刻みつけたいと先輩。雨は強くなる

「こんばんわ~、来ちゃった!」


 守口先輩と出会った日の夜。 先輩はいつかのときのようにやってきた。


 あの時と同じく酒を買い込んで。 


 外は雨が降っていたようだ。 通路にある先輩の肩口が濡れている。


 室内に居たとはいえ気づかなかったことを見ると小雨程度なのだろう。 それでも先輩の長い髪は浸されていたかのように濡れている。


 ふと濡れた空気と先輩の香りが混ざって玄関口にフワリと漂った。


「今日は晴れてたから傘もってなくてさ~、タオル貸してくれない?」


「はあ、どうぞ…」


 もう驚かない。 この人はいつだってこうなのだから。 今日の昼間に守口先輩からも聞いているので、これがこの人の平常なのだろう。


「そういえば今日、守口先輩に出会いましたよ」


 玄関のすぐ横にある脱衣場からタオルを一つ取って手渡す。


「守…口?誰なのそれ?」


「何って…守口先輩ですよ。先輩の同学年で眼鏡掛けてて…」


「う~ん?そんな人居たっけ?」


 塚原先輩は本当に誰かわからないようだ。 いくら『一度ヤった相手』とは没交渉になるとはいえあんまりな話じゃないか。


 あの喫煙上で楽しそうに塚原先輩のことを話す守口先輩を幻視する。


 さすがにあの人が不憫に思えて、先輩が濡れた髪を拭いたタオルを受け取って洗濯機に放り込みながら、


「いや…だから守口先輩って…その…僕と同じように…飲み会で関係したっていうかされたっていうか…」


「えっと…ゴメン、本当にわからないわ…そんなことより早くこっち来て一緒に飲もうよ、わざわざ新発売のを買ってきたんだからさ」


「そんなことって…先輩は本当にすごいですね」


 普通はそういうことをした相手なら覚えているもんじゃないだろうか? いくら先輩が色々『している』とはいえ…こんなにあっさりと忘れてしまえるのものなのか?


「あのねえ、そんなのいちいち覚えてらんないわよ、基本的に私は過去を振り返らない女なの、ましてや飲んでるときなんてますます忘れっぽくなるんだからさ…」


 テーブルを挟んで僕が向かいに座ると先輩はすでに酒を開けて一口飲んでから反論してくる。


「先輩はいつだって酔ってるじゃないですか」


 諦めて僕も酒に手を出す。 その仕草をジッと見つめ、そして視線があうと先輩はニンマリと笑って、


「シラフの時だってあるわよ、散々やった後とか、朝起きたときとかね」


「それ以外はずっと酔ってるってことでしょ?」


 先輩が買ってきた酒はポップな外装とは違って中々にアルコール成分が強くて、思わず顔をしかめる。


「酔わなきゃやってらんないことだってあるのよ、ほら…そんな苦い顔をしないでよ、飲んでるときくらい楽しいことだけ考えてりゃいいのよ」


 僕の表情が歪んだ理由を勘違いしつつも、先輩は一緒に帰ってきたつまみ代わりの菓子の袋を慎重に開けて僕のほうへと寄せ、その一つを手にとって差し出してくる。


 この人はいい加減なようで、実は気遣い屋なのかもしれないなと思いつつも、僕は差し出されたそれを手にとって口に放り込んだ。


「あれ?口で受け止めてくれないの?つまんな~い」


「いや…そういうノリはちょっと…」


「…まあ、話を戻すとね、なんだっけ?その守…口…君?悪いけど本当に記憶にないわね、普段なら酔ってはいても少しは覚えてるもんなんだけど…」


 つまんなそうに先輩もお菓子を無造作につかんで、その小さい口に入れる。


「…良い人だと思いますよ、真面目だし、なにより誠実な人なんです」


「…君がそれ言う?いくら『兄弟』とはいえ出会ったばかりなんでしょ?」


「そ、それは…そうなんですけど、でも…その…先輩のことを…本当に好きなん…だと思い…ます」


 またもや『兄弟』という言葉で呼ばれてしまった。 なんだろう? 結構メジャーな言葉なんだろうか? 用語としてはともかくその意味で言うことも言われることもそうそうないような単語だと思うのだけれど。


