第十四話 02

「柳生新陰流の秘奥義。利き腕の自由を失った危地で用いる、片肘と膝を使っての変則無刀取りである――!」

 家康はイヴァンの右腕に万力のような圧をかけて固定しつつ、「むんっ!」と叫ぶと同時にイヴァンの小柄な身体を宙に回転させて床の上に叩きつけていた。イヴァンの突進力をそのままイヴァン自身に返したのだ。

 家康は電光石火の勢いで、そのままイヴァンの身体を組み伏せる。既に遠当の術は解けていた。脇差で首を掻ききるのも容易い体勢となった。決着はついた。

 しかし、勝者であるはずの家康は(俺との一騎打ちに持ち込まれ、セラフィナに制止され、さらに俺が甲冑を脱いで生身の急所を晒していたことが、イヴァンを躊躇わせたのだ。イヴァンに殺意がなく、敢えて一手間をかけて俺の戦闘能力だけを奪い取りに来た故に、俺はかろうじて勝てただけだ。もしも躊躇なく俺を殺すつもりならば、イヴァンは遠当の術とスヴァントを有効に用いて俺を問答無用で瞬殺できていた)と青ざめ、(また『徳川家康がもっとも恐れた者』が増えた)と震えていた。

 家康は、一騎打ちの勝敗など最終的には時の運であると熟知している。生涯を無敗で終えられる兵法者などいない。仮にいたとしても、それは自分よりも格下の相手のみを厳選して勝負するような極度に慎重な兵法者でしか有り得ない。故に、決して勝利に奢らない。何よりも、イヴァンは如何にして家康を殺さずに鎮圧するかだけを考えていた。その情に勝たせてもらっただけだ。

「……イエヤス様。お見事です。解毒剤は、僕の上着に隠してあります……きっとこうなるだろうと、心のどこかで願っていた気がします……どうか、裏切り者の僕をお手討ちに……」

「ダメよダメダメ! イエヤスぅ、イヴァンを許してあげるんでしょっ? そのための一騎打ちでしょっ? まさか討ち取ったりしないよねっ?」

「静かにしていろ世良鮒。射番、お前の事情は桐子より全て聞いた。お前が抱えているやむにやまれぬ事情を知っていながら、一揆勃発まで傍観していた桐子を恨め」

「……姉上のことを知っていたのですね。誰も恨んではいません。僕は、息子のように自分をかわいがってくださったイエヤス様を裏切りました……自業自得です。僕の亡き後、姉上のことをお願いします。どうか、お裁きを」

「よくぞ言った。それでは、裁きを下す――」

「待って! 待ってイエヤスぅ! 脇差を抜かないで、イヴァンの首を斬らないでっ! やめてってばーっ! ダメダメダメーっ!」


   ※


 クドゥク族が治める小国は、エルフの王国よりもさらに北に位置していた。故に王都ハミナは魔王軍に陥落させられ、クドゥク族は亡国の流民集団に落ちてしまった。

 しかし人間でありながら戦場を知り尽くした現実主義者のヘルマン騎士団長ワールシュタットは「異種族連合」路線を主張し、枢機卿らの反対を退けてクドゥク族を諜報斥候部隊として雇い入れ、人間軍と同等に扱ってくれたのである。

 ワールシュタットとエルフ王がエルフ王都に誘き出した魔王軍を奇襲する作戦を立てた際にも、クドゥク族はワールシュタット率いる奇襲部隊に先行する斥候として活躍するはずだった。

 だが、ある日突然『クドゥク族の世界支配の陰謀を暴く』という偽書が大陸各地に出現し、異種族間の反クドゥク族感情が高まったため、クドゥク族はワールシュタットのもとから離脱しなければならなくなった。流民に逆戻りしたクドゥク族は、大陸各地に散った。

 その結果は、既に周知の通りである――。

 イヴァンは、二歳年上の姉アナスタシアとともに一族を引き連れて流浪の旅を続けた。

 ある日、そんなイヴァンとアナスタシアのもとに、ワールシュタットの遺志を継いで魔王軍を海の向こうに撤退させ、新たな人間の王国を建てたヴォルフガング一世がいきなり訪れ、傍若無人な命令を一方的にイヴァンに下してきたのだ。

