#1 絵を描く。桜並木で美少女と出会う。

 今年も無事、綺麗な桜が咲いた。

 近隣にある桜並木は毎年そこだけ空間を切り取ったかのように桜色の別世界を造り出す、ちょっとした有名スポットだ。

 周りには花見にやってきた通行人や桜を撮影するカメラマン、僕のように桜風景をスケッチしに来た絵描きがいる。

 お気に入りの場所にイーゼルとキャンバスを設置し、僕も油彩絵の具で絵を描き始める。


 さて今年はどんな風に描こう。桜の絵を描くことは僕にとって、その一年に蓄積した技術を遺憾なく発揮するための恒例行事である。同じ場所であえて去年とは異なる画風に挑戦するのだ。この試みは毎年楽しい。自分の成長を実感できるからだ。

 桜の風景画は妹の楽しみでもあった。


『おにぃって冴えない陰キャなのに本当に描く絵はキラキラに耀いてるよね! 真昼まひるこの絵好き!』


 と言って完成した絵を毎度自室に飾ってくれる芸術に理解のある、できた妹だ。

 べつに妹のために描くわけではないが、今年も納得のいく良い出来映えにしてみせよう。


 もしかしたら、桜の絵を描くのはこれが最後になるかもしれないのだから。


 ……なんてことを呟くと人はすぐに闘病ものの悲劇を連想する。映画館の予告とかで必ずというほど見せられるお涙頂戴な安っぽいアレだ。

 そういうのを見て「かわいそう」と叫んで号泣したい人には申し訳ないが、べつに僕は不治の病を抱えているとかではない。健康診断では常に問題なし。注意書きの欄には「日常的に運動をしましょう」と書かれる程度だ。

 今年から高校生となるのだ。まだまだ若い時代の青春を謳歌したい。


 ただ、その青春の中に「絵を描く」ことが含まれるかは、正直わからない。来年の今頃は筆を折って勉学に勤しんでいるかもしれない。

 べつに絵を描くことに嫌気が差したわけじゃない。絵を描くことは小さい頃から好きだ。

 ……ただ、その「好きなこと」をどこまで本気でやるのか。そういうことを真剣に考える段階にきたと感じる。


 美大に行く気なのか? と父親と教師は進路相談の場面で、何度も恐る恐る僕に尋ねた。

 周りの同級生や幼馴染は「それだけ上手いなら目指してもいいんじゃない?」と言った。妹も「おにぃなら絶対に画家になれるって!」と応援してくれている。

 もしも本気で絵を続けるなら、いま以上に技術を磨きたいなら、美大や芸大を目指すべきだろう。画家として大成し、絵を描いて暮らしていければそれは素敵なことだ。

 そして、そんな甘い世界じゃないことは百も承知である。


 莫大な学費、画材にかかる費用、そして潰しのきかない経歴を作ること。

 そういった諸々のリスクを承知してまで芸術の道に進むのか、と問われると簡単に頷くことはできない。そもそも自分の画才がどこまで通用するのか、なんの確証も無いというのに。


 いくつもの受賞歴があるとはいえ、所詮は小さい規模のコンクールばかりだ。世の中には本当の天才というものがゴロゴロいる。その天才たちと競い合って自分の絵が脚光を浴びれるのか。絵描きとして生き残れるのか。これまで描いてきた絵を眺めて、自分に何度も問いかけた。


 見事な桜吹雪が舞っている。描きがいのある景色だ。自然と筆が乗っていく。とても楽しい。

 僕は絵が好きだ。だからこそ絵を辛いものにしたくなかった。

 そう考える時点で、僕の絵に対する「好き」は美大、芸大を本気で目指す人たちの「好き」とは違うのだろう。

 一度は美術科のある高校に進学することを考えたが、最終的に近場にある私立の進学校に行くことを決めた。無事にこの春から通うことになる。父と教師は僕の選択に安堵した顔を浮かべた。


 本気で絵を描く人間は誰しも自分の「テーマ」を持っている。

 身の内から湧く激情を止められないから、吐き出さざるをえないからこそ表現する。

 僕にはそこまで表現したいものがない。美大や芸大を目指さない一番の理由はそれなのだ。ただ楽しく絵が描ければそれでいいと思っている僕では、自分の「テーマ」を明確に理解して錬磨する人たちと同じステージには立てない。


 だからを描くのはこれが最後だ。

 あくまで趣味として描き続けるなら、絵は自分にとって楽しいもので終わる。絵に関わりたいなら美術部に入部すればいいだけの話だ。大人になっても、ときどき思い出したように好きに絵を描ければそれで十分じゃないか。

