第8話 烏狩辺柘榴は、悪辣に、傲岸に、不敵に笑った。
――い、たい……。
ずきずきとした後頭部の痛みで、私は眼を覚ました。
意識をすれば痛みはますます強くなって、いったい何をやらかしたかと昨日の記憶を探る。覚えはない。寝ている間に頭をぶつけたのだろうか。
寝相がアグレッシブすぎるでしょ、私……。
頭を抱えようとして、私はそこでようやく手が動かないことに気づいた。
しばらくもぞもぞと動かして、両手が縛られているらしい、ということに気づく。ここがどこかの部屋で、自分がベッドの上に寝かされているらしい、ということも。
同時に、意識を失う前のことをじわじわと思い出す。思い出すといっても、何が何やら判らないままだけれど。
ただ、突然の衝撃と、遅れてきた痛みと、それからすぐに遠のく意識と――。
――誰かに、殴られた……?
ぞっ、と全身の血が下がった気がした。ぶわりと体中に鳥肌が立ったのが自分でも判る。
「あ、眼が覚めた?」
「!」
突然声をかけられて、私の体がびくりと跳ねた。苦労して体を声のした方に向ければ、一人の男が壁際に置かれた椅子に座っていた。
だれ、と言おうとして、声が出なかった。
声帯が仕事を放棄してるみたいだ。耳の奥から聞こえる動悸の音がひどくうるさい。
はく、と口を動かせば、何かを言おうとしていることに気づいたのか、男が了解したような顔をする。
「ごめんね、乱暴な真似をして」
こんな状況には不釣り合いなほど穏やかな声だった。その声に、少しだけ冷静さを取り戻す。
声の印象そのままの、逆に言えばこの状況で会うには不自然なほどに普通の、どこにでもいそうな男だった。
「――が――、」
今度は声が出そうだった。何回か咳き込んで、それでも掠れた声で問いかける。
「あなたが、私を攫ったの?」
「うん、そう」
あっさりと、ひどくあっさりと、男が私の言葉を肯定する。
頭がくらりとして、私は奥歯を噛みしめた。横たわっているのに、視界が回っている。このままでは酔いそうで、視界を閉ざした。
「……なん、で?」
「君に恨みはないんだけど――」
静かな声だ、と思った。
ひどく、穏やかな。
ひどく、和やかな。
自分が何をしているのか、理解していないというような。
「お金が、必要で」
「お金?」
瞼を無理矢理こじ開けて、私は男の顔を観察した。年は二十代の前半か、半ばか。
本当に、どこにでもいそうな平凡な男だった。お金のために誘拐なんてやらかすようにはとても見えない。
実際には今、私を誘拐しているのだけれど。
何を言えば良いのか判らなくなってしまって、途方に暮れた。どうして私が、こんな目にあっているのだろう。
「――私、を」
こんなとき、どう反応すれば良いのだろう。答えは出ないまま、私は口を開く。
「誘拐しても、身代金なんて取れないと思いますよ。……たぶん」
何せこちとら、ごく普通の一般家庭だ。一応仕送りはして貰ってるけど、それだけじゃ足りなくてバイトしなくちゃいけない程度の、どこにでもいる大学生。
私を誘拐する理由なんて――と考えて、唐突に、意識を失う直前に聞いた言葉が脳裏に過ぎった。
『――烏狩辺のやつ――』
『――ヤクザの若頭の――』
まさか、本当に烏狩辺さんがヤクザだったなんてことは――。
「烏狩辺柘榴さん、知ってるでしょう」
私が思い当たるのを待っていたように、頭の中にある名前を出されて、私の体が震えた。
反応してしまってから、しまったと思う。これでは肯定したようなものだ。
「し、知りませんけど」
「そうなの? まあそれは、たぶんこれから判るから別に良いんだけど」
悪あがきのように口にした否定の言葉に、相手の反応は薄かった。私の失態に気づいた様子もなく、本当でも嘘でも興味はないようだ。
呟く。誰に聞かれなくたって構わないというように。
現実味のない顔をして。
「お金が、必要なんだ。烏狩辺柘榴さんの弱みを攫ったら、お金をくれるってひとたちがいて」
彼が私に焦点を合わせた。今の状況を不意に思い出したみたいに。
どこにでもいそうな、凡庸な男が。
私を攫った、男が。
気弱な顔で、困ったように、へらりと笑う。
「人質として役に立てると良いね。そうしたらたぶん、ちょっとは長く生きられるよ」
言葉と同時、部屋のドアが開いた。見知らぬ二人の男が入ってくる。
部屋の隅にいる男とは似ても似つかないほど、乱暴な雰囲気の二人だった。助けがきたと思うほど、楽観的にはなれない。
「ちょ、っと、なに――」
反射的に、ベッドの上で後ずさった。靴を履いたままなことに気づく。どうでもいい。
「お、攫ってきたのか」
男たちがこちらを見下ろしながら言う。二人とも顔を隠す様子もない。
猛烈に嫌な予感がした。顔を隠すつもりがないというのは、生きて返すつもりがないということでは。
「烏狩辺には?」
投げかけられた問いに、最初の男が静かな口調で答えた。
「事務所に手紙を投函してきましたよ。写真つきで」
「へえ、どんくらい効くかね」
注意深く観察して、気づいた。店の前で話していた二人組だった。
何を思ったのか、男の一人がこちらに手を伸ばしてくる。ひくりと喉が引き攣った音を立てた。
「す、済みませんけど!」
声を上げたのは、ほとんど無意識だった。何かを考えるよりも先に、体が動く。
「近寄らないでくれませんか――ね!」
手を伸ばしてきた男の腹を、私は思いきり蹴り飛ばした。
蹴り飛ばした瞬間冷静になって、やっちまった、と青ざめる。それより何より、男二人の奥で壁際の男が真っ青な顔をしていた。
「こんの――くそアマ!」
あ、やばい。
蹴られた男が顔を真っ赤にしてこちらに向かってくる。男が腕を振り上げて、
殴られる――!
「――どうも、お忘れものを届けに参りました」
眼をキツく閉じたと同時、場違いにのんびりとした声が部屋に響いた。いつまでも痛みがこないことにそろりと眼を開ければ、三人の男が入り口に視線を向けている。
その視線を追って、私は瞠目した。
「よう、夕霞。お前、また学生証忘れてたぞ。反抗期か?」
学生証――と、学生証を入れていた、私が意図的に落としたミニトートをふらりと振って、
自分を信じて疑わない子どものように、
努力と実力に裏打ちされた大人の顔で、
敵などいないというように、
烏狩辺柘榴は、悪辣に、傲岸に、不敵に笑った。
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