 口ごもる僕を尻目に先輩はまた一つ菓子を取って今度は前歯で削るように咀嚼する。 


「…………」 


 視線は斜め上を見て、黙りこんで。 おそらくは守口先輩のことを記憶の中から取り出そうとしているのだろう。

 

 しかし結論は…、


「駄目ね!思い出せないわ、よっぽどつまらない人だったのね」


 バッサリと切り捨てる。 


 そりゃ確かに守口先輩は派手ではないけれど、仮にもそういった関係を結んだ相手にそう言われるのはいくらなんでもひどすぎる。


「もっと思い出してあげてくださいよ、先輩が可哀想過ぎます」


 僕の非難めいた物言いに一瞬だけ驚いた顔をした後に急に顔が険しくなった。


「だから記憶にないって言ってるでしょ?第一にね、良い人なんてのは大抵、誉めるところが無くて困ったときに使う言葉なのよ?大抵はどうでも『良い人』を評するときに使用するのよね」


 それだけ言って『どうだっていいわよ』という表情をしてそっぽを向いてしまう。

 

 しかしお菓子だけは忘れずに手にとってまた一つ口に運んで。


「だいたい、上原君はさ~、その守口君だっけ?私にどうして欲しいの?またやってあげてほしい?それとも恋人になってあげてほしい?冗談言わないでよ、そんなこと他人に言われることじゃないでしょ?」


 気を取りなおして向き直った先輩は険しくなった顔を変えずにまっすぐに僕を見てくる。


「そ、そうですけど…僕は…ただ…守口先輩のことを少しは考えてもらいたくて…」


 正論だ。 先輩の言っていることは正しいと思う。 恋愛なんて究極のプライバシーだ。 赤の他人に向き合ってほしいなんて言うことでも言われることじゃない。


 それこそ当人同士で話し合え! というのが正しいだろう。


 ちゃらんぽらんな先輩らしくない言葉だが、そもそもが僕達の始まりからして異常なのだ、そういうときだけは正論を言うのは違うだろう。


 とはいえ、そのちゃらんぽらんな先輩の行動に関わっているというか、それの一つになっている僕には何も言えない。 


 せめてもの抵抗として情けなくも先輩の視線から瞳を逸らさないでいることが僕なりの誠意だった。


 誰に? 守口先輩に? 僕に? それとも…。


「ああ、もう!…わかった?この話はこれで終わり!まったくもう、こんな話をするために来たんじゃないってのにさ…ブツブツ」


 先輩はまたあらぬ方向を向いて何事かを呟いていた後に、一度黙り込んだ後にまた僕と向き合って口を開く。


 そのときには先ほどの不快な顔ではなくて、いつもの朗らかで明るい表情だった。


「話が脱線してたけど、今日は上原君に良いニュースを知らせにきたのよ」


「は、はあ…良いニュース…ですか?」


 コロコロと変わる先輩のテンションと態度にはやはり振り回されてしまうが、それでも先輩は何か自分に用があったようだ。


「ここしばらく、うざったい体験ばかりしてたでしょ?ごめんね…あれ、多分もう解決したからさ…」


 うざったい体験? ああ、もしかして…。


「前に先輩と関係した人達からの…ですか?」


 それは正解だったようで、ニッコリと笑った先輩がうんうんと頷く。


「そうそう…一人一人、まあ思い出せる限りだけれど注意して回ってたのよ、さすがに自分のやってきたこととはいえ、何も罪の無い後輩に背負わせるのも…まあ、アレだしね~」


 やれやれ疲れたというように肩の辺りに手を回してわざとらしく首を傾ける。


「そ、それは…ありがとう?…ございます」


「でしょ?まあ私が原因とはいえ億劫で仕方が無かったわ……それにしても一回したくらいであそこまでハマるものかしらね?これだから童貞てのはね~、まあそこが可愛いと言えなくもないけどさ、あっ、でもこの場合はハメられたのは私なんだけどね~」


 先輩は一息にまくし立てる。 それは本当に大変だったようではあるけれど、そのやや大袈裟な物言いが、やっぱり芝居じみて見えた。


「…そうですか」


「…なによ?その淡白な反応…これでも私がここまでフォローしてあげた人は上原君だけなんだから、もう少し感謝してくれてもよくない?」

 

 今度は拗ねたように唇を尖らす。


「そ、それは…ありが…とうございます」

 

