第十六話 02

「それに――戦場から逃げる算段を考えさせれば、わが主君イエヤス様に敵うものはおりません。イエヤス様は、誠に逃げの達人」

「え、ええっと~。ご、ごめんね~バウティスタ~? ご、ご厚意はありがたーくいただくね~。でもほら、いざ逃げだすとなれば、正直者のあなたより、イエヤスの腹黒さのほうが悪い意味で確実だからあ~。全然自慢にならないけどねっ!」

「成る程、それもそうだな女王陛下。私は猪突猛進、攻めて攻めて攻めることしか取り柄がない女だ。イエヤス殿には、修羅場から生きて逃げ延びるための経験と智恵がある。了解した。ただしイエヤス殿? もしもこの私が自ら戦場の最前線に出てきた時には、決して相手をせず全軍で森に籠もって頂きたい。軍を率いた私は、強い。守備は得手だが攻めは苦手なエルフ軍にとっては、私は天敵となるだろう。これで借りはお返しした――」

 しかしこの「テンシュカク」は高過ぎる、まるで大砲の的だ、大砲の使用は皇国に厳しく制限されているが陛下が大砲を本格投入すれば危うい。バウティスタもまた、天守閣の危険性を家康に進言した。しかし家康は「ここから先は狸と狐の化かし合いよ暴痴州殿。俺の経験が勝つか、房婦玩具の天才が勝つかだ」と毅然とした表情で告げていた。

(ひゃあ? 大見得切ってるけれど実は腹痛が襲ってきているんだね、額から汗が浮かんでいるからわかっちゃう! えーと。万病円、万病円を飲ませないと~!)

 家康のちょっとした表情の違いから体調や本心を読み取れるようになってしまったセラフィナは、家康の薬棚の引き出しの中に入っているはずの万病円を慌てて探そうとした。だが、なにしろ各種自家製薬を大量に作り置きしている家康の薬棚はなんと四十段もある。どこになにが入っているのかを完璧に把握している者は家康ただ一人であった。

「ひゃああ、また薬が増えてるよう? えーとえーと、どこだっけ!? 確か八段目っ? いや、八段目は八ノ字――八味地黄丸が入ってるんだっけ?」

 家康は「しっ。俺が爪を噛みはじめるまでは問題ない、落ち着け」とセラフィナのおでこを指ではじき、あくまでも「泰然自若とした歴戦のいくさ人」の表情を保ち続けた。

「ぐぎゃげえっ!? イエヤスってば、使者の目の前で仮にもエルフ王女になんてことすんのよーう! しかも、めっちゃ痛いやーん? ガチでデコピンしたよね? ひっどーい!」

「……やれやれ、女王陛下よ。使者の御前できゃんきゃんはしゃぐでない」

 家康はなおも冷静を保ちながら、セラフィナに説教を垂れていた。だがこれは、バウティスタが「イエヤス殿は落ち着き払っている」とヴォルフガング一世に報告することを期待しての必死の演技であり、やせ我慢だった。「イエヤス殿は緊張のあまり今にも脱糞しそうでした」などと告げられては、ヴォルフガング一世をますます勢いづかせるばかりだ。あの種の男は、いったん調子づかせると恐ろしいほどに手が付けられなくなる。

「イエヤス殿、それでは私はこれで失礼する。天然の堀・ザス河にくれぐれもご注意を――エルフ族はザス河がある限り森は落ちないと信じているが、陛下の戦い方はわれら騎士団とはまるで異なる。過信と油断は即、落城と滅亡に繋がることをお忘れなく」

「問題ない。憎威、もしもの時には頼まれてくれるな? かねての打ち合わせ通りにやるぞ」

「任せとけー、イエヤスの旦那~! ドワーフギルド一世一代の大仕事、見事にやり遂げてやんよー! 騎士団長サン、人間の王様に伝えてくれよ! 敵はエルフだけではなかったー、ドワーフこそが真の強敵だったのだー、ってな!」

 バウティスタが「このところ暗黒大陸からの情報が途絶えているという。魔王軍が想定より早く動きださねばいいのだが。一日も早くこの戦争を終わらせなければ――悪い予感がする」と呟きながら、イヴァンに「どうぞこちらへ」と案内されて退室していった。

 ついにはじまったか……家康は、バウティスタが退室すると同時に「もはや耐えられん!」と自分の親指の爪に囓りついていた。

「ととととうとう開戦だね、イエヤスぅ~? どどどどうしよう~? 暗黒大陸からの情報が途絶えてるって、なにげに凄いリークじゃなーい? バウティスタは人間だけど正直で嘘をつかないからさー、ガチ情報だよきっと!」

「ええ。セラフィナ様のお言葉の通りですわ、イエヤス様。ファウストゥスが試みた暗黒大陸への使い魔上陸作戦も、ことごとく失敗に終わっております。今回、魔王は回復まで二十年を要しないのではないでしょうか? だとすれば、人間とわれらのこの戦争で漁夫の利を得る者は魔王……」

