第十二話 05

 だが、森の中に紛れてかろうじて一時的に追っ手の目を逃れ得た途端、馬上の家康は目眩に襲われて落馬しかけた。思えばまだ朝食を摂っていない。「夜は小食が健康によい」と夕食を常に軽めに摂る家康は、朝食抜きで馬を駆ってこのような命懸けの大脱走逃亡を続けているうちに、空腹で体力が尽きてしまったらしい。

「……い、いかん……宮廷へ逃げ込もうと街まで降りてきたが、腹が減って力が出ない。失神しそうだ……胃の中が空っぽなので漏らす恐れがないことだけが不幸中の幸い……」

 日頃の家康ならば「さっさと逃げ切るに限る」と半分失神しながらスレイプニルを駆って逃げ続けるところだったが、セラフィナが提供する野菜とキノコ中心のヘルシーなエルフ夕食はあまりに腹に溜まらなさ過ぎた。

「……もはや動けぬ……馬上に踏みとどまるのも困難……お、おう? 天佑! すらいむばーがーの茶店がこんな朝から開いている!」

「おや、イエヤスの旦那? いつもよりもずいぶんと早い時間ですねえ。おかげ様で町長からのクレームも収まりましたよ、有り難いことでございます」

 幸い、店長はまだプッチが起きたことに気づいていない。早朝から店を開くために働きづめだったのだろう。

「て、店長よ。俺は腹が減った。大至急、すらいむばーがーを頼む……馬上で喰らう」

「副菜は如何なさいますか? 皮付きの揚げ芋、すり潰し芋、スライム団子の天ぷらなどなど、お好きなものをお選び頂けます」

「副菜の種類などはどうでもよい、早く肉をよこせーっ! 俺は急いでいるのだっ! あと、天ぷらだけは死んでも食わんっ! 食ったら死ぬからな!」

「そうそう。街の美観を損ねないために、持ち帰りの際にはバーガーを入れる袋の対価を頂くことになりまして。町長からの命令でしてね、へっへっへ。あっ、お会計は先払いとなります、イエヤスの旦那」

 なんでもかんでも代金を取ろうとするお前の悪知恵だろうが、と家康は吝嗇家なだけに店長の銭ゲバぶりに憤慨した。そしてこの時に渋々懐に手を入れて、気づいた。

(いかん。持ち合わせがない! 紫雪に夢中で銭を置いて逃げてくるとは、俺も焼きが回ったものよ。だあくえるふはみな、ファウストゥス同様に銭に細かい。どうする?)

 ツケで頼むと言っても、相手は俺と同等の守銭奴。長い交渉時間を取られることになるだろう。それでは追っ手に追いつかれてしまう。

 家康は、(三方ヶ原で武田騎馬隊から逃げている途中、栄養補給のために茶屋でやったのと同じ手を使おう)と決めた。

 そう。

「食い逃げ」である。

何食わぬ顔で「済まぬがほんとうに急いでいるのだ、今すぐに調理してくれ。食いながら代金を払おう」と店長に囁いていた。

「なんとも福々しい笑顔でございますな。あなた様は。へいへい、すぐにお持ちしますよ」

 この微笑ましい会話の直後、店長は思い知らされる。

 エの世界を天下統一した伝説の勇者家康が、「かたじけない」とスライムバーガーを受け取るや否や、素知らぬ顔で馬を走らせて平然と食い逃げする男だという衝撃の事実を――。

「待てやあああああ、オラアアアアア! 賄賂を取ったあげく食い逃げとは、勇者のやることかあああ! 代金を払っていかんかいいいいっ、食い逃げ野郎があああああッ!」

 血相を変えた店長が包丁を振りかざしながら、スライムバーガーを頬張って逃走を開始した家康が駆るスレイプニルを、徒歩で追いかけてくる。

「お、恐ろしい剛脚ッ!? 一角馬に追いすがってくるとはっ? 思えば三方ヶ原の茶店の婆も、どこまでも俺を追いかけてきて代金を取り立てた妖怪じみた婆だった! なんという銭への飽くなき執念!」

「銭に執着しとるのは、食い逃げ犯のおどれやないかーい! ダークエルフ族を舐めんなああああ、ゴラアアアアアッ! 払うまでは地の果てまでも追ってやるでえええ!」

「い、いかん! 店長の怒鳴り声が街中に響いて……せっかく振り切ったプッチ軍に見つかってしまっただとーっ!?」

「「「見失っていたイエヤスを再び発見! 絶対に逃がすなっ!」」」

 家康の食い逃げの代償は、高くついたのである。

 三方ヶ原で武田信玄軍に大敗して遁走した時も、家康は逃走中に空腹に耐えきれず茶屋に立ち寄って小豆餅を口に頬張り、「時間がない。すぐ逃げねば」と言い張ってそのまま食い逃げした前科がある。家康は、激怒した店主の老婆になんと延々2キロも追いかけられ、後に「銭取」と命名された地点でついに捕まって、渋々代金を支払ったという。

 たかが餅の代金の支払いをケチったばかりに、家康は「銭を払いな!」と鬼婆と化した老婆に追いすがられ、危うく武田軍に追いつかれそうになったわけだ。

 迫り来る武田軍の恐怖により、持病の胃痛が襲いかかり、家康痛恨の焼き味噌脱糞疑惑事件が勃発したのは、その後だった。小銭を惜しんだばかりに鬼婆という新手に追撃されなければ、悲劇的な脱糞事件は避けられたかもしれない。ケチが身を滅ぼすという教訓を、家康は後世に残したのであった――そして家康は、全く懲りていない。吝嗇は、転生しても召喚されても治らないのである。

「まさに絶体絶命! 俺を生かしてくれ、須霊不死竜! 頼むぞ!」

「……ブルル……ルゥ……」

 スレイプニルは知能が高い。自分の主人が食い逃げ現行犯になりさがった、というか前世からの常習犯だったことを知って意気消沈しながらも、追われれば逃げるのが一角馬の本能。プッチ軍を振り切るべく凄まじい勢いで加速した。

 だが。

「この、食い逃げ野郎があああああああ! 切り刻むぞワレぇ!」

「い、一向に店主を振り切れんだとーっ!? ええい、だあくえるふは化け物かっ?」

 プッチ軍に捕らわれるのが先か、矢で射られるのが先か、それとも店長の出刃包丁で刻まれるのが先か!?

「うおおおおっ、空きっ腹にいきなり肉を放り込んだせいか、猛烈な胃痛が襲ってきた……! ま、万病円を飲まねば……そうだ! えるふ族は無理でも、葵の御紋の印籠を翳せば店主はわが威光の前にひれ伏すのでは? 控え控え、控えおろう!」

「かーっ、ぺっ! 葵の御紋なんざ知るかボケぇ! 銭や銭や、銭を払えーっ!」

「い、印籠の威光が全く通じぬだとーっ!? こやつ、それほどに銭への執着が激しいのか? ああ。俺は、だあくえるふの商魂を舐めていた……!」

 家康の七難八苦の逃走劇は、なおも続く。


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