第十五話 01
宮廷の門を開き、プッチ軍の野営陣内へと馬で向かった家康とセラフィナは、エルフ族たちが固唾を呑んで見守る中、エレオノーラただ一人が待ち受けている会見用のテントへと招かれていた。
「……ようこそ、セラフィナ様、イエヤス様。アフォカス家の花壇で栽培していたプナアピラの葉を用いた粗茶ですわ。和平について話す前に、お心をお鎮めくださいませ……」
三人分のティーカップを用意してテント内に待ち受けていたエレオノーラの表情は、明らかに平時と違う。使用している茶葉は、ほんとうにプナアピラだけだろうか?
エレオノーラが小刻みに振るえる手でポットを握り、三人のカップに茶を注いでいく。
家康は(かろうじてエレオノーラ自身の意識も僅かに残っているようだが、アナテマに操られているエレオノーラと話し合っても埒が明かない。黒魔力を除染しなければ、一揆軍との和解は不可能――)と乾坤一擲の賭けに出る覚悟を決めた。
「エレオノーラぁ~、お願い。黒魔力に負けないで! いいいいイエヤス。ここここのお茶、どどどどど」
治癒の魔術の使い手・セラフィナは、毒物の香りを嗅ぎ分けられる。茶の中に猛毒のアコニタムが混ぜられていることに気づき、顔面蒼白となった。
「慌てるなと言っているだろうが世良鮒。手筈通りにやるまでよ。全てはお前の胆力にかかっている、よいな」
「ほんとにいいのイエヤスぅ? せせせ責任重大過ぎて、ああああ~、うううう~!」
「お前ならばできる。これが、阿呆滓を救う最後の機会だぞ」
家康のその一言で、セラフィナの身体の震えが止まった。平素は頼りにならんがやはり王女だと家康は感心し、セラフィナに己の命を託した。
すなわち。
「阿呆滓よ、この湯呑み茶碗をよく見て頂きたい。茶碗に毒が塗られている可能性も、茶の中身に毒が入っている可能性もある。毒などは盛っていないと言うのならば、俺が茶を喫すると同時にそなたも茶を飲むのだ。無毒だと証明してみせよ」
エレオノーラが「いいえ。御客人のイエヤス様とセラフィナ様の二人がお先に。それがエルフ族の茶会のマナーですから」と突っぱねれば、家康の策は敗れる。アナテマの自動思考が完全にエレオノーラを支配していれば、そう言い張るはずだった。
だが、「僅かだがエレオノーラ自身の意識が残っていて、必死でアナテマに抵抗している」とセラフィナに告げられていた家康は、エレオノーラの強靭な精神力に賭けた。
エレオノーラは最後の気力を振り絞り、アナテマの自動思考に抵抗して「承知」と言うはずだと。
「……毒などは決して……わかりました。妾もイエヤス様とともに飲みましょう――」
第一関門は突破した。
(さすがは名門アフォカス家の貴族令嬢。感染してから長い時間が経っていように、いまだ術に完全に屈してはいない)
と感服しながら、家康はごく自然にエレオノーラの視線を自らが持ち上げたティーカップへと誘導していた。それはほんの僅かな時間だったが、エレオノーラの視線が、彼女自身のティーカップから逸れた。その一瞬の隙を衝いて、セラフィナがエレオノーラの茶にイヴァンから手に入れた「解毒剤」を息を殺しながらそっと投入する。小瓶からほんの数滴垂らすだけで充分だった。
エレオノーラが自らのティーカップに視線を戻し、指で掴んだ時にはもう、セラフィナは仕事を終えていた。この茶を飲めば、エレオノーラは除染される。エレオノーラが正気を取り戻せば、エルフ王党派プッチを終わらせることができる――ただし。
「……さあ、イエヤス様。妾も飲みますので、あなたもどうぞ。二人で同時に」
エレオノーラに憑いているアナテマの術の「自動思考」が、最後の抵抗を示した。明らかに、エレオノーラは隙を作った。エレオノーラが茶を飲むと同時に除染される可能性は高い。しかも、エレオノーラはどれほどアナテマの術が抵抗しようとも断固として茶を飲むつもりである。止められない。アナテマの術はまもなく除染される。ならばせめて、イエヤスの命だけでも奪い取ってやろう――「自動思考」はエレオノーラの唇を強引に動かして、イエヤスに「心中」を迫ったのである。エレオノーラの意識はこの時、ティーカップに伸ばした右手に集中している。故に、唇までは守りきれなかった。
(どどどど毒入りだよ、イエヤスぅ! エレオノーラの瞳を見ればわかる! やめて、飲まないで、いけない、って心の中で叫んでる! わわわ私には無理だよ、失敗しちゃう、イエヤスが死んじゃうっ!)