 ……そうして、だんだんと絵から離れていくのだと思う。


 「好き」という気持ちは溶鉱炉に似ている。抑えられないほどの感情はどんなものもドロドロに溶かし、火の息吹を上げて、新しいものを次々に精製していく。

 だが自ら溶鉱炉を止めてしまえば、どんなに熱したものも時間と共に冷めていく。溶鉱炉を燃やし続けられる人が本当に才能のある人だと僕は思う。

 絵の技術は年々上達していった。それに反して、僕の溶鉱炉の火がどんどん弱まっていくのを感じている。

 絵に正確なデッサン力や技術は確かに必要だ。でも最も肝心なものを僕は育んでこなかった。


朝人あさとくんは、何が好きなの?』


 絵画教室の先生がよくそう聞いてきたのを思い出す。絵が好きというだけでは足りない、溶鉱炉を燃やし続けるために必要な燃料。結局、僕はそれを見つけられなかった。


 見切りをつけるには尚早すぎるかもしれない。だがこの手の世界に関しては、早いに越したことはないと思う。


 僕は絵が好きだ。その気持ちが残っているうちに、できる限り良い絵を仕上げたい。

 思い残すことがないように、僕にもこれだけ打ち込める何かがあったと笑顔で懐かしめるように、良い桜の絵を描こう。


 キャンバスに桜色の世界が生まれていく。でもいまいち迫力がない。どう色を加えていこうか。

 もっとだ。もっとよく観察しよう。いつもと同じ場所で描いているが、桜に対する印象は毎年変わる。だからこそ感じるものを絵に落とし込まなければならない。

 桜並木をより深く観察すべく、キャンバスから顔を上げる。


 景色が変わっていた。

 違う場所に瞬間移動してしまったのではないかと本気で疑うほどに、そこは別世界になっていた。


(え? あ?)


 違う。桜並木に変化はない。景色の印象が変わったのだ。

 たった一人の、少女の存在によって。


 少女は特別目立つような姿格好をしているわけではない。

 腰に届くほどの長い黒髪。白のブラウスに藍色のロングスカート。ピンクのカーディガンと、シンプルで清楚な服装。クリーム色の日傘を差して、周りの通行人と同じように春の桜を眺めながら歩いている。

 ただそれだけ。それだけだというのに……。

 桜を眺めていたはずの通行人たちが、足を止めて少女を見る。

 桜の写真を撮っていたはずのカメラマンが、レンズの先ではなく少女を見る。

 桜のスケッチをしていたはずの絵描きが、手を止めて少女を見る。


 誰もが思わず少女に目を奪われた。

 それほどに、少女は美しかった。現実離れした美しさだった。

 絵画でも理解を超えた美しさは人々を魅了するものだが、少女の容姿や雰囲気には、それ以上の何かがあった。

 たとえどれだけ控えめな服装をしていても、どうあっても人の目を惹きつけてしまうような常軌を逸した美貌の持ち主だった。


 柔らかい春風が吹く。彼女の長い黒髪が桜色の花弁と一緒にたゆたう。光沢を持った艶やかな黒髪は、触れなくともさらりとした質感を含んだ極上の髪質であることがわかる。

 枝の切れ間から陽の明かりが差す。ちりちりと舞う花弁が桜色からまるで白色に耀く光の粒子のようになって、少女の周りに散っていく。

 まるで自然すらも彼女の美しさに魅了されてしまったのではないかと思うほどに、いまこの空間は彼女のものだけになっていた。

 世界の祝福を、少女だけが一身に受けている。そう感じざるを得ない光景がそこにはあった。


 少女は周囲の視線も気にせず、大きな瞳を輝かせながら桜を眺めている。こんなことにはもう慣れっこなのか、それともただ鈍いだけなのか、少女はあくまでごく自然に散歩をしているだけのようだ。

 そんな少女の自然体が、この世のものとは思えないほどに、本当に、ただ美しいのであった。




 ひどく、喉が渇きだした。

 いま、すごく水が飲みたい。浴びるように飲みたい。持参した水筒はどこに置いただろうか?