「阿呆滓よ。魔王が仮に既に目覚めているとしても、この戦には直接介入しない。どちらかが倒れるまで、あるいは両者が疲弊して再起不能となるまで海の向こうで傍観するだろう。魔王軍が来るとすれば、われら両軍が疲弊しきった時だ――徹底的に消耗を避けつつ、房婦玩具とどうにかして和睦に持ち込まねばならん。難しく厳しい戦いになるぞ」

「はい。承知しております、イエヤス様! 全権外交官としてこのエレオノーラ、いつでも和睦交渉に乗り出す準備は整えておりますわ。わが命を賭してでも、エッダの森とセラフィナ様をお守り致します!」

「うむ。和睦するためには一戦して勝利を収め、あの自信家の王に『勝てない』と思わせねばならん。房婦玩具からその一勝をもぎ取ることが、最大の難事――小牧長久手の合戦の時のように、功を焦って突出してくれる将が敵軍から出てくれればよいのだが」

「人間軍の統制が乱れてくれれば、勝算が生まれるということですわね。ですが統制が乱れなければ、勝機は……」

「勝ち筋は果てしなく乏しくなる。かつて俺は、信長公の跡を継いで畿内一帯を制覇した太閤殿下と対峙し、小牧長久手の合戦を戦った。あの時はそれでも織田信勝という大将もいたし、背後には北条家も控え、完全に孤立していたわけではなかった。それ故に持久戦に耐えられたのだ。だが」

「この戦でのイエヤス様のお立場は、オオサカノジンのトヨトミ家そのもの。このえっだの森は最終防衛拠点で、外部から加勢してくれる勢力は既に……」

「そうだ。加勢してくれる者たちは、既に俺自身が漫遊旅行を敢行してかき集め終えている」

「対するヴォルフガング一世は、強大な自国軍を率いているばかりか、皇国という巨大な後ろ盾を得ており、その権威で大陸の諸勢力を抑えてしまっています」

 いわば、豊臣家と家康の立場が逆転したようなものである。セラフィナもエレオノーラも「別人」とはいえ、その魂が過ごした前世の因果を今生でも背負っているのかもしれん、「落城という悲劇に見舞われる運命」という因果を、と家康は思った。しかもその因果は、他ならぬ家康自身が彼女たちに与えたものである。因果を断ち切れる者があるとすれば、それは家康本人以外にはないだろう。

「うっ。考えれば考えるほど、腹具合が……ぐ、ぐぬぬ」

「い、イエヤスぅ? なんで万病円をガブ飲みしてるのかなーっ? 勝算はばっちりなんだよねー? この半年間、徹底的にヴォルフガング一世の戦歴を調べ尽くして手の内は全て把握したんだよねーっ? だいじょうぶでしょ? だいじょうぶだよねーっ? うわ~っ、真っ青になっているイエヤスの顔を見ていると私まで不安になってきたー! お願い、だいじょうぶって言ってよぅ~!」

「……世良鮒よ。頭の中でどれほど計算を繰り返し演習を行っても、戦とは生き物だ。実際に戦ってみなければ勝敗はわからぬ。結局、最後は運だ」

「ギャーーーーー! さんざん慎重に下準備してきて、結局は運頼みっ? そんなぁ、おみくじみたいなこと言わないでーっ!? 私までお腹痛くなってきたー! お願いっ、万病円を分けてっ!」

「やらんぞ。これは俺の薬だ」

「ケチーーっ! ドケチーーっ! さんざん薬草を一緒に選んであげたじゃーん!」

 開戦を前に相変わらずみっともない言い合いを続ける二人を眺めながら、エレオノーラは(セラフィナ様はこんな時でも明るさを決して失わない。お強くなられました。隣に、イエヤス様がいてくださるからですのね。ビルイェル先代陛下、お父さま。どうか見ていてくださいませ。セラフィナ様はきっとだいじょうぶですわ)と目を潤ませながら頷いていた――。


   ※


 ジュドー大陸の生物たちは、黒魔力の濃度が濃い暗黒大陸に容易に立ち入ることができない。

 故に、オークの王にして暗黒大陸を支配する魔王グレンデルが休眠している今もなお、都市を築かずに移動と略奪を繰り返す蛮族であるオーク族、知能は低いが恐るべき戦闘能力を持つ「巨人」トロール族、かつて黒魔術を極めるために暗黒大陸に移住した様々な種族から成る黒魔術師の末裔たちが割拠する、血と黒魔力と暴力に満ちた世界だった。

 家康がジュドー大陸に召喚されてまもなくのことだった。

暗黒大陸南部。「死の沼」と呼ばれる、強力な黒魔力に汚染された不毛の沼地に、一人の人間の男が姿を現した。黒髪に黒い瞳。その男の年齢は、二十歳ほど。瞳から放つ眼光は異様な迫力に満ちていた――。


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