「どういたしまして…まあ皆、童貞だったし、初めての相手だからああいう感じになるんで楽しいんだけど、もう初物じゃないから興味無いのよね」


「えっ、それじゃ先輩は…その…童貞しか…相手しないと?」


「ええ、そうよ、初物が好きなのよね」


 驚いた。 なるほど先輩の悪評が高いのも、かつての学食での妙な視線の原因は 先輩のその特殊な信念?が原因だったのか。


 確かに女性側ならともかく、男側でどうしてあんなに先輩の噂に対して反感を持たれているのかは謎で、僕も男だから、ヤリ捨て(これが正しい表記かどうかはわからないが)されたことになぜあそこまで怒るのかというのは疑問だったのだけれど…。


「…どうしてですか?」


 毀れた問いかけは無意識に口から。 その問いかけには『どうして童貞だけを?』『何でそんなことを?』『そんな気持ちを弄ぶようなことを?』等々の複数の問い、またそれ以外の言葉に出来ない疑問が無数に混ざり合っていた。


「…どうしてだと、思う?」


 先輩はそれに答えずにこちら側へと質問してくる。


「わ、わかりませんよ…そんなの。だって普通は…それは…好きな人同士…カップルでするものだし…酒の勢いってやつでもないんですよね?」


「…………」


 先輩は無言だ。 笑うでもなく、怒るでもなく、感情を無くしたように。 先輩のそのやや細い瞳には何も写し出さない、 


 先輩は僕を見ているだけ。


 目の前の酒からはアルコールの香気だけが立ち昇り、雨はまだ降っているのか沈黙したことで屋根を打つ音が微かに聞こえている。


 それだけが静止したような部屋の中で感じられる。 目の前にいるはずの先輩すら存在しないように希薄で、ともすれば夢の中にいるような現実感の無さは慣れ親しんだ自分の部屋でさえ、見知らぬ場所へ放り出されたような心細い不安感で息苦しくなってくる。


「…刻み付けたいから」


 窒息するような重苦しさは先輩の言葉で一気に消えた。


「えっ?」


 不意に先輩が手を伸ばし、僕の頬に触れる。 

 

 ヒヤリと冷たく、伸ばした爪先の感触がシャープに皮膚を刺激する。 先輩は中腰になって顔を近づけてきた。


「私はね…刻み付けてやりたいのよ、心に、記憶に、そしてずっと忘れられないために…できれば…ううん絶対に一生、その想いを」


 至近距離で僕を覗き込む先輩の顔は真剣だった。 それが美しくも不快に。


 鼓動が早くなる。 顔も熱くなる。 全身の血流が止め処も無く流れて循環し、ただ、ただ怖くなるくらいに。

 

「…ねえ、こんな格言知ってる?女は最後の女になりたくて男は最初の男になりたがるって…」


 鼻先が掠めるような距離で先輩はジットリとした声で言葉をつむぐ。 僕は怯えたように何も言えない。

 

 ただ血が…、血だけが高速で駆け巡って頭の中をグシャグシャと破壊するように。


「きっと私は女じゃないのね、だれしも初めてのことって覚えてるでしょ?ううん、もしかしたらいずれ新しい体験で埋没してくるかもしれない。そんなの耐えられない…古くなって消えていくような…そんな淡い思い出に成り下がるなんて絶対に嫌なのよ」

 

 先輩は尚も僕を見ている。 さっきまで…いや、出会ってからずっとなにもないように見えた瞳。 その中の黒い楕円にはハッキリと僕が写っている。 


 まるで飲み込まれているように…。 囚われているように。


「だから刻むの…傷をつけてやるの…決して忘却されないで触れればいつまでもずっと痛くてたまらない…そんな癒えない傷を…そうすれば私は古くならない、いつだって新鮮に誰かの心の中に存在できる…そうやって生き続けられる」


