先輩来訪

 人の噂も七十五日という諺があるが、それの半分くらい、一ヶ月も立った頃には僕を見てヒソヒソ何事かを言う人間もいなくなった。


 実際に予測したとおりに僕の日常は平穏に戻っていた。

   

 先輩の姿はあれから二度か三度くらい学内で見かけたくらいで、それも遠かったのでお互いに顔を合わせずに済んでいる。


 さすがに直接向き合えば、うまくスルーできる自信は無かったのでその点は幸運だったと言えるかもしれない。


 ちょっと格好悪いかもとは思うけど、これも性分なのだからしょうがないだろう。


 大学生活にもすっかりと慣れてバイトも始めたし、安雄以外にも会話する人間もポツポツと出来てきた。 


 飲み会はさすがに遠慮してはいたがボチボチほとぼりも冷めただろうからそろそろ参加してみようかなと安雄に言ってみると、僕に付き合って不参加を続けていた彼も賛同してくれた。


 その頃には先輩のことは忘れ始めていた。 けれども予期せぬことが起こった。


 季節はもうとっくに梅雨を過ぎて、少し気の早い蝉達が鳴き始める頃合のそんな土曜日の夜。


 その日は朝から雨が降っており、夕方になってもそれは止む気配はなかった。


 ザーザーと降りしきる雨はやや強い横風ともあいまって窓にぶつかってピシャピシャと音を奏でている。


 バイトも休みで暇をもてあましてはいたが、こんな大雨の中で出かける気も起きず、かといって窓を開けてしまえば水滴が部屋の中に入ってきてしまう。


 雨が降っているとはいえ、もう夏になりかけているので室内は暑く、また朝からの雨降りによって湿度も高い。


 その中でTシャツ一枚と短パン姿の僕の皮膚の表面にはジットリとした汗が浮かんでいてひどく不快だった。 


 とうとう熱気に耐え切れなくなって来月に請求されるであろう電気代に怯えながらもエアコンの冷房を入れる。


 もともと部屋に備え付けられていたオンボロではあるけれど、30分も経てば汗はすっかりと引き、自室の湿度も下がったのを感じてホッと一息ついていると、ふと何か硬質な音がする。


 それは一定の間隔でコツコツと響き、そしてそれが玄関から聞こえていて、そこではじめて誰かが玄関の扉を叩いている音だということに気づいた。


 誰だろう? 安雄か?


 一瞬考えたが、おそらく違うだろう。 安雄ならわざわざノックなんてしない、友人の気安さからぶしつけに扉を開けてドスドスと入ってくるだろう。


 それじゃ何かの勧誘だろうか?  確かに上京してから何度となく羽毛布団の勧誘や新聞の勧誘やらが来てはいたが、それでも遅くないとはいえ夜に訪問してくることはなかった。


 仮にそうだったとしたら果てしなくうざい。 なのでこのまま居留守を使ってやろうとも思ったが、玄関から聞こえてくる声に思わず立ち上がってしまった。


「居ないの~、暑いから早く開けてよ~」


 嘘だろ? 信じられないというよりもまったくの予想外のことにそのまま固まってしまうが、どんどん大きくなる扉を叩く音に促されて開けてしまった。


「なんだやっぱり居たのね~」


 そこには塚原先輩が立っていた。 足元にたたんだ半透明のビニール傘を置き、片手にはコンビニの袋を携えて、眼鏡には水滴がついてその長い髪からはポタポタと水が垂れている。


「ど、どうして…?」


 当然の疑問が口から出ると、予測していたのか先輩は…


「ちょうど近くに来たから遊びに来たんだよ、一緒に飲も?」


 そう言うと目の前にコンビニ袋を持ち上げてこちらに見せる。 袋の中には缶ビールが四本入っていて、屋外にいたせいだろうかその頬は少しだけ紅潮していた。


「…まさかわざわざ先輩が酒を買ってきて、しかもこんな大雨の中を帰れなんて言わないわよね?」


 疑問系な語尾をしつつも先輩は強引に僕の脇をすり抜けて部屋へ入ってしまう。


 進入されて靴まで脱がれてしまわれたらもう何も言えない。 動揺しつつも僕は先輩が座り込んで差し出してきた缶ビールを受け取る。


 困惑しながらもプルタブを開ければ、プシっという音を立てて泡が飲み口から溢れ出て、その香りが鼻腔を刺激する。


 キンキンとして冷えた缶の表面についた水滴はいまだ火照っている僕の手の平から手首へとツーと流れていき、それが心地良くも感じるけれど同時にこの状況の異質さにジッと飲み口に浮き上がった泡を見続けたまま立ち尽くしてしまう。


 僕が開けるのを待っていたように先輩もビールの缶を開ければ、 


「うん?飲まないの?炭酸抜けちゃうよ」


「あっ、はいっ…」


 促されて缶に口をつけて三分の一くらいをゴブっと飲み干す。


「結構飲めるみたいだね、お酒飲みなれてきたの?」


「ま、まあ…それなりに…ですか…ね」


 淡々とした口調で僕の飲みっぷりを評価しつつ先輩も一口、ビールを飲む。


 なんだこれ? なんだこの状況? ってか先輩はどうして僕の部屋を? あっ、そうかあの時に部屋にきたんだっけ…あのとき…?


