菅井安樹の悪意と先輩の作意

「はあー?塚原先輩が来た?」


「しー!声がでかいんだよ」


 講義と講義の合間、090教室に安雄の素っ頓狂な声があがる。


「…んで、何しに来たんだよ…まさか…」


「ヤッてないから!ってか酒だけ飲んですぐ帰っていったよ」


 とんでもない誤解に図らずもこちらの声も大きくなってしまう。 幸い、講義前の教室には数人程度しか学生は居らず、彼らにもそれは聞こえなかったようで、皆が互いに話をしている。

  

「…そんじゃ、何しに来たんだよ?」


「わからないよ、ってか驚きすぎて会話らしい会話もしてないし…」


 安雄には先輩の最後の問いかけのことは黙っていた。 大した返事も返せなかったし、あの時の先輩のことを話すのも何となく気が引けてしまう。


「ただの気まぐれなのかね~、でもあの人、同じ人間とはしないんだろ?」


「そ、そうらしいね」


 正直に言えば誘われたのかもしれないが、うまく説明できないからこれも秘密にしていた。 安雄に言えばまた『度胸がねえな』ってからかわれるだろうしな。


「…まあ、なんにしてもあの先輩に関わるのは止めとけよ、絶対面倒くさいことになるだろうしな」


「わかってるよ…今度来たら、キッパリ断るよ」


「…そうだといいけどな」


 すでに話の方向性を変えようとしているのか、何か言いたげにニヤつく安雄に気づかないフリで僕は黒板に向き直る。 


 同時に講義をするために教授がやってきたのは行幸だった。


 なぜなら、間違いなくまた「そんなことできるのか?」と言われることは明白だったからだ。




 必修講義を終えた僕は学食へと向かっている。 安雄はこのすぐあとにバイトがあるというので帰っていった。 


 時刻は昼過ぎなので学食へと向かう学生達でサークル棟前は賑わっていて、その中を縫うようにして入り口を過ぎたところで不意に誰かに肩を叩かれた。


 ま、まさか…。


「上原君もお昼?一緒に行こうよ」


 違った。 声をかけていたのは同じゼミに所属している同級生だった。


 たしか名前は菅居 安樹だった気がする。 この一ヶ月で会話をするようになったゼミ生の一人だ。  

 

 安雄が最初に仲良くなって、僕とはついでに話すことの多い。 友人とは言えないが知り合いと言った方がピッタリくる。


「う、うん…わかった」


 そんなわけだから、返事がぎこちなくなるのも当然…と言いたいが、安雄から言わせれば「なに緊張してんだよ」と言われてしまうだろう。

 

 というか実際言われた。 それをよりによって本人の前で言うもんだから余計に赤面してしまったことが思い出される。


 だから本人のせいではなく、僕自身が一方的に少々苦手意識を持っている人間だ。


 珍しいな。 声かけてくるなんて…。


 てんわやんわになった僕に困ったように笑っていた彼女はそれからは気を使ってくれて、基本的に安雄がいるときにしか声をかけてこないのに、今日はボッチな僕に声をかけてきた。


 まあ安雄が今日はもう帰ったことを知らないのかもしれないし、いい加減に僕も安雄以外の人間関係も作らなければと考えていたのだからこれは好都合かもしれない。

   

 多少は気後れしつつあるけれど、大学内では話やすい人間ではあるので、一緒に昼食をとってもおかしくはない…はずだ。


 学食内は案の定混みあっていたが、二人掛けの席があったのでかばんを置いて注文へと向かう。


 僕はA定食。 菅居はきつねうどんを頼んで、向かい合うように僕らは席に着いた。


「席が取れてよかったね…この時間はどうしても混むからね」


「そうだね…菅居はこのあとも講義?」


 当たり障りの無い会話を何度か交わしていくうちにやっと緊張が解けてくるのを感じる。 


 菅居は肩までの髪を器用にまとめてうどんをすすり上げつつ、合間に会話を進めてくれる。


 器用だな~。 というか僕が不器用すぎるのか。


 テンポよく口を開きつつ、きつねうどんを完食する菅居とは違い、僕の方が半分も食べられずにいた。 


「あっ、ごめん…話しかけ過ぎちゃったね」


「ああ、大丈夫だよ」


 僕の食事が進んでいないことに気づいた菅居が謝ってくるが、この場合は僕の要領が悪いだけなのだから。


「先に講義行っちゃっていいよ、僕の方はまだ必修まで時間あるからさ」


 食べ終わるのを待たれるのは正直辛い。 誰かを待たせるという行為自体に気が重くなるし、無言でいられるのはもっとキツイ。


 だが僕の気弱な想いに菅居は気がついてもらえず、


「大丈夫、待つよ…私、このあと講義無いしね」


「えっ…それじゃ…」


 なんで僕と居るの? という言葉がでかかったがすぐにA定食のごはんと一緒に飲み込んだ。


 別に同級生と一緒に昼食を食べるのはおかしくはないし、食べ終わるのを待つことだって変じゃないはずだ。 けれど違和感が少し残った。


「…………」


「…………」


 もそもそとA定食を食べている僕を見る菅居の瞳には何か期待のような色が有り、なんというか、何か面白いものを見つけたような、楽しいことが待っているような…ウキウキとした気持ちを隠せないように見える。


