『兄弟』の守口先輩
次の日になって大学に行ってもあのモヤモヤとしたそれは心の中にへばりついていて、気持ちを沈みこませている。
後期試験も近くなってきたので重い足取りを引きずりつつレポート執筆と試験勉強を兼ねて大学の図書室で黙々とノートを書いていく。
そのときにさえ僕に対する噂話をする声が聞こえてきて不愉快でしょうがない。
ひと段落着いたら、昼食を食べて帰ろうか、しかし自室に居ても暑くて集中できない。 エアコンをつけたらつけたで電気代のことを考えてしまい、やはり同じことだ。
それでもこのメンタル部分の不快指数もまた辛い。
イラつく気持ちが手先に宿るのか、ノートに記入する字が乱れていくことにまたさらにストレスがかかってしまう。
だめだ。 少し落ち着こう。
いったん図書室を出る。 ポケットの中を探りながら向かった先は喫煙場で、幸いに誰も居なかった。
タバコを一本取りだして火をつける。
深呼吸をするように深く吸って、ゆっくりと吐けば薄紫の煙がスーッと昇り、消えていった。
ここ最近タバコの本数が増えている。 そして皮肉なことにそれに慣れてしまった。
もうヤニクラで頭をぐらつかせることもなく、咳き込むこともない。
むしろイライラが少しだけ消えて心地よくさえある。
安雄ならなんて言うだろうか? 『お前も一端になったな…』と笑うのだろうか?
昨日の安雄の振る舞いを思い出しながら愚にも着かないことを想像する。
「ああ、ここに居たんだ」
喫煙場のアクリル板から菅居が顔を出してやってきた。
「うん…?何か用?」
考え込み過ぎて疲労した頭蓋とタバコのニコチンで沈静化した思考のまま返事をする。
「少しだけ付き合ってくれる?ちょっと話したいって人がいるんだけど」
少し高く、柔らかい声だったが、顔は強張っていた。
『珍しいな』と思った。
菅居はいつも人当たりが良い。 明るくて、小柄で誰にも分け隔てなく接するのでとても付き合いやすい人間だ。
先輩のことはなぜだか嫌っているので、あの人のことを語るときは物言いに反感が込められているので言葉は硬くともその表情はいつも柔らかかった。
それが今日は正反対に言葉は明るくても表情が固い。
どうしたんだろうかとも思ったが、特に断る理由も無いので、「うん」と頷けば、菅居の後ろから誰かが出てくる。
顔は…見覚えが無い。 なので同級生ではなく先輩か。
「やあ、はじめまして…文学部2年の守山って言うんだけど…」
やはり先輩か。
守山先輩は丸い眼鏡をかけていて身長は僕と同じくらい。 綺麗にセットされた7・3の髪と清潔感のあるTシャツとピッシリとした薄灰色のズボンをはいている。
そのいでたちとかもし出す雰囲気はよく言えば真面目そう。 悪く言えばやぼったいという印象だった。
まあ服装に関して言えば自分だって言えないのだけど、そんな僕でもそう思えてしまうような『典型的』な人だった。
「はじめまして…経済学部一年の上原です」
ぎこちない自己紹介ではあるけれど不思議と嫌な空気にはならない。
守山先輩のかもし出す空気がそうさせているのかな?
「実は…話したいって言ったのは僕なんだけど…ああ、菅居、ありがとうね」
本題を言いかけて、菅居に礼を言う守山先輩になんとなくの好意を持った。
タイプ的にというか人格的にこの人は僕と似ている気がしたのだ。 同属嫌悪という言葉もあるけれど自分と似たタイプを嫌いになるのは難しい。
ましてや今の僕としてみれば、ささくれ立つ様な人間関係に悩まされているのから先輩のその朴訥な空気は癒しとさえ思える。
「…その、実は話っていうのは塚原さんのことなんだけど…」
「…塚原先輩、ですか…」
「そうなんだ…多分、君もうんざりしてるとは思うんだけれど…」
僕の渋面に気づいているのか守山先輩が申し訳なさそうな表情をする。
ああ、やっぱり塚原先輩関係なのか。 まあ考えてみれば接点の無い男の先輩が話があるといえばそれしかないよな~。
意外にも塚原先輩のことを出されても不快な気持ちにはならなかった。 ここ最近の塚原先輩関係の揉め事に辞易していたというのに…。
我ながら驚いてしまうが、きっとこれは守山先輩の人徳というやつかもしれない。
たどたどしくも慎重に言葉をつむぐ態度も、恐縮しているような声の柔らかさから先輩はすごく真面目で誠実な人柄だということがこんな僕にも伝わってくる。
だからだろうか、僕はここ数ヶ月で一番気持ちが優しくなれている気がした。
「それじゃ…先輩、私もう行きますから、『兄弟』同士ゆっくり話ししてくださいね」
強烈な嫌味を放って菅居は去ってしまった。
『兄弟』か…。 それは同じ穴の狢というか同じ穴に入った仲間というか。
苦笑すら浮かべられず、互いの顔をしばらくは見れないままわずかな時間だけ休憩するようにタバコを数本吸いあった。
やがて意を決したように森山先輩が切り出してくる。
「塚原さんと君は…その…関係を…もったんだよ…ね?」
「ええ…まあ、ただなんというか強引だったというか、突然だったんで、それからは一度も無いんですけど…」
お互いに歯切れ悪く、塚原先輩のことを話す。
「……彼女ってさ、変わってるよね」
少しお互いに黙りこんだ後にポツリと先輩が口を開く。
「ええ…まあ…なんというか…そうですね」
戸惑う僕はタバコの煙をふかしつつ、曖昧に返す。
ニコチンが抜けつつある頭で質問の真意を考えた。
確かに塚原先輩は変わっている。 一般的な観点からいえば…だ。 いや貞操観念というべきだろうか?
