安雄の変貌と煙に巻かれてるように
たしか安雄の住むアパートは混み入った住宅街の奥にあったはずだ。
前に数回遊びに行ったことがあるだけなので、おぼろげな記憶を頼りに歩き続ける。
すでにメールで連絡はしており、見舞いの品として果物を買っていた。
友人の家に行くだけだというのにどうしてそんな形式的なことをしてしまったのか?
それ自体が僕の動揺と気恥ずかしさの表れで、もはや親友といっても過言ではない安雄に会いにいくときでさえ、なんというかしゃちほこばったことをしてしまう。
彼のように気安く接したほうがきっと楽だろうし、向こうも嬉しいのだろうけれどそれをわかってはいても貫徹できない僕自身の気弱さの証左なのだろう。
返事はまだない。 けれど見舞いに来られて怒る人間なんて居ないはずだし、そんなに長居するつもりもないのだからいいじゃないか。
…誰に言い訳しているのだろうか? まったく意気地のない男だと自身でつくづく思う。
ただそれでも僕は友人に会いたいのだ。 散々馬鹿にされる可能性もあるけれど、いまはただ安雄の気軽な受け答えを聞きたい。
ようやく記憶にある景色がでてきたことで安雄のアパートはあっさり見つけられた。
ポケットからスマホを取り出して画面をみたが、メールの返事はまだない。
まあいいさ、行ってみて留守ならしょうがない。
やや錆の浮いたアパートの階段をゆっくりとあがる。 たしか安雄の部屋は二階の一番奥だったはずだ。
アパートの扉の横にある表札にちゃんと『小久保』と手書きで表示されている。
なぜか緊張しながら呼び鈴を鳴らす。 けれど安雄は出てこない。
数回押しても聞こえてくるのは呼び鈴の音だけ。
スマホを見てもやはりメールは来ていない。
「やっぱり留守なのかな?」
諦めて帰ろうとしたところで扉の向こうからゴソゴソという音が聞こえ、それは足音に変わり、近づいてくる。
「なんだ居るじゃないか」
錆付いた音を立てて扉が開き、安雄が顔を出した。 体調不良とは言っていたが顔色は良い。
一瞬、サボりだったのか? という考えが浮かんできたが、無精ひげが生えているところを見ると体調が悪かったというのは事実なのかもしれない。
久しぶりの親友が思いのほか元気そうだったので軽口が出たけれど、安雄は何も言わないでいる。
「メール見たか?見舞いにきたんだよ」
なんとなく気まずくなってしまって見舞いに来たと告げるとそこでやっと安雄が口を開く。
「…ああ、悪かったな、気を使わせてさ」
口調は血色の良い顔と違い、少し暗い。 見舞いの品を渡すと、それを遠慮がちに受け取る安雄。
やはりいつもと少し態度が違う。
これはあまり長居しないほうがいいなと心の中で呟きながらも、まあせめて少しは話がしたいなと思い、
「入っていいか?」
問いかければ、少しだけ考えた後に安雄がコクリと頷いて扉を開いてくれた。
「体調、少しは良くなったのか?」
1DKの安雄の部屋に入り、気を使わせないように努めて明るく問いかけても、
「あ、ああ…まあな」
やはり元気がない。 でも具合が悪いという風でもない。 なんというか、嫌な先輩がやってきたので気まずいといった態度だ。
「…今日は…その…どうしたんだ?」
意外にも小奇麗に片付けられた部屋の床に腰掛けると同時に安雄も敷きっぱなしの布団の上に座り込んで聞いてくる。
その際にもなぜか僕と目を合わせようとしてこない。
「どうしたって…見舞いって言ったじゃないか?」
「あ、ああ…そうだったな、悪い悪い」
気づかないフリで出来るだけ朗らかに告げれば、一瞬ハッとした顔をして言葉を返す。
やっぱり変だ。 明らかにいつもと違う。 その違和感に戸惑いつつも、さてどうやって先輩のことを話そうかと思案した際にふと指に何かが触れた。
これは…髪の毛?
