第十六話 03

「死の沼」の中央には、水上に聳える石造りの塔、ヘオロット宮殿がある。最上階では、先の戦争で黒魔力を消耗した魔王グレンデルが眠りについている。魔王は「死の沼」から塔へと急速に黒魔力を吸い上げて再充填しているのだ。

 だが、人間の男は委細構わず「死の沼」の黒い水の中へと脚を踏み入れ、宮殿へ向けてまっすぐに歩きはじめていた。通常の人間ならば即死する濃度の黒魔力を「死の沼」の水は含んでいるのだが、男はむしろ脚から黒魔力を吸収し、いよいよ眼光を目映く輝かせはじめたのだった。

「おっ? 暗黒大陸に、人間だと? 貴様、なぜこの沼を渡れる?」

「陛下の安眠を妨げる者はよう、問答無用で処刑しろって命令されてんだよう」

「休戦中だからって、人間に縄張りを荒らされちゃあ黙っちゃいねえ。死んでもらうぜ!」

 宮殿の警護に就いていたオーク族の近衛兵たちが、槍や棍棒を構えて一斉に若者へと立ち向かっていった。屈強な肉体と圧倒的な戦闘能力を持つ彼らにとっては、たかが非力な人間一人など、子ウサギも同然だったのだ。

 しかし。

「ヘッ、無礼者どもめが! おおくどもよ、道を選べ! 俺と戦ってここで死ぬか、それとも俺にひれ伏すか、どちらかをな!」

 若者は、おもむろに「三つ葉葵」の家紋を掘った印籠を懐から取り出してオークたちに突きつけた。オークたちは、その印籠を見た瞬間に得物を落とし硬直していた。

 いったい何者だ、この人間は!? この世界の者ではない!

「頭が高ぇんだよ、おおく野郎。俺こそは、魔王を討つ『勇者』になるはずだった男よ! こいつは『勇者の印籠』だぜ!」

「勇者だと!?」

「なぜ暗黒大陸に? 勇者は、ジュドー大陸に召喚されたはず……」

「いったいなんのつもりで、陛下が眠る塔に!?」

「――ヘッ。勇者になるはずが、ちと事情が変わったのさ。天下統一どころか三河で腹を切って死んじまった俺の魂は黒魔力に汚染され、勇者から『魔人』へと落とされた――! だがよ、いざ魔人として召喚されてみりゃあ、これはこれで面白れえ! 勇者特典は、せいぜい大気のぷねうまを体内に取り込んで体力を強化できる程度だけどよ、、魔人はぷねうまよりも遥かに強大な黒魔力、かたらを自在に操れるからなぁ!」

「ま……『魔人』っ?」

「勇者になるべき者が、稀に黒魔力に汚染されて魔人として召喚されるという伝説を聞いたことはある……だが、まさか実在したとは?」

「陛下のもとへは行かせん! 陛下が黒魔力を再充填し終えるまではまだ時間が……」

「……その必要はない。衛兵ども。儂は既に目覚めている。塔を増築し、黒魔力を集結する機能を高めた故、前回よりも二十年早く回復した――」

「――おお、グレンデル陛下! われらオーク族の偉大なる王!」

「魔王様! 予定よりもお早いお目覚めで!」

 ヘオロット宮殿の最上階で眠りに就いていたはずの魔王グレンデルは、「魔人」の出現に呼応したかの如く、塔の最下層へと飛び降りていた。その身長は、「魔人」の五倍は優にある。トロールに匹敵する巨体、オーク特有の敏捷性と暴力性、そしてオーク族の中でも飛び抜けて高い知能。さすがは混沌の暗黒大陸を一代で武力統一し、ジュドー大陸侵攻という偉業を成し遂げた王の中の王。その容貌は猛獣そのものであった。

 だがまさか、その「目覚めの日」に、異世界から魔人が召喚されてこようとは。

「魔人とやら。暗黒大陸の掟は単純だ。強い者が、全てを従え支配する王となる。暴力こそが正義。ただそれだけよ。黒魔力に満ちたこの荒れ果てた大陸では、暴力以外の如何なる力も救いにはならず、役に立たなかった。故に、強者が支配者たる『魔王』にいつでも挑戦できる下克上の掟だけが貫かれてきたのだ」

「喜べ、ぐれんでる。俺ぁ異世界の魔王の玉座なんざには興味はねえ! てめえとともに兵を率いて、今度こそ武士としてとことん暴れてみてえだけさ。どこまで戦えるのか、どこまで強くなったのかを、俺は戦場で確かめてみてえだけだ!」

「ほう。儂とあくまでも対等の関係を結ぼうと言うか。面白いな、魔人とは。貴様の名は?」

「俺の名は――徳川信康! 勇者徳川家康の嫡男よ! 親父の身代わりとなって、腹を切った男だ――これはこれでいいと死に臨んだが、いざ死んでみるとどうにも暴れ足りなくてよう。成仏するどころか、『ああ、俺はもっともっと戦いたかったなあ』という悔いの念が強過ぎてよう! さらなる闘争を求めて、魔人に堕ちたというわけだ! きっと徳川家の狂躁の血のせいだなあ、わはははぁっ!」

「……ほう。勇者の息子が、魔人となったのか……! 面白い。実に面白いぞ!」

 そう。暗黒大陸に出現した「魔人」は、武田家内通騒動に巻き込まれて切腹した徳川家康の嫡男、岡崎三郎こと徳川信康だったのだ――。

「だがなぜ、己の父親と戦う?」

「俺の母上を殺させた仇が親父だからよ! 信長から圧力かけられたからってよ、武門の意地をかけて母上を守り抜くことだってできたんだ。だが親父は信長を恐れるあまり、てめえの妻を犠牲にしやがった! だからよ、俺の敵はあくまでも親父だ! 俺が母上の罪を被って切腹すればそれで済んだものを、あの小心者の親父はよーっ! どちらも俺には殺せない、どちらも選べないとほざいたあげく、結局どちらも死なせやがった!」

 信康の怒りは、自分よりも母の築山殿――瀬名姫を斬らせたという一点で、父家康へと向けられていた。そしてその怒りが、信康を魔人に落としたのだ。

「俺はよ、自分が無駄死にしたことを怒ってるんじゃねえ! 俺自身が決めたことだからな! ぐだぐだ迷って、母上を救えなかった親父の優柔不断さが許せねえのよ! てめえには勇者なんぞを名乗る資格なんざねえと、あの狸親父に知らしめてやりてえのよ!」

「おお、その意気やよし! 承知した! それでは儂は、うぬを対等の同盟者として遇しよう。ともにジュドー大陸へ攻め入ろうぞ!」


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ハズレ武将『慎重家康』と、エルフの王女による異世界天下統一 春日みかげ/電撃文庫 @dengekibunko

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