(狼狽えるな世良鮒。打ち合わせ通りにやるのだ――お前ならば、できる)
家康は、
「いざともに! 約を違えるな阿呆滓よ!」
と叫ぶと同時に、ティーカップの縁に唇をつけた。
(戦国日本で誰よりも慎重だった俺が、敢えて附子入りの毒茶を飲むとはな)
という万感の思いとともに、致死性のアコニタムが入っている茶を飲み干していた。
エレオノーラもまた、解毒剤入りの茶を恐るべき精神力を振り絞って飲んでいる。
(……計画通りである。これで、エレオノーラは救われた……)
その姿を確認しながら、家康は口から白い泡を吐いて、そして椅子から転げ落ちていた。
食道から胃にかけて、焼けるような激痛が走った。毒物は、やはり附子――アコニタムだった。皮肉にも、家康自身がエレオノーラに採取させてエッダの森に持ち帰らせていた鳥兜由来で、充分な致死量だった。まもなく心の臓が停止するだろう、と薬物毒物に詳しい家康は己の命が風前の灯火に陥っていることを認識していた。
(俺の世界には、附子の毒を解毒する特効薬はなかった。ここが日本ならば、俺はもはや助からぬ……)
椅子から転げ落ちた家康は全身を痙攣させながら、暗転する視界の片隅に幻を見ていた。
はじめに、家康を異世界へ送り込んだ「女神」の幻影が、闇の中に浮かびあがった。
「よく決断されましたね、家康さん。あなたが真の勇者となるためには、前世で悔いを残した失敗をこの世界で埋め合わせて正義を成し、罪を精算しなければなりません。この厳しい試練を乗り越えた時こそ、あなたは真に神の一員して生まれ変われるのです」
女神め、ずっと俺を高次世界から見ていたのか、と家康はぼやいた。だがもう、言葉にはならない。続いて懐かしい顔ぶれが、家康の目の前に現れては消えていった。
「よくも妾とわが息子を駿府に置き去りにして、今川家を裏切りましたね、元康殿。いえ、今は家康殿と名を改められたのでしたね。今川義元殿から与えられた『元』の一文字すら捨て去るとは、あなたはどこまでも今川家を憎んでおられるのですね」
築山殿――家康の最初の妻、瀬名姫の幻が現れる。
今川家を裏切り織田家と手を結んだ家康に対して、築山殿は生涯怒りを解かなかった。この高貴な血筋を引く年上の妻に対して、口下手な家康はどうしても打ち解けた言葉をかけることができなかった。
家康が今川家から離反した時、築山殿は駿府に人質として留まったままだったのだ。今川家が風雅な名家だったからこそ、また築山殿が今川家の血を引く姫だからこそ、築山殿は殺されるまいという家康一流の冷静な勝算があってこその離反だった。
だが、築山殿は「妾を見捨てたのですね」と激怒した。理屈を説明しても、築山殿にはおそらくは通じなかっただろう。故に、彼女の顔を見るごとに良心が咎めたのである。
だから、距離を取った――。
(愛していなかったのではない。俺の父は今川家に付くと決めた際、織田家方に属するわが生母を追い出した……俺にはあんなことはできなかった……)
幼い息子の信康から母を奪い取ることを家康は躊躇った。父が母を家から追放した時に自分が経験したあの空虚な思いを、息子にまで味合わせたくはなかった。だから築山殿と信康に岡崎城を与えて三河一国の采配を委ねたのだった。
だが家康自身は「武田信玄と戦わねば」と遠江の浜松城に移り住んだ。いろいろな理由があったが、要は築山殿と距離を置きたかったのだ。
その結果、武田家への内通事件が起きた。三河の信康派閥は、織田家に「家臣」として隷属する立場に落ちた家康を見限り、武田家と内通して謀叛を起こそうとした。
その謀叛組の中心に、築山殿がいた。
家族間の謀叛劇は戦国大名家ではよくある話だったが、家康が妻から逃げ続けた結果だったという点が、家康にとって痛恨の一事だった。信康は知らぬうちにこの陰謀劇に巻き込まれ、信長から暗に「切腹せよ」と命じられる羽目になった。
(済まぬ。お家騒動は、戦国の世の定め。若かった俺は慎重さを欠いていた。築山殿と長らく別居して騒動が起こる原因を生んだことは、俺の過ちであった……)
続いて、闇の中に信康の顔が見えた。
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