第四話 04

 待つこと十数分。

 大勢の衛兵たちが踏ん張りながら運んできた実物のヨウカハイネンを一見した家康は、

「これほど巨大な弓を実戦で用いられる武士は、鎮西八郎為朝公くらいではないのか?」

 と思わず額から冷や汗を流していた。和弓はもともと全長約七尺(約2メートル)越えという大弓だが、この弓のサイズは3メートルを軽く超えている。

「ひえ~っ!? なにこれっ、ほんとに弓なのぅ? デカ過ぎないっ?」

 生まれてはじめて実物を間近に見たセラフィナも、口をぽかんと開いている。

 衛兵たちが十人がかりで担いできたヨウカハイネンと呼ばれるその強弓は、とても並の人間が操れるものではなかった。日本の和弓とは多少形状が異なるが、長弓の一種であり、日置流弓術の達人である家康ならば引けないことはない――ただし、桁外れの重量を誇る巨弓であることを度外視すれば、だ。

「弓を引くだけで危険なのに、鳥を一撃で射ろなんて無茶だよう? ねえねえエレオノーラ、イエヤスはエの世界から来た人間なの。だからエルフに対してどんな罪も過失も犯していないの。それどころか私を救ってくれたんだから! もっと寛大になって……お願い! 昔の優しかったエレオノーラに戻って!」

「……もう子供時代には戻れませんわ、セラフィナ様。あなたはエルフの王女にして、いずれは女王となり全てのエルフを導くお方。そして妾は国防長官。人間の圧力に屈することなく、セラフィナ様とエルフ族を死守すべき立場にある者。アフォカス家を継いだ者として、二度と失敗は許されませんわ。妾は、自らの使命を果たすために感情も私心も全て捨てましたの」

「エレオノーラ? 私、もう絶対に後ろを振り向いて立ち止まったりしないから! だから……! ぐすっ……」

「王女ならば愚図らないでくださいまし。その話はこの勇者問題を解決してから語りましょうセラフィナ様。さあイエヤス様、この魔弓で大空を飛ぶ鳥を射られまして?」

 家康は慎重な男である。引いただけで健康に害があるという怪しげな魔弓に、迂闊に触れるべきではない。ここは腹が痛い臍がかゆいと駄々をこねてでも断るべきだった。

 だが、かつては姉妹以上に親しかったセラフィナとエレオノーラの間にかくも壁ができてしまっている姿を見ているうちに、家康の心中に理不尽な怒りと哀しみの感情が湧き上がってきた。

「えっだの森を囲む大河と城壁はまるで、大坂城の堀と城壁だ。太閤秀吉殿を失った後、難攻不落の防衛施設となった大坂城に籠もった淀君と秀頼の母子は、現実社会から自らを隔離してしまい、既に徳川の世が来ているという事実を認められなかった。俺が豊臣家を大坂城に閉じ込めている堀を埋め立てて裸城にしても、なお。だから滅びた……」

 エッダの森もまた、エルフたちにとっては現実社会から己を隔離する巨大な牢獄になっている。このままではセラフィナとエレオノーラもいずれ同じ運命を辿る。家康の目には、今のエレオノーラがまるで秀頼を大坂城から出そうとしなかった淀君のように見えた。どうやら彼女は、石田三成の才覚と淀君の強過ぎる情愛とを兼ね備えている女性らしい。

(エレオノーラは妹分のセラフィナを愛するあまり、己の感情ごとセラフィナをエッダの森に閉じ込めて現実社会から庇い続けているのだ。セラフィナを領域外に出そうとしないのも、その情愛故だ)

 だが、家康は知っている。どこの世界にも落ちない城などはないと。

(エッダの森とて、守勢籠城に固執すればいずれは必ず落ちる。そうなる前に、阿呆滓と世良鮒の間の壁を破壊せねばなるまい。愛深き故に過保護に走った淀君とその淀君に逆らえなかった秀頼の如き関係に、二人を陥らせてはならぬ)

 セラフィナの心は、過去に立ち止まってはいない。だからこそ領域外に飛び出したのだ。凍りついているのは、エレオノーラの心だ。妹分のセラフィナを愛するあまり、守りたいと思い詰めるあまり、二人分の重荷を一人で背負っているためだろう。

 淀君もそうだった。若い秀頼は、決して徳川家に遺恨を抱いてはいなかった。家康が両家融和のために送り込んだ息子の忠輝と密かに義兄弟の契りを結んでいたほどだ。家康の孫・千姫との夫婦仲も良好だった。母親の淀君が、「徳川家は必ず秀頼を害する」とかたくなに思い込んでいたことが、豊臣家滅亡の悲劇を生んだのだ。

 時として、深過ぎる情が判断を誤らせ庇護すべき者を不幸に落とすこともあるのだ。家康もまた徳川家を守らねばならないという重荷を下ろせず、ついに淀君も秀頼も救えなかった。だが今こそ家康は理解できた。エレオノーラの心情が、わがことのように。前世ではできなかったことだ。なにも背負わぬ流浪の身だからこそ見えることもあるらしい。

