第十四話 03

「……イエヤス様? どうしてですか……? 僕は、最初からイエヤス様を陥れるために接近した間者なのに?」

「射番。お前に俺を殺す気がなかったのと同様、俺にもお前を殺すつもりはなかった。ただ、鬼の服部半蔵が、わが息子信康をどうしても斬れなかった心境を自ら味わうべきだと思ったのだ。半蔵がどれほど懊悩したか、ようやく俺にもわかった。なんというむごい命令を俺は出したのだろうか――」

 あの騒動の折、家康は時間を稼ぎ、せめて信康だけでも逃がそうと足掻いた。だが信康は、武田家に内通した自分の母・瀬名(築山殿)を庇い続け、従容として死を選んだ。自分のような今川家の血筋を引く人間が生き延びて徳川家を継いではならない、必ず織田家との間で遺恨となり徳川家を滅ぼすと思い詰めてのことだった。

 イヴァンもまた、母親や親武田派の家臣団に担ぎ出された信康同様、本心から家康に反抗したわけではない。実の姉をヴォルフガング一世に人質に取られ、やむを得ず間者働きをさせられていた悲劇の子である。

 家康がファウストゥスから知らされた「真相」は、当初からイヴァンの中に幼い頃の信康の面影を見ていた家康の胸を打つのに充分過ぎた。

「射番。お前とは食卓を囲んでよく昔話をしたものだ。俺は母と生き別れとなり、六歳で今川家に人質に出された。その途中で攫われて織田家に売り飛ばされるという恐ろしい経験すらした。俺が武士でありながら慎重過ぎるほど慎重な男になったのも、幼い頃に受けた恐怖と苦難の経験がもともとの原因だろう。生母と再会し、今川家から独立を果たすまで、俺は気が遠くなるほど長い長い我慢の時を過ごさねばならなかったからな――」

「……そうでしたね、イエヤス様もまた……」

「だが射番。今川義元公は俺を『家臣として使える人材』と見込んでくれた。故に厳しい任務を割り当てられてはいたが、耐え凌げばいずれ必ず母と再会する機会が訪れると俺は愚直に信じ続けて働いてきた。お前もあの頃の俺と同じだ。房婦玩具は、お前を優秀な間者だと認めているが故に、次々と困難な任務を割り振っているのだ。あの王は度胸があり計算高い男故に、かえって信頼できる。真に恐ろしい者は、なにを考えているのか計算できぬ臆病な愚か者よ」

 太閤殿下との戦に「嫌だ、天下などに関わりたくない」と距離を取っていた俺を無理矢理に巻き込んでおきながら、一人で勝手に太閤殿下と和睦して俺を戦場に放りだした織田信勝殿とかな、と家康は内心でつい毒づいていた。

「……はい。イエヤス様がそう仰るのならば、僕は信じます」

「信じよ、お前の姉上は無事だ。お前が今回の任務に失敗しても、房婦玩具は短気を起こして姉上を害したりはしない。必ず再会できる。いや、俺が再会させてみせよう」

 家康はイヴァンを採用した際、彼を疑ってはいなかったが、慎重を期して「クドゥク族が現れるところに不吉な厄災が起こる」という噂の真偽を確かめるべく、ファウストゥスに命じてクドゥク族の移動ルート先で起きた事件を丁寧に調べさせていた。結論として、イヴァンが行く先々でなんらかの工作活動を行っている可能性は高いと判明したが、確たる証拠はなにもなく、また「暗殺」を行った形跡は一切なかった。

 一度でもイヴァンに暗殺をやらせれば、すぐにクドゥク族を受け入れる先がなくなってしまう。故に暗殺だけは避ける。もしもイヴァンが間者ならば、実に巧妙な使い方だ。

 ヴォルフガング一世はただの戦巧者ではなく自分に匹敵するほど用心深い男かもしれないと家康は推察し、イヴァンがもしも間者だとしても直接自分を殺させることはないだろうと早々と結論していたのだった。

 ほんとうにイヴァンがもしもヴォルフガング一世の間者だとすれば、イヴァンがなぜ間者になったのかを知りたかった。利に転ぶファウストゥスとは違って、純真なイヴァンが望んで間者仕事をやりたがるとはどうしても思えなかったのだ。

 だが、事情を知らねばイヴァンを救うことができない。

 そしてこの空中庭園でつい先刻、家康はファウストゥスからイヴァンが王の間者になった事情を、大金を投じてようやく知り得た。ファウストゥスは「土壇場でこれ以上ない高値で売りつける」つもりで、最後まで家康にイヴァンの事情について黙っていたのだ。実の姉を王に捕らわれている、という秘密について。イヴァンを助命する理由を求めている家康の足下を見たと言っていい。