「あっ…!」


 そのときを思い出して声を挙げてしまった。 先輩はいまだ困惑する僕を無感情に見ながらまた一口ビールを飲む。 そして察したのか、ニヤリと笑って、


「そうだね…あの時以来だね~」


「そ、そうです…ね」


 もう抵抗する気力も起きない。 あのときを思い出した気恥ずかしさと先輩のあまりにもなんでもない態度にすっかりと気圧されてしまって諦めて座りこむ。


「ふふっ、あいかわらず可愛いね…」


 微笑ましいと言わんばかりの表情でまたビールを一口煽る。


「ど、どうして…?」


「ちょうど近くまで来たっていったじゃん」


「い、いや…それは聞きました…けど…だから…その…どうして…」


 恐る恐る問いかける僕。 けれど先輩はジッと僕を見つめつつ、その少し切れ長の瞳を上に逸らして黙り込んだあとに、


「…来たかったから…それじゃ駄目?」


「い、いや…駄目ってこと…は…ないです…けど」


 先輩の真意がわからない。 近くに居たとはいえわざわざやってくるような関係ではない気がするんだけれど。


 ただそれを率直に言うのははばかれて、しどろもどろになってしまう。 


 そんな歯切れの悪い僕の物言いに少しだけ訝しい表情をしたあとに先輩はハっとした顔をする。


「ああ、同じ人とは二度しないって話?まあ確かにそれはいつもそうなんだけど…ね」


 いや自分が問いかけたいのはそういうことじゃないんですけど。 


 そう言いたいけれどドギマギして唇が開かない。 でも黙っていたらそう思っていると肯定しているようにとらえられてしまう


「…別にいいよ?ただこれ全部飲んでからでいい?あまりガッついてると普通の女の子だったら引かれちゃうよ」

 

 そう悪戯っぽく笑う先輩の瞳はあの日と同じように熱っぽい何かが見えていた。


「い、いや…そうじゃなくて…ですね」


 さすがにそれは即座に否定する。 いや別に先輩が魅力的じゃないってわけじゃないし、ただなし崩し的にそういうことをするのは良くない気がする…ってか僕と先輩の関係ってどんな関係なんだ?


「…?もう、それじゃなんなの?ってか誘いを断られるのって結構ショックなんだけど?」


 煮え切らない態度に苛立ったのか先輩の眉が釣り上がる。 

 

 確かに言われてみれば女の人の方からすればそうなのかもしれない。 ただそれだけは違うということは言わないと。


「い、いや…僕と先輩の関係でそういうのって…何か…違うって…いうか…別に先輩が嫌いってわけじゃなくて…ですね…その…」


「…………」

 

 先輩はジーっと僕を見続ける。 その表情は怒っているようにも見えるし、あきれているようにも思える。 


 雨が窓を叩く音とエアコンの起動音だけが聞こえる。 沈黙する先輩の顔を見ることが出来ない。 それでもどうにか言葉を紡ごうとはするけれど口の中が乾燥していて舌が縺れてしまう。


 やがて短くは無い時間を黙りこくっていた先輩は持っていたビールを急角度に傾けて中身を豪快に飲み挙げる。 


 ゴクゴクとした音が部屋の中に加わり、先輩の細く白い喉が上下するのをどうしようもなく見続けていた


 そして中身をすべて飲み干したのか、先輩はプハーとため息のように大きく息を吐いた後に空になった缶をテーブルの上に豪快に置いた。


「…わかったわよ、そういうのは期待してないのね…もうこんな雰囲気になっちゃったら私が悪いみたいになるじゃないのよ」


「す、すいません」


「…まあ、私もいきなりだったしね…だからってそういう態度は…止めてよ」


 その言い方にハっとして顔を上げれば、壁にもたれかかった先輩は横を向いていて、来たときのような態度はすっかりと変化して、困ったような表情をして横を向いている。


 その横顔はビールの影響なのか少し頬を赤くしていて瞳は潤んでいる。 ああもしかしたらそれは勘違いで単純に傷ついてしまったのかもしれない。

 

