孤独と敵意。親友は大学に来なくなった。
曇り空の午前。 いまにも雨が降り出しそうな天気の中、大学内を僕は一人で歩いている。
季節はもう夏だ。 あと一ヶ月もすれば夏休みにも入る。
そんな時期だから、曇りで気温が低めとはいえ湿度は高く、今朝方に自室を出る際につけていたテレビからは今週はずっとこんな不快指数の高い日が続きますとアナウンサーがしゃべっていた。
そんなどんよりとした薄暗い濃灰色の空の下で、誰よりも不快な気分を味わっているのは間違いなく僕だろうと確信できる。
ふと、たった今すれ違った違う学部の先輩だろうか、はたまた同級生なのかは知らないけれど背中越しに「あいつがそうなのか?」という言葉が耳に入ってきた。
聞こえないフリをしつつ歩く速度を早めた。
先日の学食の出来事で、やっと鎮火しつつあった僕と先輩のことがまた再燃してしまった。
ただでさえ噂の的であった先輩が珍しく一度『ヤッた』男に再度また交友をしようと試みた(あくまで噂ではそうなっている)ということで、僕はまた学生間での噂の対象になったのだ。
まるで火が消える前に薪をくべられつづけたように激しくそれは燃え広がり、もはや僕のことを学内で知らない人間はいないというほどに。
おかげで講義に出ても、学食に行っても遠巻きにとはいえ誰かしらにずっと見られていることにうんざりしてしまう。
だがそれすらもマシに思えてしまうほどに一部の人間からは注目されてしまっている。
「おい、待てよ、この野郎!」
ああ、まただ。 相手をできるだけ刺激しないよう、溜息を抑えつつ振り返ればそこに見知らぬ男が一人立っていた。
顔は知らなければ、名前だってもちろん知らない。 けれど向こうは僕のことを知っている。
おそらくは違う学部の先輩なのだろう。
髪を茶色に染め上げて、少し長めな髪、派手なカッターシャツを着ていて、なかなかにガタイもいい。
腕っ節も強そうだ。
そんな彼は僕に対して怒っている。 こちらから言わせればなんて理不尽なとも思えるようなその怒りをここ数日で何度も相手させられている。
「はい、なんでしょうか?」
用件はわかっている。 けれどそう返事することしかできない。
「調子に乗ってんじゃねえぞ、塚原に興味持たれたからってでかい顔をしてんじゃねえ!」
「…そんな気はないです」
もう何回目かの同じ返答。 毎回相手は違う。
けれどそれがますます相手を苛立たせてしまうことは理解している。 けれどそう答えるしかないのだから仕方がない。
「嘘ついてんじゃねえ!お前なんか今だけだからな…塚原がお前なんかに興味もってんのはよ!」
そう言いながらツカツカとこちらに向かってくる。
マズイ、殴られるかもしれない。
とっさに身構えようとしたところで、すぐ近くに居た彼の仲間たちが集まって制止してくれる。
「おい、やめとけって…そんな奴なんか放っとけよ」
「うるせえ、止めんなよ!こんな奴に舐められてたまるかよ」
…舐めてなんかいない。 むしろこちらこそふざけんなと言いたいくらいだ。
それでもそんなことを言えば喧嘩になるだろうし、腕力勝負になったら勝てるはずもない。
結局は仲間たちがなだめたことで多少は落ち着いたのか、件の彼はやや荒い息と血走った目で僕に何か捨て台詞を吐いて去っていってくれた。
居なくなったのを見計らって大きく息を吐いた。
もう何度目だろうか? こんな不毛なやり取りは。
先輩はやはり噂どおりに色々とヤっていたようで、かつての僕と同じように先輩と『ヤった』人達がこうやって僕に絡んでくるのだ。
先輩があの日、学食で「大変だと思うけどよろしくね」と言った意味を嫌というほど味わせられている。
あの時は意味がわからなかった。 いや正確に言えば誤解していた。
また噂の的になる程度だと考えていた僕が甘かったのだ。
まさか直接、複数の人間から怒りをぶつけられるような存在になるなんて想像できるはずもないし、実際に彼らが僕に対して思っている憤りはやはり理不尽以外の何者でもない。
「また絡まれてたね~」