灰色の絨毯の上、手をついたところに髪の毛が一本落ちていて、それが僕の小指の先に触れていた。
人が住んでいるのなら髪の毛くらい落ちているのは当たり前のことなのだけれど、それが安雄のではないことはすぐにわかった。
長いのだ。 確かに安雄は短髪というほどに髪は短くはないが、それでもその髪はとても長かった。
この長さならば、肩のさらに下まで伸びているだろう。
そこで僕もハッと気づいた。 そして思わず笑みがこぼれてしまう。
なんだ、そういうことだったのか。
一人、納得してニヤついている僕に今度は安雄が不思議そうに見ている。
「水臭いな~、そういうことなら早く言えよ~」
「…?何がだ?」
「しらばっくれるなよ、彼女、出来たんだろう?」
そう言って件の髪を安雄に見せると、安雄はしまったという表情をする。
やはりドンピシャだ。 予想が当たったことと少しだけ場の空気が緩和するのを期待しながらそれをテーブルの上に置いた。
「…本当に人が大変だったってときにタイミングが悪いなーお前はさ~」
いやむしろ良かったのかな? 親友に恋人が出来たというのは少しだけ寂しい気持ちはあるけれど、それでもそれは『良いこと』だろう。
なにより、これで先輩のことを切り出しやすくなったというのもある。
けれど安雄の態度は僕の想像していたのとは違っていた。
「そ、そんなん…じゃ…ねえから」
ひどく動揺している。 狼狽といってもいいくらいに安雄の様子は変だ。
あちらこちらへと視線を泳がし、落ち着かないのかテーブルの上にあったタバコに手を伸ばし吸おうとはするけれどライターの火がつかない。
カシュッ。 カシュッ。 カシュッ。
何度も挑戦するけれどライターは一瞬だけ火花を散らすだけでタバコに燃え移ることはない。
それがますます焦らせるのか? その間隔がどんどん短くなる。 同時に二人の間の空気が重くなっていってる気がする。
「落ち着けよ…貸してみろって」
手持ち無沙汰と妙な緊張感を振り払いたくて安雄の手からライターを奪ってゆっくりと火打ち部を指でこすれば、
「なんだ、点いたじゃないか」
ライターの噴出口から火柱が上り、ユラユラと揺れている。 そして無言でタバコに火をつけてやる。
「わ、悪りい…」
それだけ言って一口吸い上げる。
「…………」
「…………」
そしてまた無言だ。 なんなんだこの雰囲気は?
「…どうしたんだよ、彼女出来てずっと部屋でアレコレしてて疲れちゃったのか?」
いたたまれないこの状況を僕なりに打破しようと無理やりにいつもの安雄のように軽口を叩いてみる。
「そんなんじゃねえんだよ!」
急に大声を張り上げた。 ポロリとタバコの先から灰が落ちて、それがテーブルに着地して崩れる。
「そ、そうか…」
その剣幕に驚いてしまい、何も言えなくなってしまう。
安雄もまた何も言わない。 取り繕うようにタバコを吸うだけだ。
しかしそのペースが明らかに速く、まるで息切れしているように吸っては煙を吐いていくのであっという間に一本吸いきってしまった。
短くなったタバコを灰皿に押し付けて、もう一本吸おうとしたのか安雄はタバコの箱を一度持ち上げて、すぐにテーブルに置いてしまう。
「…悪い、今日は帰ってくれ」
心底、申し訳なさそうに言うので、
「…わかったよ、早く大学に来いよ…」
それだけ言って安雄の部屋を出た。 そして玄関から出る際に、
「今日は悪かった…今度、ちゃんと説明するからさ」
そう言ってくる安雄の表情は悲痛そのもので、何も言えずに僕は「うん」とだけ返事して階段を降りていく。
帰り道、薄暗くなってきた空を見上げる。
いったいあいつどうしたんだ?
何かあったであろうことは予測できる。 けれどそれを誰にも、それこそ僕にさえ言えないで悩むくらいに安雄も問題を抱えているのだろう。
しばらくは放っておいた方がいいんだろうな。
しかし先輩のことを相談しようと考えていたが、いまの安雄にそれを持ちかけるわけにはいかない。
それだけは理解できる。
ああ、それでも一体全体どうしたらいいんだろうか。
困り果てて溜息をつこうとも何も変わらない。 それでも時間は進むので世界は夜へと向かい、僕の視界は徐々に暗くなっていく。
家に帰るころには気がつけばもう真っ暗になっていた。
玄関を開けて部屋に入る。
そして明かりをつけようとしたときにふと気づいてしまう。
それは確信と呼ぶにはモヤモヤとしてはいたがおそらくは正しいはずだ。
何かが変わっていっている。 少しずつ。 でもそれがなんなのかがわからない。
「まるで煙に巻かれているかのようじゃないか」
それはやはり明かりをつけても見えることはなかった。
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