第三話 02

「……やれやれ、無駄な体力を消耗してしまった。えるふの森に入る門はもう目の前だが、火を熾してここで暖を取る。風邪は万病のもとなのだぞ世良鮒」

 河を泳ぎ切って向こう岸にあがった家康は、身体を拭って素肌の上から甲冑を着用。「へっくちん、へっくちん」とくしゃみが止まらなくなったセラフィナの肩に自らの羽織をかけると、橋を渡りきったスレイプニルが運び込んだスライムの肉を脇差で数辺薄く切り取り、火で炙った。

 印籠の中には薬だけでなく塩や山椒も入れてあるので、いつ何時でも野戦食を調理できる。「塩さえあればたいていの野生生物の肉は焼いて食える」。これは、数々の戦で「逃げ」慣れている家康の智恵だった。

「へっくちん! 家康の水術ってすっご~い! この激流を、女の子を抱きかかえたまま泳ぎ切っちゃうなんて……って、こんな水泳超人なんだったら最初から泳いで渡れーっ! 私はなんのためにこんな苦労をっ? 死ぬかと思ったじゃんっ!」

「なにを言う世良鮒。どれほどの水術を会得していても、初見の激流を無事に渡れる保証などない。俺は運が良かっただけだ。お前を抱きかかえていて余裕がなかった分、いつもよりもさらに慎重に泳いだことがかえって幸いしたのかもしれん」

「あらそんなあ。私のこと、幸運の女神だと思ってるのぅ? 褒めてもなにもでないわよ~? って、誤魔化されるかーっ! エルフったって私はひ弱い女の子なんだから、大の男を背負って楽々橋を渡れるわけないっつーの! この細腕にそんな筋力あるわけないじゃん! 一応王女だし! 背負われる経験はあっても背負わされた経験はないっつーの!」

 そうだった、やけに気さくな娘なのでなんとなく使用人扱いしていたがこれでも王女なのだったな、と家康は気づいた。

「そもそもイエヤスってば無駄に慎重だし食材欲しさに命を賭けるばかりで、乙女を守る騎士らしさがこれっぽっちも……ぐぎゅるうううう~。うう、お腹空いた……」

「一枚目が焼き上がったぞ、食え。ぬっへっほうの肉は滋養がつく。長寿の霊薬だ」

「え~私から食べていいの? ありがとうイエヤス~。ぶっきらぼうだけど実は優しいんだからあ~」

「うむ。遠慮なく喰らうがよいぞ」

「いっただきま~すぅ! あむっ! 嘘っ、これって美味しい~! とっろとろに口の中で脂身が溶けて、けれどしつこくなくてさっぱりしている! あの奇怪なスライムが食用になるだなんて大発見だわ! 私たちは古い常識に囚われ過ぎていたのね!」

「ふむ。世良鮒? 舌が痺れるとか喉が刺激されるとか腹が痛くなるとか、そういう兆候はないか?」

「ん? 別にないけど?」

「……それでは即効性の毒性はないということだな。これから一ヶ月、毎日ぬっへっほうを食え。遅効性の毒性についても試してみる」

「って、私を毒味役に使ってんのかーい! 一瞬でもあんたの振る舞いに感激した私がバカみたいじゃんっ! それほどの毒性があれば匂いでわかるよぅ! 私は『治癒の魔術』が専門なんだからっ!」

「『治癒の魔術』を使えるお前だからこそ、毒味役にちょうど良いのではないか」

「自分で食って、中ったら私に治療させるんかーい! なんという殿様思考なのよぅ!?」

「すまん。前世では、毒味役が食ったものしか食わなかったのでな。そういう習慣なのだ」

「いーや。習慣のせいじゃないっ。イエヤスの性分だよっ!」

 喜怒哀楽の表情が激しくてわかりやすい娘だ、と家康は苦笑していた。だが次の瞬間。

 家康は、自分の右の二の腕から薄く出血していることに気づいて、

「うおおおおおおおっ!?」

 と悲鳴をあげていた。

 不覚! 激流を泳いでいる途中で、岩に肌をこすりつけていたのだろうか?

