第十五話 02

「親父よう。妻を斬らせわが息子に切腹を命じて奪い取った天下は、さぞ愉快なものだったろうなあ? てめえは家臣団に『信康を逃がせ』と暗に無言で示すばかりで、はっきりと『わが子を救え』とは誰にも言わなかったよなあ。服部半蔵に一言そう命じていりゃあ、半蔵は俺を担いで信長の目の届かぬところまで逃げ去っていただろうさ。俺の死は岡崎城主として当然のケジメだがよう、母上まで殺す必要があったのか? 母上はよう、親父に無視されている自分の境遇に絶望して、悋気を起こして騒動に噛んじまっただけのことじゃねえかよ――」

 そうだ。信康を逃がせ。あの時、家康が一言そう口走っていれば、忠義者の半蔵は信康を抱えてどこへでも駆けていただろう。

 信康は、家康の息子たちの中でも出色の英雄だった。六十を過ぎて自ら戦場の最前線で戦わねばならず、いくら待っても世継ぎの秀忠が戦場に到着しないという悲喜劇を味わっていた関ヶ原の合戦の最中に、家康は「信康さえいてくれれば」と嘆いたものだった。

 なにしろ将軍位を譲った秀忠には戦の才能が全くなく、武勇に優れた忠輝は豊臣贔屓故に大坂の陣で戦闘を放棄した。

 七十歳を過ぎてなお戦場の最前線で命を賭して戦い続けねばならなかった家康の、エの世界での苦難に満ちた生涯は、若き日に嫡男信康を死なせたことが最大の原因だった。

(どうしても言えなかったのだ。鋭敏な信長公は必ず、俺の嘘を見抜いていただろう。だから俺は家臣たちに察してもらうために足掻き続けた。信康よ、最後にお前と二人きりで対面した際に、俺は逃亡を勧めたではないか。なぜ逃げなかった。なぜ母親と運命をともにした。お前は紛れもない英雄だった。だからこそ死んではいけなかったのだ。生き延びてこそ、未来が開けるのだ。死ねば終わりなのだ。それが戦国の世の定め……)

 あんたは勇者じゃねえよ親父、ただの臆病者だぜ、と信康が憤懣を籠めて家康に告げる。

 その若さ、その剽悍さが、家を滅ぼし己を滅ぼし家臣団を滅ぼすのだ、と家康は息子に告げたかった。豊臣家を見よ。徳川家に臣従を誓いさえすれば、滅ぼさずとも済んだのだ。織田家は信長と信忠を失ったが、生き残った信勝や有楽斎たちは、かつての家臣だった豊臣家に、そして徳川家に臣従する道を選んだ。だから「旧主家」として尊ばれ、滅びなかった。徳川家も、あの謀叛騒動の時に選択を誤り「信長よ、来るなら来い」と蛮勇を奮っていれば、跡形もなく地上から消え失せていた……。

 信康の姿が消えると同時に、老いさらばえた太閤秀吉の幻が浮かぶ。

「……秀頼のこと、どうかお頼み申す。お頼み申す……家康殿とは金ヶ崎でともに殿を務め、時には小牧長久手で戦い、それは長い付き合いでござったな。そなたのことは前田利家同様に実の兄弟の如く頼っておりますぞ、この秀吉……お願いでござる。どうか幼い秀頼を……殺さないで、頂きたい……儂に少しでも友情を感じておられるのならば、どうか」

 太閤秀吉。足軽から身を起こし、信長公を討った明智光秀を恐るべき速さで倒し、天下を統一した英雄。慎重故に行動が遅い家康がどうしても勝てなかった、唯一の戦国武将。

 家康は小牧長久手で秀吉に一勝したものの、総大将の織田信雄が秀吉に丸め込まれて単独講和した時点で、家康にはもはや戦う大義名分もなく、長引く戦によって家臣団にも亀裂が生じ、領国内は無理な戦と天災によって疲弊し、民は飢饉で困窮。ついには宿老の石川数正が「もはや徳川は戦えぬ」と秀吉側に寝返る始末。秀吉は近江の大垣城を拠点に徳川領への本格侵攻を整え、徳川家の滅亡はもはや目前だった。

 だが、偶然の奇蹟が家康を救った。天正大地震である。美濃、尾張、伊勢、近江といった秀吉の領国が巨大な激震と津波によってことごとく壊滅。対家康戦の拠点である大垣城は全壊し炎上。長浜城も倒壊。伊勢長島城も炎上。秀吉の盟友だった前田利家は弟たち一族を地震で失うという甚大な被害を受け、秀吉自身も近江坂本城から命からがら大坂城へ逃げ帰った。

 しかも、この天正大地震は秀吉の領国のみに壊滅的な打撃を与え、家康領にはほとんど被害はなかったのである。

 秀吉が家康と「和睦」せざるを得なくなったのは、地震の被害が甚大過ぎたため、遠征が不可能となったためだ。

 偶然にも命拾いした家康は決して浮かれなかった。徳川家が秀吉に滅ぼされなかったのは単なる幸運であり、彼我の実力差が決定的であることを痛い程に思い知っていた。秀吉の天才的な「人垂らし能力」は、吝嗇家で人望のない自分の及ぶところではない、と。