 どちらにしろ僕の態度が先輩にとって嫌だったということはすぐに理解できた。


 なので僕も先輩と同じようにビール缶の角度を挙げる。 


 中身が口元から零れて垂れようとも構わずに一息に飲み込もうとするその仕草に先輩が呆気に取られたようにポカンと僕を見ていた。


 そして首元に垂れたビールをグイっと袖で拭いたあとに、


「先輩が別に嫌ってわけじゃないです、ただいきなりだったから驚いただけですから!ビールありがとうございます!」


 急激に回るアルコールで緊張を無理やり弛緩させて率直な気持ちをはきだした。


「そ、そう…それなら…よか…った…けど」

 

 奇行染みた僕の行動に驚愕したようで、絶句しつつも答えたあとに急に先輩がニコリと笑う。


「…ど、どうしたんですか?」


「ふふ、ごめんなさいね…君が突然、あんなことするもんだから可笑しくなっちゃって…ふふ、なんか毒気抜かれちゃった」


「そ、それは…どうも…」


「君、面白いね…雨の日にこんなに笑ったのは久しぶりね」


「雨の日は嫌いなんですか?」


 先輩が漏らした言葉に再度問いかけると、ふとバツが悪い顔になった。 そして答えづらいのか、気まずかったのだろうか? 先輩はプイと横を向き、


「…雨の日は誰かと一緒にいたくなるのよ」


 また部屋の中の雰囲気が気まずくなった。 でもそれは先輩も気づいたようで、まだ開けていなかった缶を慣れた手つきで開けると、静かな声で問いかけを始めた。 


「…君はそんなことってないの?」


 さすがの鈍い僕でも先輩がいつもと違うということは感じ取れた。 いつもとは言っても先輩と僕は出合ってから日が浅く、また会話も数回したことがないのだから変な気もする。 


 確かに関係は持ってはいるけれど、それは激しくてもすぐに止んで通り過ぎてしまうような夏の夕立のような間柄ではある。


 それでも僕はこの融通の聞かないボンヤリ屋である自身の心の底を掘り抜くような心持でその問いの答えを探していた。


 それは平時の飄々とした先輩ではなく、いまここにいる彼女が歳不相応に小さくか弱く感じたからだ。


 もしかしてこの人は普段は外側に出しているような明るく強い人ではないのかもしれない。 あるいはそれ自体が演技かもしれないぞという疑いもでてきたが、それでも構わなかった。


 先輩がこういう姿をみせてしまうのは心ならずも僕自身のせいだということはわかりきっている。


 だったらせめて僕は僕なりに答えなければという気持ちにさえなった。


 ところが強く決意し、心の底をあさっては見たけれど、僕の口から飛び出した言葉はやはり水のように薄いものだった。


「そ、そうですね…雨はあまり好きじゃないです…濡れるし、布団がしけって寝づらいですし…そ、それに…」


「…まあ、そうよね」


 薄っぺらい言葉に寄り添うようなそれこそ水のように味気ない返事。 


 先輩はその後も何か言いかけようとして視線を下げる。 そして幾分の逡巡の後に、


「私は雨の日は好きよ…窓を滑っていく水滴に灰色で曖昧な空模様とか…ね、落ち着くの…でも同時に不思議と寂しくもなる気がする」


 それだけ言うとまたビール缶を握ったまま黙り込んでしまう。


「…そ、そうですか」


 それがあまりにも寂しそうで、またひどくはかなく見え、僕はまたそれだけしかいえなくなってしまう。


「…………」


「…………」


 また沈黙。 それでもいまこの場の静寂はかろうじてまだ降り続けている雨音によって場が保たれている。


 そんな気がする。 普段なら気鬱になってしまうような静けさはいまこの瞬間だけは優しく空気を潤してくれている。

 

「…さてと、飲み終わったから…帰るわ」


「ふえっ?…えっ?」


 唐突に先輩が立ち上がる。 そのころにはすっかりとアルコールに沈み込んでいた思考が少しだけクリアになる。


「悪いけど、空き缶は片付けておいてくれるかな?…それじゃ」


 少なくとも僕と同等には飲んでいたはずの先輩は軽快に玄関へと歩いていく。


「あっ、ちょっと…まだ雨が…っと、うわっ…」


 僕も遅れて立ち上がろうとしたところを額にトンと先輩の指が触れられて、そのまま後ろに倒れて尻餅をつく。


「酔ってるんだから…無理しなくていいわよ、今日はありがとう…まあ、思ってたのとは違ったけど…意外と悪くなかったわよ」


 先輩は破顔していた。 いつもとは少しミステリアスな笑みではなくて、少しだけ陰りがありつつも、スッキリとした表情。


「また…今度ね」


 それだけ言って玄関の扉は閉められた。


 僕はいまだお尻を床につけたままでいる。 アルコールがクラクラと回っていて、でもそれとは違う眩暈によっていつまでもそうしていた。


 雨はより激しくなりつつある。

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