 ニコニコした様子の菅居の態度とは裏腹に僕にはなんだか不安が沸いてくる。


「ねえ…上原君って塚原先輩と『した』って本当なの?」


「…っ、ど、どうしてそれを…」

 

 驚いた僕をやっぱりと言わんばかりにニヘラと笑う。


「ああ本当なんだね…気をつけたほうがいいよ?」


「き、気をつけるって…なにを?」


 箸を止めて、問いかければ、菅居はニコリと顔を歪めた。 それは笑ってはいるけれど、決して笑ってはいない、それだけは理解できる怖い表情だった。


「ほら…先輩って嫌われてるでしょ?女の先輩だけじゃないよ、一部の男の先輩にも嫌われ…っていうよりも恨まれてるってのが正しいかな?なので一番新しく先輩の毒牙にかかった被害者である上原君もいろんな意味で注目されてるし…」


「…そんなこと言われたってこっちには関係ないし、何より先輩とはぜんぜんあってないんだけど」


「でも昨日先輩が家に来たんでしょ?」


 思わず箸が手から落ちる。 確かに安雄とさっきそのことを話したが、何でもうその話が広まってるんだ?


 もしかして安雄が…?


「違うよ、言いふらしてるのは安雄君じゃないんだよ」


「…それじゃ誰が…?」


 菅居の笑みは変わらない。 まるで貼り付けられように、そう彫られているかのようにピクリとも変化しない。 


 それが本当に怖くて、身震いがする。 そしてふと気づいた。 


 菅居が出している感情は「敵意」だ。 


 一ヶ月ほど前に浴びせられた怒りと怨恨の込められた「敵意」をいま目の前で同じゼミ生で同級生の彼女からそれが向けられている。


 誰に? 僕にだ。 どうしてという疑問すらどうでもよくなる。


 まるでむき出しの刃物を突きつけられてるような気さえする。


 そしてその「敵意」の中に、冷徹で底冷えするような何かが混ざっていて、それが僕をますます震わせる。


 睨まれているのと大差無い視線をふっと逸らして菅居が「あっ」と声を挙げた。


 学食の入り口。 菅原先輩が立っていて、僕らを見ている。


 その視線と一瞬目が合う。 先輩は僕と菅居を交互にみたあとにニヤリと笑った。


 それは少し前まで菅居がしていた興味深げな楽しそうなようにも見えた。


 そのニヤニヤ笑顔のまま、まっすぐにこちらに向かってくる。


「…それじゃ私、もう行くね…あっ、そうだ…言いふらしてるのって…あの人自身だから」


「えっ?」


 驚く僕を冷たく一瞥して菅居は立ち上がり去っていった。 途中、菅原先輩とすれ違うが、一瞬だけ先輩を見た後にそのまま去っていった。


 先輩は菅居には一切視線を向けず、捕らえるように僕だけを見続け、そして先程まで菅居が座っていた対面の席に腰掛ける。


「おはよう…昨日はごめんね」


「い、いえ…せ、先輩も…昼食ですか」


 菅居にたったいま言われたことが忘れられず、もしかしたら声は上ずっていたかもしれない。


 先輩は先輩でそれに気づいているのかいないのか、昨日と同じようにジッと僕の顔を見ている。


「…さっきの子、彼女?」


「す、菅居…ですか?いえ同じゼミの仲間です」


「なんだそうだったの…もしそうだったら喧嘩してるのかと思っちゃった」


「…喧嘩…ですか…なんでそんなこと…を」


「だって私が君の家に昨日行ったことを責められてるのかと思って…ね」


 悪ぶれない態度で、当たり前にそんなことを言う先輩の顔は平時のように微笑を浮かべていて、それを見たことで菅居が言っていたことを確信した。


「…せ、先輩…その聞きたいこと…が…」


 それでも僕の勘違いかもしれない。 菅居の嘘かもしれないという、かすかな希望を持って問いかけようとした質問は、


「昨日のこと?みんな知ってるわよ、私が言ったもの」


「ど、どうして…それを」


「それこそどうして?嘘は言ってないじゃない。実際に私は君の家に行って、部屋に入って一緒に飲んだ…まあセックスはしなかったけどね…そして私はそのまま帰った…何一つとして誇張もしてない…有りのままに…ただ数人の知り合いに話しただけ」


「…………」 

 

 僕は何も言えない。 学食の中は昼休みの終了が近いというのにまだ雑然としている。 

 

 各自の他愛も無い会話が混ざり合って聞き取れることの出来ない騒音に思えるけれど、不思議に僕と先輩の周囲は見えない何かに囲まれているように、あるいは別の世界のように静まり返っていた。