いわゆる尻軽、あるいはビッチと言ってもいいかもしれない。 客観的に、もしくは大学内の評判からすればそういった侮辱のような表現が合ってしまう。
けれどそれだけではない…気がする。
あの無分別、 勝手に押しかけてくる。 その行動の中になにか先輩なりの信念のようなものがあるような。
…考えすぎだろうか? それとも関係を一度とはいえ持ってしまったがゆえのある種の色眼鏡ではないのか?
「…でもただ、それだけじゃない気はします」
「ああ、そうなんだよ…あの人は何も考えていないわけじゃないんだ」
搾り出した一言に先輩がハッとしてこちらに向き直る。
「僕も君と同じだ…新歓コンパで飲まされて、彼女が僕を介抱してくれてね、気がついたらホテルにいたんだよ」
「ああ…先輩らしいですね」
間の抜けた返しにも思えるけれど、容易にその状況が想像できてしまう。
「そこで…まあ、そういう感じになったんだけど…ね」
「まあ…そうなりますよね」
…なんだろうか? このヘンテコな会話は?
いままで僕と守口先輩の間柄には接点などなかった。 唯一あるのが、塚原先輩だけだ。
そしてそれは関係を持ってしまった者同士という奇妙な共通点しかない。
普通ならば修羅場だろう。 あるいはもっと親しければ下世話な笑い話にでも昇化できるのかもしれない。
けれども僕らの間に流れる空気はそのどちらでもない。
そもそも先輩が僕に何を話そうというのだろうか?
「教えてくれないか?どうして彼女は君に…その執着するんだろう?」
そんなことはこちらの方が聞きたい。 僕としてはいささか失礼な表現かもしれないが、野良犬に噛まれたと思って忘れようとしているのになぜだか塚原先輩がちょっかいを掛けてくるのだ。
確かに先輩は美しい。 だがそれだけでしかない。 だって僕は先輩のことを何一つとして知らない。
普通に付き合っての関係ならば少ないながらも思い出がある。 そういう風になる理由がある。
でも僕と先輩は普通ならば当然ある通過点などなく、唐突に関係を持ってしまった。
まるで出会い頭の衝突事故のよう。 その衝撃も含めてその見方が正しい。
「こっちも何がなんだか、最初の出会いからあの人はあんな感じで、もう手に負えないというか、理解できないっていうか……すいません」
自分でも何を言ってるんだろうかとしか言えない。 出てきた言葉の無意味さと曖昧さにハッとさせられて思わず最後は謝ってしまっていた。
要領を得ない。 聞くだけ無駄にも思える戯言だ。
恥ずかしい。 赤面しつつ、横に目線を向ければ守口先輩はポカンとした顔でこちらを見ていた。
ああ、やはりそういう顔になるよね。
でもその後に出てきた守口先輩の言葉は予想外に情熱的だった。
「そうだよね! うん、そうなんだよ…彼女は唐突で僕みたいな凡人が考えてもしょうがないというか、ただ振り回されるくらいしか許されない…そんな女性なんだよね、僕なんかとは違う本当に綺麗で、本当に美しい存在なんだよ彼女は…ってごめん、いきなりまくしたてちゃって…」
今度は僕が呆けてしまっていた。 先ほどの自分と重なるような物言いの守口先輩。
それでも自分とは決定的に違うということはわかってきた。
守山先輩は自分と似ていると思った。 しかしそれは勘違いだった。
本当に守口先輩は先輩のことが好きなのだ。 その情熱というか情念にも似た思いに気圧されてしまっていた。
本当にどうして先輩はやたら僕に絡んでくるのだろうか? 申し訳ないが僕は先輩のことを恋愛的な意味では好きになれそうにない。
確かに先輩は魅力的ではあるけれど、そういうことをしてしまったけれど、先輩の行動とあの言葉一つ一つがなぜだか空々しくて…まるで…、そう、まるで延々と一人芝居を無理やり見せられているような気にさえなるのだから。
でも守口先輩はそんなあの人が好きなのだ。 愛しているといっても過言ではないだろう。
あまりにも簡単にあちこち満ち溢れすぎて口に出せば出すほど陳腐にもなってしまうその『感情』はこと守口先輩から溢れもれるその言葉と態度によってそれが『愛』を体現しているように思えた。
少し怖いくらいだ。 人が人を愛するというのはこんなにも強くて、狂わせてしまうものだということを文字通り頭ではなく心でたったいま僕は知ってしまった。
「だ、大丈夫です、気にしないでください…でもそれだけあの人のことが好きなんですね」
「えっ?…う、うん…そうなんだよね…自分でも気持ち悪いくらい…なんだけどね」
自重するような物言いの中には強い想いが込められていて、でもそれは不思議に感情を揺さぶる。
「…自分は正直、困ってしまっていて、でも先輩のような人があの人と付き合えればきっとあの人のアレも治るとは思いますよ」
正直な意見だった。 先輩がどうしてあんな刹那的な『ヤリ方』をしているのかはわからないけれど、それはやっぱりひどく不健全で正しいとは言えないだろう。
だからこそ塚原先輩には守口先輩のように身も蓋も無く好きだと思ってくれる人が必要なんじゃないだろうか?
そんなことを考えながら僕と守口先輩は日が暮れるまでアレコレと色々なことを語り合っていた。
それは塚原先輩だけじゃなくて互いのことを。 まるで親友のように。
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