「そ、それが…先輩…の」


 望みなんですか? という言葉は最後まで言うことはなかった。


 先輩がパッと放り捨てるように頬の手を離してしまったから。


「なんてね…ただ経験無い子の方が初々しくて好きなだけよ、それだけ…セックスなんてそんなもんでしょ?たいしたことじゃないわ」


 すでに先輩はいつものような飄々とした様子に戻っていた。


 僕は何も言えずに放心している。


 それでもやっと弛緩した空気がまた硬直するのが怖くて、目の前の酒をグビリと感情ごと飲み干した。 


「せ、先輩は…その…変ですね」


 取り繕うように笑ってそう言えば、先輩は噴出すように笑って、


「よく言われるのよね…それ、でもね?上原君も結構変だと思うわよ?」


 痛快に笑って酒缶を傾ける先輩。 まるでさっきのことが無かったように朗らかに。


「へ、変…ですかね?」


 鼓動はいまだ早いまま。 妙な緊張感から解放されたことから身体は強張っているような、弛緩しているような違和感で支配されている。


 それを平気な面で誤魔化す。 先輩はまた一口、酒を煽ると、飲み終えた缶をゆっくりとテーブルに置いた。


「だって二回目を求めてこないんだもん、そんな人、今までに一人も居なかったのよね、だから最初は可愛くないって思ったし、なんならムカついたもん」


「い、いや…そんなこと言われましても…」


「ああ、いまは別にそんなこと思ってないわよ、ただ余計にちょっかいをかけたくなっただけ…とはいえ、まあ変に学内で噂になってしまって迷惑をかけたってことだけは悪いとは思ってる…ほんのちょっぴりだけど…ね」


 すでに二本目を開けている先輩はそう言うとまた酒を、今度は一気に飲み下して豪快に床に叩き付けた。


「…本当にね…柄にもなく色々やらかしちゃったね…ごめんね」


 もしかしたら先輩は僕の家に来る前に飲んでいたのかもしれない。 二本開けたとはいえだいぶアルコールが回っているようだ。


 うわ言のように『柄にも無い…』『私らしくない…』とポツポツと誰に聞かせるでもなく呟いている。


 それになんて言っていいのかわからないで僕はチビリチビリと舐めるように飲んでいて、ふと気がつけば先輩は『クー、クー』と意外に可愛らしい寝息を立てて眠り込んでいた。


 その様子を見ながら僕はアルコールでボンヤリしつつある脳内で先輩のことを考えていた。


 先輩の不道徳な行い。 その理由を。


 あれは本当に冗談だったのだろうか? あの怖くも綺麗でありながら小柄で女性らしくも弱々しい華奢な身体。 その外見とは不釣合いな、不名誉な噂すら気にも止めないようなある種の図太さ…少しだけ良く言い換えるなら『強さ』を持った行動の真意は…。


 誰かの心に自身を刻み付けたい。 その傲慢とも切実とも言える想いはもしかしたら誰もが持っている自己顕示欲、あるいは弱さなのかもしれない。


 存在の耐えられない軽さ。 その言葉が思い出された。


 それを知ったのはなんだっただろうか? 何かの本だっけ? 映画だろうか? それがどういった文脈、あるいは場面で聞いたのかは思い出せない。


 ただ先輩のあの独白は僕の心の中に刻み込まれた。


 笑うことも怒ることもない。 反感も肯定すらない。


 ただ、ただまっすぐにそれはまるごと僕の心の中のどこかに放り込まれて、決して忘れることはないだろう。


 それだけは確かだった。 確実にそう思えた。 

  

 理解不能な存在に考えていた先輩がここにきて始めて一部だろうけれど理解できたような気がして、それは不思議に心地よかった。


 それにしても今日は何という日なんだろうか。


 守口先輩と出会い、『兄弟』と揶揄されて、それでも話し込んで、塚原先輩は先輩でその心の中を図らずも垣間見せてくれたことで他人との出会いと邂逅。 それによる状況の変遷は僕に気づきと変化を与えてくれた。 


 まるで刻み込まれたように。 


 それが果たしてよいことなのかはわからないけれど、あのときに塚原先輩と出会わなければそれに気づくことは無かったのだろう。 


 感謝すべきなのか、そうすべきではないのかは兎も角として…だ。


 僕は複雑に思えても意外に単純で、怖くも可愛らしい、目の前で静かに寝入ってる先輩の上に風邪を引かないよう布団をかけてる。


 雨はまだ降っている。 むしろ強くなってる。 嫌でもこれから本降りになっていくことに気づきながら明かりを消して、床の上にゴロ寝する。


 雨音はどんどん強くなっていくけれど、先輩の寝息だけは不思議にハッキリと聞こえていた。

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