 確かに周囲は騒々しい。 なのに先輩のその言葉は耳元で囁かれているみたいだ。 その物言いと比例するようにハッキリと耳に入っていた。


 だからこそ僕は黙る。 ひょっとして理不尽なことを言っているのは僕の方かもしれないという錯覚に陥りかけてしまう。


 けれど違う。 それは違う。 なぜなら先輩の物言いにはキッパリとした悪意が満ちていた。


 それは先程の菅居が僕に向けたようなのとはまた少し違うかもしれない。


 でも間違いなく先輩は何らかの作意を持って昨夜のことを言いふらしているのだ。


 まるで意地悪な講師が酷く濃くてその実、それとは相反するような『正論』という煙幕で困り果てている様を観察して喜んでいるような姿に僕は初めて先輩に対して反感を持った。


「…そう言うことをあまり言いふらすのはやめてください」


 気弱な僕にしてはキッパリとした言葉が吐けた。 


 それを聞いた先輩は一瞬だけキョトンとした表情を浮かべた後にニンマリと…そうニヤリでもニコリでもない。


 まさしくニンマリという言葉が似合うように顔を崩して僕をジッと見つめる。


「ええ?どうして…どうしてなのかな?もしかして君には恋人がいたのかな?それならあのときにどうして拒否をしなかったの?それとも私のことが嫌いじゃないっていったのは嘘だったの?」

  

 例のニンマリとした笑みは変えずに、まるで僕の反応を楽しいことでもあるようにまくし立ててくる。


「こ、恋人は…いません…だけど…そういったことを言われるのは困るんです」


 僕の反撃は最初の言葉だけであっさりと止まり、言い訳染みた物言いになっていることを自覚する。


 これでは先輩がさらに責めたててきたらあっさりと二の句が告げなくなってしまうことに気づいて今まで抱いていた反感も弱々しくふらついている。


 しかし先輩の反応は予想外だった。


「……そうなの、ゴメンね…久しぶりに仲良くなれそうだったからちょっとはしゃぎすぎたみたいだね…ゴメンね、ゴメンね」

 

 そう言って先輩はスッパリと切れ味の鋭い刃物で彫られたような瞳に涙を浮かべてしおらしくなって僕に謝罪をしつつ、その語尾はだんだんと大きく、そして悲痛になっていくので周囲がその状況をいぶかしんでこちらを見る人数が増えてきてしまっていた。


「い、いえ…わかってくれればいいですから…その…自分も言い過ぎました…こちらこそすいません」


 今度はあべこべに僕の方から謝罪をする羽目になった。 その間にさえ、僕と先輩の会話を盗み聞きした野次馬達の視線が集中してくるのを感じる。


「うん…そうだね、それじゃお互いに悪かったってことでこれでおあいこにしようか?」


 …なんだか話がヘンテコな方向に向かってきているような気がする。 けれどそれを断ってまた泣かれてしまっても困る。


 なによりも少し前みたいに悪い意味で注目されつつある今の状況ではそれを肯定せざるを得ないじゃないか。


 弱りきった僕がわずかに頷く。 すると先輩はまた平素の朗らかな表情に戻るけれどその細い瞳の中にはまだ先ほどの得体のしれない光は消えていない。


 そうしてまた一泊おいた後、また口を開く。 そのときにはもう潤んでいた眼は乾いていて、ペロリと唇を舌がなでる。


「それじゃこの話は置いておいて…えっと、君って名前なんだったけ?」


 そういえば先輩に名前を呼ばれた覚えはない。 むしろ名前を名乗ったことさえないかもしれない。


 考えてみれば、図らずも肉体的に結びついた相手の名前を知らないというのはあまりにも変だとは思う。

 

 それでも僕は少しだけ逡巡する。 


 なにか自身の名前を教えてしまうこと自体が先輩の行動すべてを肯定してしまうような気がしたのだ。


「う、上原忠雄…です」


 だからといって名前を教えないということもできない。

 

 せっかく話の向かう先が落ち着き始めたところで混ぜっ返すような蛮勇など考えられないのだから。


「上原君ね…私、塚原沙優子…なんだか順番が変になってたよね~」


「…そうですね」


 そう返すしかない。 とにもかくにも順番を間違えていたであろう僕らは辻褄を合わせるように自己紹介を行った。


「…ねえ、上原君、これから大変だと思うけどよろしくね」


「えっ…それって…どういうこ…と」


 最後まで言い終わる前に先輩はさっと立ち上がってしまう。 戸惑っている僕はそれを馬鹿みたいに黙ってみている。


 先輩はまたあの嫌味なニンマリ顔をして僕にそっと近づいてきて、


「…でもね、これは君が始めたことなんだから諦めてね」


 それだけ言ってさっさと学食を出て行ってしまった。 後に残された僕はポカンとしたままそれを見送るだけで、そしてそんな僕を周囲の人々が遠巻きに見つめていた。

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