5話 人魚の思い出
「へぇ、あれが『幸せの鐘』なんだ」
「結構小さいだろ、あれ」
「やっぱり写真の魔法ってやつかぁ。ちょっと残念」
サヤを乗せた車椅子を押しながら、僕は丘のスロープを上がった。
「キミって親切だよね。一人で上がろうと思ってたのに」
「嘘つけ、最初から僕に運ばせるつもりだったろ」
「えへへ、バレちゃった」
サヤは舌を出して微笑んだ。
「えーっと……。そうだ、昨日話したやつなんだけど」
サヤはポーチから手帳を取り出し、雑誌の切り抜きを見せてくる。
「限定販売の柿アイスか。そういえば食べたいって言ってたな」
「今日はサヤちゃんがおごってあげまーす。車椅子のお礼」
新品の財布を持って誇らしげにするサヤを見て、僕は苦笑した。
「へいへい。そりゃありがたいことです」
ふと、手帳の書き込みが目に入る。
昨日の日付で、僕と話した事が一から十まで事細かに記してあった。
ぎょっとした僕の視線に気づいたのか、サヤが不安そうに声をかけてきた。
「……あ、見ちゃった?」
「ごめん。わざとじゃないんだ」
「いいよ、キミなら。ちょっと恥ずかしいけどねー」
「こうしないと、忘れるんだ、全部」
「すごいよ?朝起きたら『アタシは誰? ここはどこ?』から毎日始まるもん」
「ほんと、参っちゃうよね。おかげで日記を書くのめちゃくちゃ上達しちゃった」
車椅子を押す手が止まってしまう。
「だからキミに会う前とか、水族館に行く時はたっぷり復習してからくるワケ」
はじめて会った時、彼女に記憶が無いと言っていた。
普段は寧ろ、「よく覚えているな」などとくだらない関心をしていたが。
本当は真反対だった。
自分の記憶が毎日毎日砕けて波に消える。頼れるのは自分の書いたものだけ。
自分が誰かすらわからなくなるギリギリを、サヤは毎日過ごしている。
くだらない理由で命を絶とうとした僕と彼女に、遠い壁を感じた。
「おーい。手が止まってますよ、運転手さん」
「……心配しないで、アタシは元気だから」
僕をあやすように、サヤは振り向いて手を握った。
その顔、手の握り方、体温。全てが小夜そっくりだった。
また、僕は彼女を一人で戦わせているのか。
僕はまた、何もできないんだろうか。
「もー、急に泣かないでよ。そんなに心配しないでってば」
涙を彼女の手で掬われるまで、僕は動けなかった。
「……ごめん。じゃあ、行こうか」
「今日は謝ってばっかりだね、キミ」
「……ごめん」
「ほうら、また増えた」
「んー、これなら普通の柿アイスでよかったかも」
「ジュレがちょっと濃すぎたな」
「ま、こういうのは限定品ならではってことで」
僕はベンチに、サヤは車椅子に座ってアイスを食べる。
小夜ともよくこうして過ごしていた。
「……いい景色だね」
ベンチから島が一望できるようになっている。小さな島だから、どこが誰の内かわかってしまうほどだ。
「……そうだな」
見飽きた風景のはずだけど、今日は目に焼き付けなければならない気がしていた。
「写真、撮らないか」
「いいね。しょっちゅうはこれないところだし」
「いや、サヤの写真」
「おやー?ホーム画面をアタシで埋めちゃうおつもりですか?」
「二人の写真撮ろうかなって」
「……ちょっと、考えさせて」
からかう調子が止み、サヤはアイスの容器をゴミ箱に捨てた。
「別に誰かに見せたりしない」
「ううん。そういうことじゃないんだ。キミの事は信頼してるし」
「撮られるのが嫌なら、やめとくけど」
「……違うの。正直、撮ってくれるのは嬉しいんだけど……これ以上、キミをもらっちゃっていいのかなって」
顔が似てるだけの他人が、入り込んじゃうなんて
「キミの大事な小夜さんから、キミを盗っちゃわない?」
「それは……」
「アタシ、悪い子だからさ。これ以上されると、そろそろ抑えがきかなくなってる」
「全部忘れちゃうアタシの、全部になってきてるの、キミが。」
心臓が跳ねた。僕は勝手に重ね合わせ、勝手に彼女に入れ込んでいただけだった。
彼女の、サヤの気持ちを考えるなんてことをしなかった。
どこか他人事だったのかもしれない。
時報の鐘が静かに鳴った。
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