫌を窺うより、もっと気を遣う相手がいたのではなくて?」


 わざとらしい他人行儀で乃恵はジ~ッと睨んでくる。


「良かったの? 片桐さんと打ち上げしてこなくて」

「いや、だってそれは……」


 紗世は終業式から解放されるや「自由だ~! さっそくファミレスに行くわよ朝人!」とハイテンションとなって僕を誘ってきた。

 もちろん断った。

 恋人とのひととき以上に優先すべきことなんてない。


 僕がそう伝えても、乃恵はなかなか機嫌を直してくれなかった。


「……『補修無しだ~。ありがとう朝人~アンタのおかげだ~。愛してる~』ですって」

「うっ……」


 紗世の声真似をして、乃恵はふて腐れる。


「あいかわらず仲の良い幼馴染のようで」

「あ、あんなの冗談に決まってるだろ?」

「ふ~ん。片桐さんは冗談でハグまでするんだ? しかも教室のど真ん中で」

「それは……アイツが単にアホだからだ」


 いくら赤点をギリギリで回避できたからといって、皆がいる中で抱きつく紗世がどうかしている。

 おかげで女子たちはキャアキャアと色めき立つし、男子たちからは羨望と憎しみの視線をぶつけられた。

 そして恋人は完全にお冠である。


「『愛してる~』ですって!」


 そこが最も許せんとばかりに強調して、乃恵はズンズンと先を進んでいく。


 乃恵はどうも紗世に対抗意識を燃やしている節があったが、今回ばかりは恋人である自分以上に親密な様子を見せつけられて、堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。

 紗世とは兄弟姉妹みたいなものだと言っても、乃恵はなかなか納得してくれない。


「頼むよ。許してくれよ」

「……じゃあ、部屋に着くまで、どうやったら許してもらえるか考えて?」

「え? あ、うん……」


 そのままプンプンと不満顔を浮かべる恋人と一緒にマンションの最上階へ向かう。


「…………」


 お互い無言のまま部屋に入ると、乃恵は期待を含んだ眼差しを僕に向ける。


 口にしなくても、わかってほしい。

 そう顔が訴えていた。


 数日前の僕ならどうすればいいかわからなかっただろう。

 でもいまは……。


「んっ」


 彼女の細身を抱きしめ、そのまま口を塞ぐ。

 夏日で火照った身体がより熱くなる。接触した部分も、より熱を帯びて、いまにも蕩けそうだ。


「んっ……んぅっ」


 溜めに溜めていたものを爆発させるように、乃恵が力強く抱きついてくる。

 紗世よりも深く、己の感触を植え付けるように。

 激しく、激しく求めてくる。


「……はぁ……はぁ……」


 上気した顔と見つめ合う。

 不機嫌な表情はどこへやら。

 色めき立った乃恵から溢れるのは、怒りの緋色ではなく、濃密な桃色だけだった。


「私だって……」


 胸元に顔を埋めて、頬をこすりつけながら、乃恵は恥ずかしげに呟く。


「私だって……あ、愛してるもん」


 この気持ちだけは、絶対に誰にも負けない。

 そう言い聞かせるように、今度は乃恵から口を塞いできた。


 重なり合う身体と心。

 僕たちの関係は確実に前に進んでいる。

 そのはずだ。

 そう信じている。

 不穏な要素など、あるわけがない。


 だが……。

 頭に過るのは、乃恵が描いたあの絵。



『いまのままだと、彼女、危ういかもしれないよ?』



 乃恵との夏が始まる。

 彼女と出会って、すでに100日が経とうとしていた。


 何かが大きく変わる予兆を、僕はこのとき、すでに感じ取っていたのかもしれない。

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