 純朴なセラフィナは「ちょっとー! それを最初に教えなさいよー! サイテーっ!」とファウストゥスを叱ったが、家康はむしろますますファウストゥスを信頼するようになった。「利」さえ与えれば、この者はいくらでも難しい仕事をやってのけると。

「……ほんとうに……僕がこの任務に失敗しても、姉さんは殺されませんか? ほんとうですか、イエヤス様?」

「射番。お前はここまで、阿呆滓をあなてまの術に陥れ、一揆を誘発し、憎威に奪われた世良鮒を奪還するために空中庭園まで乗り込んできた。俺との一騎打ちに敗れこそすれ、任務を忠実に遂行している。ここでわれらが一芝居打っておけば、房婦玩具はお前の姉を殺さぬ。まだお前は間者として利用できる、まだ姉を救うために働くつもりがあると房婦玩具に信じさせておくのだ。つまり、俺はまだ射番の正体に気づいていないことにする――一騎打ちも、なかった。幸いにもこの空中庭園にいる数名の関係者しか、二人の戦いを目撃していない。お前は、世良鮒を奪回する機会を窺うために、再度俺のもとに何食わぬ顔をして戻ってきた、そして俺はいまだにお前を間者だと思っていないということにする」

「……あ、あ……どうお礼を言っていいのか……僕は……その……く、口下手で……あ、あまり、感情を表に出したことがなくって……」

「わかるぞ。俺も子供の頃はそうだった。二十歳を過ぎて今川家の人質という立場から解放されるまで、一度も人前で本心を漏らしたことがない。なにがあっても、くすりとも笑わなかった。ただ爪を噛み、拳でものを殴って耐えていた。だが射番、お前は感情を持たないのではない。感情を殺さなければ生きていけなかったのだ――しかし俺と世良鮒の前では、泣いても笑ってもいいのだぞ。この世界が、たとえ俺が生涯望み続けた浄土とは程遠い乱世なのだとしても、この森だけはせめて浄土にしたいのだ」

「……イエヤス……様……う……う、うわああああ……!」

 イヴァンは、家康の首に取りすがって、声をあげて泣いていた。どうして呪われたクドゥク族の王子などにこの勇者様は親切にしてくれるのだろうと、幼い頃から亡国の王子として逆境を生きてきたイヴァンには不思議だった。そう、家康自身もまた幼くして亡国の王子となり、母と別離させられて人質として苦難の少年時代を生きてきた男だったのだ。

「徳川家当主」という重過ぎる責務から解放された家康は、実子のように、いや、実の孫のようにイヴァンを思っていた。孫の家光に接するかの如くイヴァンに接していたのは、亡国の王子イヴァンの境遇がとても他人とは思えなかったからである。

 異世界に召喚された家康がこの数ヶ月、ともに過ごしたイヴァンに雪いだ愛情は、実の孫に対するものと寸分変わらなかったと言っていい。それ故に、イヴァンは「僕の裏切りは死に値する」と思い詰めたのだが――。

 セラフィナがイヴァンの背中に抱きついて「ううっ……ぐすっ、ぐすっ……よかったね、よかったねイヴァンちゃん……」ともらい泣きする中、家康はイヴァンが落ち着くのを待ってから再び口を開いた。

「射番。俺に、お前と姉上を再会させる秘策がある。十中八九、成功する」

「……は、はい。ありがとう、ございます……イエヤス様……」

「ほんとにっ? どういう秘策なの、イエヤスぅ~? 教えて、教えてっ!」

「世良鮒よ、わからぬのか。日々改良を進めている漢方薬を用いるのだ」

「はあ?」

「漢方薬と粗食と適度な運動を日々重ねて、射番を長生きさせる。房婦玩具は王という立場故に、贅沢な会食やら子孫を増やすための閨房働きやらで体力を損じていく一方だから、今はどれほど頑強でもあと五十年経てば寿命で死ぬ。つまり射番があと五十年健康を保ち生き続ければ、姉上と晴れて再会できる。俺はこの手を使って、どうやっても勝てない太閤殿下のご寿命が尽きるのを待ち続け、回り持ちで天下を頂いたのだ。乱世ではな、どれほどの栄華を極めても死ねば負けなのだ。長生きした者が勝ちよ」

「五十年も待てるかーっ! お姉さんのほうに寿命が来ちゃうかもしれないじゃんっ! それでも勇者かーっ! 慎重過ぎるにも程があるわーっ!」

お前はどうしてそうも忍耐というものを知らんのだ、と家康は呆れ果てて首を横に振っていた。呆れたのはこっちのほうじゃい! とセラフィナ。イヴァンはあくまでも大真面目に「五十年我慢之策」を唱える家康と、相変わらず全く家康に遠慮せずに言いたい放題のセラフィナの二人にどう反応していいのかわからず、泣きながら笑っていた。


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