「――承知した、国防長官殿。この勇者徳川家康、この魔弓で見事に鳥を撃ち落としてご覧にいれる! ただし! 成功した暁には世良鮒の護衛官を務めさせて頂く。決して約束を違えられぬよう」

「承知。妾は約束は必ず守りますわ、アフォカス家の誇りと名誉にかけて」

「……阿呆滓家……何度聞いても、ひょうげておる……ぷっ……」

「ですから、妾の家名を笑わないでくださいまし! 魔弓を射れば、大量に流れ込むプネウマの衝撃で心臓が止まるかもしれませんわよ。ほんとうにやりますの?」

「げえ? イエヤスぅ? もうちょっとこう慎重に……今回は私、煽ってないよぅ? どうどう。落ち着いて~ほらほら~猫じゃらしで鼻先をこちょこちょしてあげるからさ~」

「えーい。世良鮒は静かに見ていろ! 気が抜けるっ! 武術は見世物ではないが、戦国日本を武の力で統一した征夷大将軍の強弓を、特別にえるふの諸君にご覧に入れよう! 三方ヶ原で敗走した時には、俺は追っ手たちをわが弓矢で撃ち倒して逃げ切ったのだ!」

 相変わらず逃げた話ばっかりだねーとセラフィナが家康を心配しながらますます気が抜けるような言葉をかけてきたが、つがえた鏃に集中している家康の耳にはもはや届かない。

 空を飛ぶ大鳥たちの群れが、見えた! 速い! 果たして、射貫るか。

 弦を弾き絞るだけで五体に衝撃が走り、骨という骨が砕けそうになった。

(これが、大気のプネウマを極限まで濃縮した弓の力なのか? なんという危険な武具! 放てるのは一矢だけだ、連射すれば俺の身体は確実に壊れる!)

 家康は目を閉じ、鳥の群れが放つ気配のみを心眼で感じ取りながら青天へ向けて矢を放っていた。

「南無八幡大菩薩! 鎮西八郎為朝公よ、俺に力を与え給え!」

 永遠に続くかのような沈黙の時間が、突如として終わった。

 魔弓から受ける激しい電流の如き衝撃に全身を震わせながら渾身の力を振るって矢を放ち終えた家康の耳に、「わあっ」と大歓声が飛び込んできた。

 目を開くと、つい先刻まで群れを成して青空を飛んでいた無数の鳥たちが、一斉に家康の足下へと落下していたのだ。

「ふむ。俺が射た鳥は一羽だったはずだが……」

「なんでこんなにいっぱい落ちてくるのよう? ぐえ~っ!? 頭に直撃したあ!?」

 セラフィナが巻き添えを食らって倒れたが、存外に石頭らしくダメージは少ない。

 この伝説的な光景を目の当たりにした衛兵たちは、「勇者しか引けぬ魔弓を引いて、見事に飛ぶ鳥を射貫いた!」「しかも、衝撃波で大量の鳥をことごとく撃ち落とすとは! さすがは魔弓!」「ではこの人間の武人は、ほんとうに伝説の勇者なのか!?」と口々に叫んでいた。彼らは家康へ向けていた壁を一斉に解除し、元老院へと至る玄関口を家康の前に開いたのだった。

 エレオノーラは「しっかりなさいまし」とセラフィナを抱き起こしながら、

「まさか? ヨウカハイネンで矢を射て生きているだなんて? では、彼こそが真の勇者? 人間が、なぜ、どうして……?」

 と、信じられぬものを見る視線で家康を凝視している。

「阿呆滓よ。俺にもよくわからぬが、前世で死んだ直後に高次世界の『女神』とやらに勇者にされてしまったのだ。魔王から世良鮒を守るのが、俺の使命らしい」

「……イエヤス様、あなたの勇気と卓越した弓術に妾は負けましたわ。『女神』とは何者なのか腑に落ちませんが、認めましょう。あなたこそエルフの伝説に言い伝えられてきた、魔王を倒す勇者であると。天下の孤児・セラフィナ様を、どうかよろしくお願いします」

 エレオノーラは気高いながらも潔い。家康に深々と頭を下げてきた。王都から森へとセラフィナを導いた経験が彼女を強くしたのだろう。若いが淀君よりもずっと大人だ、と家康は彼女に敬意を抱いた。

 と同時に、死の病に憑かれて病み衰えた太閤豊臣秀吉から「天下の孤児秀頼をどうかよろしく頼み候」と涙ながらに頼まれた前世での記憶を不意に思いだし、(あの日の約束を破ることになり申し訳ありませんでした、太閤殿下)と心中で秀吉に詫びていた。

かくなる上はこの異世界での第二の人生で、せめてセラフィナを守り抜いてみせよう、徳川家という重荷から解放された今の俺ならばできると家康が頷くと――。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る