3話 人魚の言葉
アパートの部屋のバケツに、雨漏りの水滴が溜まっていく。
スマホのディスプレイの天気予報を指で滑らせ、変わらない台風情報を何度も確かめた。
「……なぁ、小夜」
ロック画面に戻して、笑顔の写真をじっと見る。
「小夜も、あんな声だったのかな」
画面の彼女は、静かにはにかんだままだ。
「ああでも、小夜もアイツぐらい良く喋ってたか」
本棚の『誰でも分かる手話教本』が目に入った。子供の時に買って以来、ずっと世話になった。
小学生の時、始めて出会って、彼女が指で僕に挨拶をした日。その日におじさんに本を必死にねだった。
彼女の声が聞きたくて、必死で学んだ。それは自分用のスマホを買ってからも変わらなかった。
彼女の白い指先はとても饒舌だった。指を動かすだけで病院のベッドの上が王宮にも、宇宙にも、結婚式場にもなった。
『絵本、出したいな』
いつも彼女はそう話していた。ふわふわした夢物語じゃなくて、本気だし、彼女は叶えた。
本屋にも、「夭折の高校生絵本作家の幻の作品」なんてポップが並んだ。
それを彼女に、小夜に伝えた時。もう骨は海に撒かれていた。
三年は、耐えた。
一人暮らしをして、おじさんたちに迷惑をかけない。
彼女の母親……真夜さんが少しでも落ち着くまで待つ。
死ぬ為の準備を、一人で揃えられるようにする。
それが全部整って、ようやく決行できたのが、10日前だった。
「そうしたら、アイツが出てきたんだよな」
「……やっぱりこれって、浮気かな」
返事の無いホーム画面につぶやく
「顔が別人ならよかったのに。なんであんなにそっくりなんだろうな、アイツ」
返事は無い。雨の音だけがアパートに響いた。
次の日の朝、サヤはいつもどおり海に居た。
立ち入り禁止の看板の先で、イルカショーみたいに弧を描いて美しく水面をジャンプしていた。
「あ、―君。おはよう」
「おはよう、サヤ」
「どう?一緒に泳ぐ?」
「遠慮しとく、水着無いし。また入水するには暑くないしな」
「わぁ、ブラックジョーク」
「自虐ネタって言ってくれ」
くだらない話をして、ビニール袋のアイスクリームを取り出した。
「ほら、食べたいって言ってたやつ」
「おお、柿味のアイスじゃん。ここの名産なんでしょ?」
「観光向けにはそうだな。あんまり食べる奴居ないけど」
「小夜さんは好きだったんでしょ、それ」
「滅多に食えなかったからな」
「……そっか」
少しうつむいたサヤは、本当に寂しそうだった。
「なあ、サヤ。……名前、変えないか?」
「キミが落ち着かないから?」
「それも半分。……ていうかそもそも似てる奴の名前ってだけじゃないか」
「そりゃそうだけど。なんか、アタシの名前って感じでしっくり来てるんだよね」
違う、と口に出そうとした自分が、嫌になった。
サヤに勝手に名前をつけ、今勝手に取り上げようとしてる。
「……アタシも、本物の小夜さんに会ってみたかったな」
「絶対友達になれると思うんだよね」と、胸を張って言った。
今日に限って妙に露出の高い水着を着けている。妙に目に障ったので
目線をそらして答えた。
「かもな。多分サヤの事、絵本にしてくれただろうさ」
「いいなぁ、アンデルセンより人気出ちゃったりして」
「主役が軽薄すぎて無理なんじゃないか」
無言でしっぽで砂をかけられた。怒るとすぐこういう事をする。
今日の波はいつもより穏やかだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます