心まで脱がして~学園一の美少女は絵のためなら何でも言うことを聞いてくれるそうです~
青ヤギ
#0 出会って110日後のプロローグ
絵を描くなら趣味でいい。
本気で打ち込むものじゃない。
そう思っていたんだ。
彼女は言った。
あなたなら、きっと素晴らしい画家になれる。
その夢を叶えるためなら、何だってしてあげたいの。と。
「ねえ、どうして昔の絵ってヌードが多いの?」
僕が持ってきた画集をソファーの上で広げながら、乃恵は無邪気な顔で尋ねた。
彼女が前々から「見たい」と言うので、わざわざ重い画集を何冊もリュックに入れて持ってきたというのに、開口一番で性を意識しだした小学生男子がするような質問をぶつけてくる。
僕は呆れの溜め息を吐きつつ答えた。
「時代や国によって理由は変わるな。ローマとかギリシャでは神様が人型だから『理想的で完全な肉体美』を持った裸を描くことで神を表現したんだ。中世とかだと裸婦は御法度になるけど、宗教絡みのメッセージ性があるなら許されたんだ。一糸まとわない姿は『純真無垢の象徴』とかね」
「ふ~ん。それにしたって女の人の裸の絵多くない?」
「……まあ、そういう本がなかった時代だからな。神話とか聖書とかモチーフにすれば描き放題だったわけだし」
「な~んだ。昔の人たちも結局エッチだったんだ」
「そりゃ人間ですから」
芸術の猥褻性に関しては昔から繰り返し議論されていることだが、本来芸術とは言語化できない物事やら、人間の本質とやらを表現する自由な世界だ。
猥褻こそ芸術、と豪語する者もいるし、実際にエロスをテーマに活動しているプロもたくさんいる。
猥褻だろうが何だろうが、人の心に響きさえすれば、それは立派な「作品」となる。
「ふむふむ。なんかさ、世界史の教科書を読むよりも、芸術の歴史を調べたほうがその時代の人たちのこと理解できて楽しいね?」
「芸術は人の歴史そのものだよ。『世界史よりも美術史を学べ』って言う大学教授もいるぐらいだし。というか美術史の教育を日本は疎かにしすぎてるんだよ。外国じゃ母国の美術史や哲学史を履修するのは普通なんだぜ?」
すべて絵画教室に通っていた頃の受け売りだ。
絵との出会いは、幼い頃の僕の世界を、大きく広げてくれた。
乃恵の丸く大きな瞳も、あの頃の僕のように輝いているように見えた。
もっとも、彼女自身は絵を描く気はないようだった。乃恵いわく「だって美術の先生に褒められるようなお手本っぽい絵しか描けないもん。そんなの描いてもつまんないでしょ?」だとか。
伸び悩んでいる絵描き志望が聞いたら憤慨しそうな言葉だ。
乃恵はいわゆる秀才だ。
どんなことも人並み以上にこなす。
その上、とんでもない美人だ。スタイルも抜群で、人当たりがよく、どんな相手にも好かれる。
そんな彼女が、どうして僕みたいな絵しか取り柄の無いような地味な男と親しくしてくれるのか。
まったく、わからなかった。これまでは。
「……うん。決めた」
画集を閉じて、乃恵はソファーから起き上がった。
「私、やっぱりあなたに描いてほしいな」
「……あのさ。確かに現代じゃデッサン力の上達のためとか、リアリズムの象徴とかで描く人はいるけれど、俺は素人なんだぜ? 普通に描くのはいい。でもわざわざ……」
「本気だよ」
僕の言葉を乃恵は遮った。
いつものような、からかいを含んだ声色ではなかった。
「『理想的で完全な肉体美』。『純真無垢の象徴』。……なら、あなたは、どう描くの?」
絵がうまくなるコツはモチーフを手に取って、その質感を知ることだと教わった。
通っていた絵画教室でいちばん絵がヘタだった僕はどうしても上手に絵が描けるようになりたかった。だから何でも手に取って触った。レモンや、コップや、ひまわりの花、石ころ、木箱……目に付くものにとにかく触れて、ひたすら観察した。
たしかにどんなものにも、じっくり観察してみないと気づけない一面があることを僕は知った。レモンは柔らかいようでその皮は固く、表面はひんやりとしている。コップは日常的に見るものだから気にもしなかったが、高度な計算で造られた物体であることを思い知らされた。
そうして手に記憶させた質感をスケッチブックの上で再現させるように描くと、たちまち絵に変化が訪れた。真に迫る、というべきか。平面でしかないはずのキャンバスの上に、いつしかもうひとつの世界ができあがったかのように、異質な存在感を放つようになった。
気づけば、いくつかのコンクールで入選するほどに僕の絵は上達していった。