 うまく探せない。さっきから方向感覚が掴めない。目眩がする。いま自分がちゃんと立っているのかさえわからない。

 指先まで熱くなっていく。なんでこんなに熱いのだろうか。身体から火が噴いて燃えだすかのようだ。

 心臓の音がうるさい。鼓膜を突き破って臓器が飛び出てきそうだ。

 うまく呼吸ができず、思わず胸元を抑える。

 どうしたのだろう。しっかりしなければ。

 せっかく、せっかくいま目の前に、こんなにも、こんなにも素晴らしいものが。

 自分をうまく取り戻せない。ちくしょう。

 筆先が震えている。ろくに握ることもできなくなってきた。


 ……いや、ダメだ。それだけはダメだ。

 筆だけは落としちゃいけない。しっかり握れ。

 筆先をキャンバスに向けろ。

 そうだ。モタモタしている場合じゃない。やることがあるだろう。

 急げ。必要な色を塗りたくれ。取りこぼすな、いま感じたものを。ぜんぶキャンバスに刻め。

 一滴たりとも、一粒たりとも逃してはいけない。

 思考は一度放棄して、本能のままに筆を動かせ。

 ぜんぶ感覚に従おう。この際、構図やデッサン力なんてどうでもいい。自分が納得すればいい。だから描かなくては。

 ああ、指先が思うように動かないのがもどかしい。頼むから僕の意識についてきてくれ。この感覚は悠長に待ってはくれない。

 描け。描け。描け。……描きたい。


 僕は絵を描くことが好きだ。

 描きたいからこそ、いままでずっと描いてきた。周りの目も気にせず、時間も忘れて没頭したことは当然何度もある。

 でも……この感覚は、何だ?

 こんなもの、僕は知らない。

 筆がどんどん動く。こんなにも迷いなく色を塗ることがあっただろうか?

 こんなにも腕が二本しかないことを、憎らしく感じることがあっただろうか?

