第十二話 04

 家康が、新鮮な食材の配達に来た鶏卵業者から「王党派プッチ」勃発を知らされて「異世界でもまた一揆か」と絶望し思わず菜箸を落としたのは、なぜかセラフィナが屋敷に顔を出さず「あのサボリ娘め」と自ら厨房に立って、金貨百枚とともに大鍋で煮込んでやっと精製した伝説の解毒剤・紫雪の完成度を確かめていた時だった。

「イエヤスは人間側へ寝返ろうとヴォルフガング一世に内通を申し出る書状を作成していたが、昨夜その書状がエレオノーラの手許に渡り、イエヤス打倒を叫ぶ王党派プッチが勃発した」

 という話を聞かされても、家康は全く身に覚えがない。

「なんのことだ」

 なにもかもが寝耳に水だったが、「イエヤスはエの世界で主家のトヨトミ家を強引に滅ぼしている」という前世の悪行までが巷に伝わっている以上、容易に弁明はできないだろうと家康は爪を噛みながら狼狽えた。

(なぜ、エレオノーラが王党派の党首に? まさかアナテマの術に落ちたのか? エレオノーラはアナテマの使い魔を直接見たことがない。不意を突かれたのかもしれん。だが、エレオノーラは常に冷静沈着な娘だ。不用心にも黒魔術に落ちるだろうか?)

 気づけば、隣室で寝泊まりしているはずのイヴァンの姿も見えない。

 イヴァンが不在だと気づいた瞬間に家康は、昨夜のうちに起きていた事態をおおむね了解していた。自分が今、どれほどの危地に立たされているのかも。

(そうか。イヴァンか。そうか……ヴォルフガング一世の間者だったのか……ファウストゥスはなにをしていた? 傍観を決め込んだのか。俺を試しているのか、それとも、既にヴォルフガング一世側に寝返ったのか?)

 なんということだ。まもなくこの屋敷にも一揆軍が押し寄せてくるだろう。

 もしもエレオノーラが明智光秀のような冷徹な武人だったら、エレオノーラの荘園内に建てた屋敷で眠っていた俺の命は昨夜のうちに容赦なく断たれていたと家康は震えあがった。

(エレオノーラは親友セラフィナの身柄を確保することに夢中で、俺の捕縛を後回しにしたのだろうか? では、なぜ兵を二手に分けなかった?)

 実は、家康がセラフィナとの同居を避けていた理由のひとつがここにあった。

 かつて織田信長と嫡子の信忠は同時に京に泊まったために、本能寺の変が起きた際に明智光秀に親子ともども討ち取られたのだ。要人は一族全滅の危機を避けるべく住み処を分散するに限ると家康は学び、秀忠を江戸に、自らを駿府にと、父子別居を選んだのだ。

 だが、エレオノーラがアナテマの術に陥っているとすれば、家康捕縛を後回しにしたのは不自然だった。なにを置いてもまずは王女を確保しないと一揆の大義名分は得られないが、家康捕縛という二手目が遅い。なんといっても家康はエレオノーラの荘園の敷地内にいたのだ。

 とはいえ、大幅に遅れていた「二手目」も、この時には既に着々と進行していた。

(うん? この歌声は? 一揆軍が口々にエルフ王国の国歌を歌いながら丘を登っている! いかん。じきにこの屋敷は包囲される!)

 家康にとっては不運なことに、ゾーイに発注していた緊急事態用の地下逃走路は、施行ミスのために未開通のままだった。本来ならば昨日開通していたはずなのだが。

(本能寺の地下に抜け穴を掘っていれば、信長公は助かったのだ。以来、俺は駿府城や江戸城に抜け穴を掘らせまくり、絶対に脱出できるように地下を改造し続けたものだ。ええいゾーイめ、あれほど急げと言っておいたのに手つかずのままではないか!)

 ここに家康の郎党がいれば、「もはや切腹するのみ」と家康は癇癪を起こしていたかもしれない。

 慎重さの仮面が割れた時、家康は蛮勇の男になる。エの世界では、天変地異の如き突然の不運に追い詰められて錯乱し、癇癪を爆発させて切腹しようとしたことが何度もあった。

 桶狭間で今川義元が討たれた時。本能寺で織田信長が討たれた時。大坂の陣で真田幸村の赤備えの騎馬隊に急襲され、本陣を捨てて逃げに逃げた時。そのたびに、家康は「もはやこれまで、切腹する」と叫び、家臣たちに諫められて思いとどまってきたものである。

 だが、今の屋敷には愛馬スレイプニルしかいない。「いつもご贔屓して頂いておりますんでお教え致しました」と家康に風雲急を告げた鶏卵業者は、王党派による襲撃を恐れて既に逐電している。さすがに、伊賀越えの逃避行を支援してくれた京の商人・茶屋四郎次郎のようなわけにはいかなかった。そもそも、エルフ族は銭をばらまいて逃げ切れるような相手ではない。

 家康は切腹したいという発作的な衝動に駆られたが、介錯人抜きでの一人切腹は、何時間も血の海の中でもがき苦しむ文字通りの生き地獄である。それに、いよいよセラフィナとエレオノーラの今後が気がかりだった。ここで自分が死ねば、あの二人の運命は――。

 イヴァンのことも心配で仕方がなかった。イヴァンは家康に息子あるいは孫のように懐いていた。あれは演技ではなかった。つまり、よほどの事情を抱えているに違いない。

 家康は「まだ切腹はできぬ」と決めた。信長公ならば「是非に及ばず」と屋敷に火を放ち潔く天に還るところだろうが、俺は信長公のような真の英雄ではない。みっともなく地を這い逃げ惑いながら命を拾い、最後の最後まで不器用に足掻き続ける男だ。厭離穢土欣求浄土と唱えながら。それが徳川家康という天賦の才を持たない凡夫のありようなのだ。

 いや、有り体に言えば切腹すれば腹が痛む。痛みのあまり漏らすかもしれん。かなわん。

「須霊不死竜よ、俺はこたびも逃げるぞ!」

 激情を発散するべくしばし無言で壁を殴り続けた後、冷静さを取り戻した家康は印籠に完成したばかりの紫雪を詰め込み、甲冑を身につけるや否や、寝室の机の上に積み上げていた書類を小脇に抱えてスレイプニルに飛び乗り、文字通り風を食らって屋敷から逃げた。

 あとはもう、一揆勢に見とがめられようが追われようが、脇目も振らずに駆けるのみである。恥も外聞も捨てていた。

「えっだの森から出られる門はひとつだけ。無論、既に閉鎖済みであろう。どうにかして逃げ込む先を見つけねば……!」

 背後から、次々と矢が飛んでくる。遠距離からの射撃だが、勢いも強く精度も高かった。エルフの弓術は卓越している。直撃すれば甲冑をも貫通する。もはや、懸命に主人を守ろうと坂道を駆けるスレイプニルの規格外の脚力に賭けるしかなかった。

 本能寺の変勃発を知って慌てて堺から遁走した伊賀越えの苦難を、家康は思いだしていた。あの時には、伊賀甲賀の忍者たちに顔が利く服部半蔵が自分を救ってくれたものだが――。


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