絵画教室の先生は僕の成長を喜んでくれた。柔らかなタッチで、鮮やかな色彩に溢れた、素敵な絵を描く女性だった。いま思えば初恋だった。彼女に褒めてほしかったから誰よりも絵がうまくなりたかったのかもしれない。
先生の結婚を機に絵画教室が無くなったいまも、僕は彼女の教えを守っている。初めて描くモチーフは特に念入りに触れて、その手触りを身体に覚えさせる。それが最もモチーフのことを理解できる行為だ。
だからこそ……僕は、
一糸まとわぬ少女の裸体に手を添える。
「ん……」
乃恵は一度身体を震わせたが、すぐに力を抜き、僕の手を受け入れる。
彼女の黒い瞳が「続けて」と訴えていた。
薄闇の中でも淡く白色に艶光る肌に指を滑らせる。なんて柔らかい。同じ人間の肌とは思えないほどに、なめらかな質感が掌に満ちる。
かすかに朱色が差した頬を両手で包む。乃恵と見つめ合う形になる。彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「変な感じだね」
と乃恵は言って、僕の手に自分の手を重ねた。
「男の人の前で服を脱ぐなんて、そういうことをするときだけだと思ってた」
私を描いて。
そう頼んできたのは乃恵のほうだった。
乃恵の絵を描くことを望んでいたのは僕も同じだ。
けれど、まさか彼女の生まれたままの姿を見る日が来るとは、想像もしなかった。
「ねえ」
乃恵はどこか甘えるように、そっと体重を預けてきた。
「ちゃんと私を感じて? いい絵が描けるように。あなたが感じたままに、見たままに、私を描いて。お願い」
乃恵の声は少し震えていた。
僕は頷いて、乃恵の背に手を回す。
華奢でありながら豊満な身体の火照りが伝わってくる。
乃恵の長く艶やかな黒髪に指を通す。絹が滑り落ちていくように、さらさらとした感触が指の隙間を抜けていく。
密着すればするほど、少女の甘い香りが鼻孔を突く。
あまりの心地よさに意識が遠のきそうになるのを堪えながら、乃恵の女性らしく曲線を描いた肉体を、手に覚えさせていく。
生白い肩に手を置き、細い二の腕を握り、なだらかな背を撫で、くびれた胴に触れ、丸い腰元へと手を降ろしていく。
「あ……」
乃恵が切なげに熱い吐息をこぼす。
深い胸の谷間に向かって、汗が伝う。
生まれて初めて触れる少女の肌。生まれて初めて見る少女の裸体。
女性経験のない年頃の男児なら瞬く間に理性など消えるはずの場面で、不思議と冷静でいられた。
乃恵の肉体は、もう少女のものではなく、雄の本能を誘発させる造りをしているというのに。
冷静でいられるのは、きっと意識が「絵描き」のものとして切り替わっているからだろうか。
再び乃恵と見つめ合う。
窓から射し込む月明かりに照らされた、生まれたままの姿の乃恵。
艶かしい光景である。だがそれ以上に「美しい」という感想が
乃恵の熱く潤んだ大きな瞳は、僕を強く求めている。
「どう?」
乃恵にしては珍しく、恐れを含んだ声色で尋ねる。
「何か、掴めた?」
「わからない」
僕は素直に答えた。
すぐにアイディアが降りてくれば、世の芸術家は苦労しない。もちろん時間をかければ良いというわけでもないが。
やることはいつも同じ。モチーフに触れて、感じて、自分の中に取り込んでいく。
絵を描くということは、描く対象を自分の世界に根付かせるということだ。
あるとき僕は、そう乃恵に語った。
乃恵はそれを思い出したのか、覚悟を決めたような顔で僕の胸元に手を置いた。
「じゃあ……もっと、私を感じなきゃだね」
深い瞳に引き寄せられる。
世界が彼女で満ちていく。
「ん……」
白い肢体の火照りよりも、もっと熱いものが口元に伝わる。
乃恵という存在が、深いところへ刻まれていくのを感じる。
「……」
青白く染まった部屋で僕らは見つめ合う。
「
乃恵が僕の名を呼ぶ。
「あなたには、私がどう見える?」
万感の思いを込めるように、乃恵は僕の答えを求める。
乃恵が望む答えは言葉で伝えられない。すべてはキャンバスが語る。
絵を描くことは旅に似ている。理想の境地に至るまでの、果てが見えない旅。いつもどこかで妥協して立ち止まる。どの絵描きも実はそうしている。辿り着けるのはそれこそ歴史に名を残した天才たちだけだ。
僕は天才ではない。これ以上は無理だと判断したら歩みを止める凡人な絵描きだ。けれど……今回は行けるところまで行ってみたい。きっと長い旅になるだろう。
本当なら、僕の旅は終わるはずだった。
あの桜並木での絵を最後に。
そこで、僕は乃恵と出会った。
あの日、彼女との出会いが、僕と、僕の絵の運命を変えた。
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