 以後の家康は、自らの心中から生じてくる天下への野心を捨て涸らすことに注力し、恐るべき忍耐力を発揮した。関東への領地変え命令にも唯々諾々と従い、次々と有力大名や家臣を粛清していた秀吉に「徳川家取り潰し」の口実を一切与えなかった。

 家康の異常な慎重さは、秀吉との緊迫した関係によって完成されたと言っていい。

 老いた秀吉は、死の直前までそんな家康を恐れつつもその忍耐強い老獪さを頼り、「息子秀頼を頼む」と何度も家康に懇願し続けた。

 秀吉の死後、家康は関ヶ原の合戦に勝って天下人となったが、豊臣秀頼を殺すことなく十年以上豊臣家の臣従を待ち続けた。できることならば秀吉との約束を守りたかった。だが秀頼は、信長の一族で築山殿よりもさらに気高い淀君という母親と、秀吉が築いた難攻不落の大坂城に二重に縛られていた。淀君と大坂城がある限り、秀頼が徳川に臣従することは有り得なかったのだ。

 そしてついに家康の寿命が尽きた。七十を過ぎて自身の肉体に異変を感じた家康は、もはや大坂城を落城させて秀頼を退去させる他はなし、と決断しなければならなかった。

「……御祖父様。この秀頼に孫の千姫を妻としてお与えになりながら、なにゆえ母上とこの秀頼を自害させたのです。自分の妻子を殺すのみでは飽き足らず、孫婿までをも許さずに死なせるとは。あと一年ばかりしか余命がなかった御祖父様が、なぜそれほどまでにこの秀頼を憎まれたのですか」

 秀吉の子供とは思えぬ大柄な秀頼の姿が、最後に浮かびあがってきた。淀君という足枷さえ外れれば、秀頼は豊臣家二代目として立派な武士になっただろう。築山殿から信康が自立できていれば、いずれは徳川家を率いる英雄になったのと同じに。そういう意味では、信康も秀頼も過保護過ぎる母親に青春期を縛られたことが不運だった。しかも淀君も築山殿も、権力者にも屈しない激しい性格の持ち主だった。

 それを思えば、幼くして生母から引き離された自分は、幸運だったのかもしれない――家康は秀頼に(申し訳ない。秀忠がどうしても秀頼公を許さなかったのだ。老いた俺は押し切られた……秀忠殿の思う通りになされよ、と告げるのが限界であった)と詫びたが、

「信康殿を殺させた時と同じですな、御祖父様。責任逃れだけはお上手なお方だ」

 と秀頼は薄く笑った。

(違う、俺はあくまでも慎重なだけだ……秀頼公の処遇を巡って秀忠と決裂すれば、またしても父子の争いが起こる。徳川幕府体制を完成させる目前で、最後の最後にそのような失敗は許されなかったのだ。そなたには済まないと思っている)

「御祖父様は、私の息子も殺しました。千姫の子ではなかったからですか?」

 秀忠は「豊臣家を完全に滅ぼさねば、源平合戦の如き逆転劇が起こりましょう。大御所様が亡くなられた後のため、戦乱の種は全て除きます」と、秀頼の庶子・国松を処刑させた。歴史研究家だった家康も、平清盛が源氏の御曹司・源頼朝に情をかけた結果、平家が源氏に滅ぼされた故事をよく知っている。反対はできなかった。

(秀頼殿。許されよ。戦下手な秀忠が将軍では、他に道はなかったのだ。信康さえ生きていれば、信康が将軍となってくれていれば、豊臣家を滅ぼさずとも済んだものを)

 笑止千万。その信康殿を死なせたのは御祖父様ではありませぬか。

 その言葉を残して、家康の視界から女神と死者たちの姿は全て消えていた。

 残されたものは、無明の闇。

 厭離穢土欣求浄土。現実主義者の家康は神仏を本気で信仰してはいなかったが、もしもまた人として生を得ることがあるならば、人間同士が戦い一族同士が争うような穢土には二度と生まれたくない。清らかで争いのない浄土に生まれたいと願っていた。自らを神にしようと家臣団に準備させたのも、人間の世の理から離れたかったからかもしれなかった。

(せめてセラフィナとエレオノーラを守りたかった……徳川家が存在しない異世界だからこそ、俺は徳川家を守るという義務からやっと解放され、自由に生きられた。もはや前世で天下を統一した俺には欲も野望もない。ただ大坂城の如きエッダの森に籠もるセラフィナたちを、今度こそ救いたかった……淀君のように、二度も落城を経験させたくはなかった……この奥三河を彷彿とさせるエッダの森を真の浄土に……してみたかった)

家康の心臓が止まった。セラフィナめ間に合わなかったのか。最後に酷い走馬灯を見たと内心で愚痴りながら、家康は(セラフィナとエレオノーラの和睦は成るだろう。俺の願いは通じたのだ……一応は、これにてざっと済みたり)と最後の言葉を――。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る