第2話 「死ね、変態!」

 全てはあの瞬間に始まった。


 ひらりと、眼の前を桜の花びらが通り過ぎていく。花びらが地面に辿り着くまでを視線で追ってから、私は花びらが降りてきた方向を振り仰いだ。

 いつの間にか、桜が咲いていたことに気づく。

 四月になって新学年が始まり、授業の履修登録やら新しい友人たちとの付き合いでここのところはずっと忙しかった。ばたばたとしている間に、春は一息に深まっていたのだ。

 まだ固いとばかり思っていた蕾は、とうに綻び始めていたようだ。桜は咲いた端から花びらを散らして、その欠片が私の視界に入ったのだった。

 桜の梢の向こう、数日前に見たよりも随分と膨らんだ月が、夜空にぽっかりと浮かんでいた。


「あ、お花見。今年は間に合うかなあ」

 思いついて、同時に考えが口から転がり出た。桜の花というやつは本当に寿命が短くて、毎年花見をしようしようと思っている間に散ってしまうのだ。

 片手に持っていた紙カップのコーヒーをこくりと飲み込む。バイト帰りに、社員に奢って貰ったものだ。同じ腕に持っているミニトートが少しだけ重い。

 忘れる前に友人に連絡をしようとミニトートからスマホを取り出して、いつものバイト帰りよりも随分と遅い時間になってしまったことに気づいた。新人くんに仕事を教えている間に、知らず時間が経っていたらしい。

「ドラマ!」

 その時間に驚いて、私は思わず声を上げた。火曜の二十五時は、毎週ドラマを観ているのだ。

 自分の現在位置と、家までの距離を計算する。今の時刻は二十四時四十五分。いつも行く道を歩いていたら、下手をすると間に合わない。

 足元はパンプスで、走るには心もとない。迷ってから、私は結論を出した。

 よし、近道しよう。

 いつもなら曲がる道を真っ直ぐに進む。私の住むアパートは、正面の公園を抜けた先にある。

 夜の公園なんて物騒だから通るのは止めておけ、と友人たちには言われていて、だから普段は迂回しているのだけれど。たまに使うくらい、大丈夫だろう。

 意識して足早に公園の中を突き進む。公園では数組のカップルや、若者のグループが思い思いの時間を過ごしているようだった。

「お姉さん、いま暇ぁ?」

「マジでほんとにめちゃめちゃ忙しいです、お構いなく」

 酔っ払って声をかけてきた男を振り切るように足を速める。もともと居酒屋よりもカフェに入ることの方が多いから、酔っ払いの対応には慣れていない。

 冷静に返したつもりだけれど、不意打ちで話しかけられた驚きで心臓がうるさかった。やっぱり止めておけば良かった、なんて思ったって戻るのもなんだか腹立たしい。

 気持ちを落ち着けるために、半分ほど残ったままだったコーヒーで唇を湿らせる。中途半端に冷めたコーヒーは、それでも私の心に僅かばかりの余裕を取り戻させてくれた。奢ってくれた社員には今度飴ちゃんをあげよう、と心に決める。

 ちっぽけな噴水を通り過ぎて公園の奥に進めば、人影が一気に減った。視界の端で、ベンチに誰かが座っているのが見える。

 あのベンチを越えれば、公園を抜けて道に戻れる。何事もなく横切ろうとして私は、

「あ、」

 ――後から思い返せば悔やんでも悔やみきれない、絶望的なミスをした。

 間抜けな声を上げてから、自分の失態に気づく。遅い。何もかも、致命的に、遅い。

 しまったここは当初の予定通り何事もなく通り過ぎるのが正解であって私はいかなる反応もするべきではなかった――。なんて今さら思ってももう手遅れだった。

 私はばっちりと、彼と眼が合ってしまった。

 彼と眼が合ってしまったし、私はばっちりと、その光景を見てしまった。

 に出くわしたことは今までなかった。けれど耳年増にも、夜の公園で人目をはばかるようなことをするひとたちが一定数いるらしいというのは聞いたことがあったから、自体にはそこまで驚きはしなかった。

 つまり、カップルが夜の公園でキスをしている、なんてことは。

 驚いたのは二人の性別だ。ベンチに並んでいたのは二人の男性だった。

 偏見はもちろんない。ないけれど、男性同士のキスシーンなんてものはあまりに予想外すぎて、私の思考を止めるには十分な代物だったのだ。

 ちょうどベンチの横には外灯があって、眼が合った――相手に覆い被さっていた男がはっきりと照らされている。いろいろな衝撃を横においてうっかりドキリとするくらい、文句のない色男だった。

「……お、お邪魔しました……」

 言いつつ、そろりと足を滑らせる。何も見なかったことにして通り過ぎてしまおう、相手だっていつまでも気まずい思いはしたくないはずだ。

 ――だと、思ったのに。

 私が声を上げたきり硬直していた二人が、動いた。と言っても、動いたのは上の男だけだったけれど。

 体を離して、身を起こす。はっきりとこちらに顔を向けて、男は、

 にやりと、笑った。

「なんだ、嬢ちゃん。興味あるなら、まざるか?」

 まざる。

 まざる。まざる。

 何のことだ。

 考えて、ふと天啓のように答えを思いついた。あぁ、思いついたとも。思いついたりするんじゃなかった。

 つまりこいつ、この状況にまざりますかと、そう問うているわけか。

 なるほど。

「なるほど、なるほどね」

「おい、どうする――」

 このとき私の手にコーヒーが入った紙カップあったのが、思えば最悪の不運だった。

 怒りのあまりか、一瞬、視界が白くなって。


「死ね、変態!」


 気づけば私はその男に対して、紙カップの中身を思いきりぶちまけていた。

 腕を振り回した拍子に、同じ腕に下げていたミニトートがコーヒーの雫をを追いかけるように大きく、揺れた。

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