 ああ、足りない。手がぜんぜん足りない。もっと、もっと欲しい。

 この絵を完成させるための手が。色が。情熱が。

 もっと、もっと早く。もっと激しく。僕のもとに降りてこい。




 どれくらい、時間が経っただろうか。

 筆どころか、手に万遍なく絵の具が付着した状態で、僕は立っていた。

 熱がゆっくりと引いていく。ひと呼吸おいて、冷静な目でキャンバスを眺める。

 この絵が良いか、悪いか、正直わからない。だが完成形は見えた。あとはじっくりと修正して、落ち着いて整えていこう。


 とりあえず一度休憩だ。喉が渇いていたのに、けっきょく水を飲んでいない。水筒は確か……そうだ、後ろに置いたリュックの中に入れたのだった。

 筆を置き、リュックを置いたほうへ振り返る。


 少女と目が合った。

 いつからそこにいたのか。日傘をさした少女は真後ろから僕の絵を眺めていた。

 不思議なものを見るような目だった。

 振り返った僕と視線が重なったことで、彼女はハッと正気を取り戻した様子だった。


「あ」


 少女自身、絵をじっくり見ていた自分に戸惑っているみたいだった。


「えーと」


 少女は気まずそうに目を泳がすが、それも一瞬のことで、慣れたように柔和な微笑みを僕に向けて浮かべた。

 誰とでも仲良くなってしまえるような、心の壁を透き通るような笑顔だった。


「素敵な絵ですね」

「あ、どうも」


 落ち着きのある澄んだ声には、人懐っこい愛らしさがあった。

 含みのない少女の自然な振る舞いに、気まずさが一瞬のうちに消える。それでも僕は極度の緊張でうまく返答ができなかった。


 風が吹き渡る。

 真正面から見る少女は、やはり息を呑むほどに綺麗だった。


「お邪魔してごめんなさい」

「あ、いえ」


 少女はペコリと会釈して、歩いて行った。

 長い黒髪が風でなびく後ろ姿から、しばらく目が離せなかった。


 風が止み、シンと周りが静まりかえる。

 僕は再びキャンバスに向かって、仕上げを開始する。

 目の前の桜並木を見るが、もうさっきまで感じていたのと同じ熱は灯らなかった。


 夢幻を見ていたかのようだった。けれどその残滓はキャンバスにはっきりと刻まれている。

 無我夢中で描いた桜の絵。

 本当にこれを僕が描いたのか。今更になって実感があまり湧かなかった。

 一瞬だけ他人が乗り移って描いたものではないだろうか。本気でそう疑いそうになる。

 自分にこんな絵が描けるとは思いもしなかった。

 はたして妹は今年も部屋に桜の絵を飾るだろうか、と少し不安になる。


「……」


 僕は何気なく長い黒髪の少女を小さく描いた。

 何かが少し足りない気がしたのだ。

 でも、それは明らかに余計なものだった。絵全体の調和を乱していた。

 僕は溜め息を吐いて、少女を別の絵の具で塗りつぶした。


 決して少女が異分子なわけではない。僕が単にこの桜の空間に少女を馴染ませる技量が不足しているだけだ。

 少女の存在を見事に埋め込むことができれば、この絵はもっと良くなるように思えた。

 そのためには……あの少女を忠実に描き上げる腕が求められる。

 そんなこと、できるのだろうか。

 あの美貌を、再現できる人間なんているのだろうか。



 桜の絵は無事完成した。

 それなりに良い出来だと思ったが、妹の真昼は今年に限って絵を受け取らなかった。


「成長したなおにぃ。年々うまくなっていくおにぃの絵が真昼は大好きだ。……だが、なんだかよくわからんがこの絵は気に食わんのだ!」


 と、やたらと渋い顔をして真昼は絵を拒否した。

 今朝までご機嫌だったはずだが、絵を見た途端ヘソを曲げてしまった。

 真昼いわく「恐らくこの気持ちはジェラシー!」らしい。

 わけがわからない。




 その夜、僕は部屋で何枚もスケッチをした。

 滅多に描かない人物画を何枚も描いた。

 僕は人を描くことが唯一苦手だった。

 幼馴染を励ますときに描いたことはあるけれど、そのときはまだデッサンのデの字も知らない小さい頃で、落書き程度の腕前だった。

 正確な人物模写だと少し話が違ってくる。生きている人間の存在を自分の中に取り込むようで、どうしても生理的な抵抗感があった。レモンやコップとはワケが違う。


 でも、不思議と今回は平気だった。

 思い出せる限り少女の顔を頭に浮かべて鉛筆を動かしたが、どれもピンとこなかった。


 もう一度あの少女と会うことができれば、もっとしっかり描けるだろうか。

 名前も知らない、どこに住んでいるかもわからない通りすがりの少女。……まあ現実的に考えて、再会することは不可能だろう。

 ならば探偵に頼んで探してもらうか? ……そこまでして少女を探す自分の姿を想像して我ながら引いた。


 そもそも、あんな非現実的な美貌を持つ少女が本当に実在したのか。それすら疑わしくなってきた。あの場に居合わせた人間だけが見た集団幻覚だったのではないだろうか。

 なんだか、そのほうがしっくりしそうだ。桜が見せた怪奇現象。僕はきっと幽霊みたいな存在と口を聞いたのだ。おお、恐ろしい。

 我ながらバカなことを考えている。そうでもしなければ、このモヤモヤは消えない。

 彼女ほどのモデルを見つけておきながら、思いきって声をかけなかった自分の勇気の無さが恨めしい。


 もちろん、わかっている。自分にそんなことできっこない。

 そもそも、本格的に絵を描くことはこれで最後のはずだ。

 ただの趣味の絵で、見ず知らずの少女に話しかけてまでモデルを頼む人間は居ない。

 変な目で見られ、最悪通報されかねない。

 つまり僕の選択は正しかったのだ。そう思っておこう。


 自室に置いた桜の絵を見る。

 最後を飾るには、ふさわしい作品だと思う。

 よかったじゃないか、最後に良い絵が描けて。真昼には不評だったけれど、僕はこの絵が嫌いじゃない。

 十分だ。満足だ。潮時だ。

 さようなら僕の青春。さようなら絵描きの僕。明日から僕は普通の高校生になります。


 胸の中の溶鉱炉を止める。

 いまは余熱でドロドロになっていても、いずれは冷めて固まる。


 本当に、いいのか?

 溶鉱炉の奥から何者かがそう語りかけてくる。


 構わない。

 自分には芸術一本でやっていく覚悟がない。

 そんな人間が生き残れるわけがない。

 だからこれでいい。


 絵を描くことは旅に似ている。

 辿り着く境地が、人それぞれ異なる過酷な旅。

 それを乗り越える自信が僕にはない。

 だから僕の旅はこれで終わりだ。

 そう思っていたのに……。


 入学式の日。

 割り当てられたクラスで、僕は少女と再会した。


有坂乃恵ありさかのえです。よろしくお願いします」


 クラスでの最初の自己紹介。

 教室中の誰もが彼女の美貌に見惚れ、その美声に聞き入った。


 幻でもない。

 怪奇現象でもない。

 幽霊でもない。

 生きた人間として、彼女はそこに居た。


 アリサカ ノエ。

 それが彼女の名前。


 胸が熱い。

 止めたはずの溶鉱炉が再び動き出したのを、僕は感じていた。

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