後ろから言葉をかけつつ菅居が僕の横に並ぶ。 もはや日課とは言わなくても数日に一回は来ている『揉め事』に同情はしてくれるようだ。
「なんだってこんな目に合わないといけないんだよ~」
僕の愚痴を菅居は可愛そうな人を見ているかのようにそっと視線をそらす。
「全部あの女のせいだもんね、上原君、本当に被害者だわ」
ここ最近、菅居とはよく会話をするようになった。
事情を知っていてこんな愚痴を吐けるのはもはや菅居だけになってしまっていた。
なぜなら親友である安雄はしばらく大学に来ていない。 たまにメールをすれば返事は返ってくるので心配はしていないが。
ちょっと体調が悪いらしい。 それでも入院するほどではないらしいが、少し休むことにするという返事が返ってきた。
早く回復してほしいところだ。 なにせこの状況はさすがに辛い。
先輩とのことも相談をしたいしな。
なのでボチボチ見舞いがてら安雄の家に行こうかとは思っている。
「なあ、菅居の方からさ、みんなに何か言ってもらえないかな?」
「う~ん多分無理かな?なんだかんだで、あの人注目されてたからね…私が否定しても信用されないと思うよ」
菅居の言うことは正しいと思う。
僕の方だって何度も絡んでくる男達に誤解だと説明しても誰も納得してくれない。
嘘をつくなとますます罵倒されてしまうし、実際に胸倉をつかまれたことだってあるのだ。
赤の他人の菅居が噂を否定したところで何も変わらないだろう。
では当事者ならどうだろうか? もちろんそれは僕ではなくて…、
「それはもっと無理だと思うな~、自分から広めているみたいだし、それにあの人も最近大学に来てないみたいだしね」
そうなのだ。 塚原先輩自身がこの噂の元凶なのだからそんなことをしてくれるはずがない。
直接本人に言いたくても先輩はあれから大学に来ていないそうだ。
そして普通に考えれば本人に直接言ったところを誰かに見られたら結局噂自体を肯定することにもなりかねない。
そもそも僕は先輩の連絡先すら知らないのだ。
そうなると先輩に直接会って苦情を言わなければならないが、会うこと自体が噂を肯定することになってしまうというひどい矛盾を抱えてしまっている。
「もう直接的にさ、大学に相談してみれば?」
「う~んそこまで大げさにしたくはないんだけどな~」
「上原君は優しいね~、そんなんだからあの女にいいようにされてるんだよ?」
非難するように僕を見る菅居に何も言い返せない。
ところで菅居はやはり塚原先輩のことが大嫌いなようで、ずっと一貫して先輩のことをあの女呼ばわりしている。
いったい何があったんだろうか? 聞きたくはあるけれど何か恐ろしくて質問できない。
「でもさ、結局そうするしかなくない?」
そしてなおも菅居は僕に大学当局に相談するようにけしかけてくる。 僕としても事を大きくしたくはないというのも正直な意見ではあるが、菅居の先輩に対する悪意が見えてくるのでそうしたくはない。
菅居は先輩にいいように利用されているというけれど、菅居の言うこともまた彼女の悪意の為に利用されてるような気がしてならない。
結局のところはやはり安雄だ。
異性ではなく、同姓であり親友である安雄に相談してから結論を出したいのだ。
それ自体が逃げていると思われるのは百も承知しているが、菅居が学食で見せたあのドロドロとした何かによって彼女を百%信用することができないでいる。
「…もう少し考えてみるよ、安雄の意見も聞きたいからさ」
そう言って話を断ち切って僕はそそくさと教室へと向かう。 菅居は後を追ってこない。 どうやら今日は講義には出ないようだ。
ほっとしつつも背中に冷や汗が流れる。
後ろを振り返れば菅居が先ほどの男が見せたような怒りをぶつけているような気がして恐ろしくて見れない。
なんにしても今日こそは絶対に安雄の家に行くことをしよう。 それだけを決意して暑さなのか恐怖なのかわからない汗でひっつくシャツの感触を振り払うように駆け出した。
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