「フハハハハ! クドゥク族にもはや安住の地はない。もしも国家再興を願うのなら、王子よ。人質を余に差し出すのだ! 言うまでもなく、王家ストリボーグ家の者をな!」

「……す、ストリボーグ家の生き残りはもう、僕と姉さんしか……ね、姉さんを人質によこせと言っているんですか……?」

「そうだ! 今後、余はクドゥク族を弾圧して各地を流浪させる。だがそれは芝居だ。貴様を余の秘密工作員として働かせるためのな――余の新王国による大陸北部支配を進めるために、各地に密偵として潜り込み、陰働きをせよ!」

 アナスタシアが「イヴァン。だいじょうぶ、王様はお姉ちゃんを殺したり害したりはしないから。私にはまるっとお見通しだから。ね? だいじょうぶだいじょうぶ――弟と手紙で通信することだけは許可してくださいますね、陛下」と無邪気な笑顔を浮かべ、王の要求を呑んだ瞬間に、イヴァンは最愛の姉をヴォルフガング一世に奪い取られていた。

 この日からイヴァンは、ヴォルフガング一世のために大陸を流浪する間者として働かなければならなくなった。一族を救うためには、王家の姉弟二人が犠牲になるしかない。

「ははははは! あっけなく選択したものだな、王女よ! 小僧、そういうことだ!」

 あまりの運命に絶望したイヴァンを、アナスタシアは優しく励ましていた。

「クドゥク族王家に伝わる預言を思いだして、イヴァン。いつか必ず、イヴァンをこの残酷な運命から救いだしてくれる勇者様が現れるから。だから、だいじょうぶ――きょうだいで仲良く暮らせる時が、きっと来るよ」

 そんなヴォルフガング一世が、偽装流浪を続けていたイヴァンに発した新たな任務が、

「エッダの森に逃げ込んだ勇者トクガワイエヤスの信頼を手に入れ、護衛官になれ。奴には郎党がおらず、大急ぎで家臣を収集している。時期を見てさらなる指示を送る」

 というものだったのだ。

 以後、アナテマの術を用いての策略、そしてプッチの誘発と、イヴァンは二度にわたり王の命令を遂行せざるを得なかった。姉を人質に取られている以上逆らうことはできない。

 家康とセラフィナとの暮らしにささやかな幸せを見出していたイヴァンは、悩みに悩んだ。せめてファウストゥスが早く僕の正体を掴んでイエヤス様に通報してくれればと願った。だがファウストゥスはなぜか動かず、イヴァンはついにエレオノーラにアナテマの術を施すことになった。エレオノーラに匣を渡したイヴァンは、耐えきれずに森の奥へと逃げた。いっそスヴァントを用いて自決しようと思い詰めた。だが、三日前に姉から届いていた最新の書状が、イヴァンを思いとどまらせたのだ。

『イヴァン、ほら。あなたはもう、勇者様に出会っているでしょう? なにもかもお姉ちゃんの言った通りになるからね、だいじょうぶだよ』


   ※


「射番よ、お前の事情は桐子から聞いている。先ほど銭で情報を買い取った。幼い頃から苦労ばかりで辛い人生を送っていたのだな……偉いぞ、お前は。実に忍耐強い」

 取り押さえたイヴァンの首を、家康は切らなかった。

 かつて「徳川家」という重荷を背負ってエの世界を生き抜いた頃の家康ならば、相手が実子であろうとも、事ここに至れば「やむを得ず」と非常の決断を下したかもしれない。親としての情よりも、家と国を束ねる大名としての責務を優先したかもしれない。

 事実、家康は不本意にも嫡男信康を死に至らしめて以来、残された自分の息子たちに敢えて冷淡な態度を取り続けた。信康を死なせた件が、ずっと家康の心に癒えない棘として残っていたからである。

 最初から子供に情をかけなければ、失う時に傷つくこともない。

 家康が新たに設けた幼い息子たちを溺愛する好々爺になれたのは、六十歳を過ぎてようやく関ヶ原の合戦に勝ち天下人となってからだった。

 だが、今度は徳川家の子供や孫たちの将来を案ずるあまり、太閤秀吉の遺児・秀頼を死に追いやる羽目となった。秀頼は、家康が溺愛してやまない孫娘・千姫の婿だったのだ。

この二つの事件が、家康が前世に残してきた痛恨事となった。


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