 戦国時代の合戦で死ぬ人間の多くは、戦場で負傷した傷口から毒が入り込んでの破傷風によって命を落としている。戦国時代、細菌は未発見で、人々の衛生観念は遅れていた。故に負傷者の死亡率が異常に高かったのだ。

 だが、いかに死なずに生き延びるかを追求してきた医学博士の家康は、経験則から現代でいうところの殺菌法を考案し、負傷した時には即座に石鹸で傷口を洗浄して「殺菌」を行ってきた。戦の最中に、家臣の傷を手ずから石鹸で洗ってやったこともある。

「なんということだ! 甲冑を脱いだことが命取りとなった! かさばる石鹸は印籠には入りきらなかったのだ! 傷口から毒が入れば終わりだ! しかもここは異世界、未知の毒素に侵入されれば……俺は……俺はここで死ぬのか……!」

「ほんの擦り傷じゃん。イエヤスってば全く大げさなんだから~」

「戦場傷の恐ろしさを知らないのか? ああ。世良鮒を放置して一人で泳ぎ切っていれば、あたら命を落とさずに済んだものを! 俺はまだまだ甘かった……!」

「ちょっと待てーい! これくらいの傷なら放置してても問題ないけど、『治癒の魔術』で治してあげるよぅ。んもう。『治癒の魔術』もタダじゃないんだから。貴重な薬草を消費するんだからね? あ、あくまでも助けてくれたお礼だよ、お礼。今回だけだよ? 以後、お前を俺の治療役に任ずる、とか言わないでよね?」

 セラフィナは、神木の枝から作った杖がなくとも、薬草を握りしめた手を治療者の頭上で開いて薬草を振りかけながら呪文を詠唱するだけで「治癒の魔術」を発動できる。先刻、ワイバーンを治癒した時もそうだった。

「世良鮒? その魔術に副作用は? 人体への危険は? 怪しい術を用いる場合はもっと慎重に……」と尻込みする家康が腰を浮かせる前に、一瞬で家康の傷を治してしまった。

「はい、おしまい。これでいいんでしょ、これで。ほら、家康もスライム肉を食べなさいよう。私にだけ毒味させて自分は食べないとか認めないからっ! はい、あーん」

「おおっ、疵痕が綺麗に消えている? なんと素晴らしいえるふ魔術! そして、やはりぬっへっほうは美味だ! 一口食しただけで全身から力が湧いてくる!」

 成る程。セラフィナは体力に優れているのではなく、魔術に優れているのだ、と家康はようやく認識した。伊賀甲賀や風魔らが用いる如何なる忍術でも、「盾の魔術」が空中に築く半透明の壁や、「治癒の魔術」が発揮する治癒力は真似できない。

「天晴れ大義であった。世良鮒よ、以後、お前を俺の治療薬に任ずる。有り難く恐れ入れ」

「だから、それを言うなっつっとるだろーがっ! はぐはぐ、おかわりっ! スライムってじゃんじゃん再生するから、無限に食べられちゃう! 凄いねイエヤスぅ! 大発見だよーう! スライムが一匹いれば、私たちは森に何年でも籠城できるじゃん!」

「……ぬっへっほうは命を賭して狩った俺のものだ、やらんぞ」

「えー。ケチー」

「……減るものではないし、お裾分けしてはやるがな。ただし条件がある。世良鮒の薬学知識を俺に分けてもらおう。万病円や八ノ字(八味地黄丸)に用いる薬草などの代替物をこの世界で選別採取したいからな」

 老化防止に効く八味地黄丸は、地黄、山茱萸、山薬、沢瀉、茯苓、牡丹皮、桂皮、附子末、そして家康が独自に追加調合した海狗腎(オットセイの陰茎)を原料に用いる。

 海狗腎については、ぬっへっほうの肉が代用どころか上位互換となるようだ。

「他の原料も、自然に自生する植物や菌類だから、代替物があるはずだ。むしろ、猛獣や魔術が存在する異世界だからこそ、ぬっへっほうのような上位互換種を集められるはず。つまり俺はますます健康になれる! この異世界で八味地黄丸の改良に成功すれば、俺は健康なまま百年を余裕で生きられる!」

「はえー。私の薬学知識くらいならいくらでも提供するけれど。イエヤスって生への執着が凄いんだねー。人間相手にはやたら慎重なのに、ぬっへっほうを捕らえるためなら死んでも構わん! って勢いだったもんねー。私が想像していた勇者像とちょっと違う~」

「……俺は生まれながらに小国三河の世継ぎだったからな。常に暗殺や討ち死にの危機に怯えながら、乱世を生き延びることに七十五年の間必死だった。馬術も水術も負け戦の戦場から逃げるために修得したし、剣術も暗殺者から身を守るために修行した。自ら薬を調合するのも、医師による毒殺が横行していたからだ。俺の祖父も父も家臣に暗殺されたのだからな――人一倍、慎重にもなる」

「そ、そうなんだ? 家臣が主君を暗殺するなんて、エルフじゃ考えられないよぅ。怖い世界から来たんだね、イエヤスって。でも、そんな乱世を統一したんでしょ? エの世界で乱世を統一して『神』として祀られた者だけがこの世界に勇者として召喚されるって長老様が言っていたけど、ほんとうだったんだね。凄いじゃん!」

 自称「女神」に無理矢理召喚されただけだがな、と家康は自嘲した。あの「女神」、完全に気配を断った。俺ならば奴を捕縛する方法を修得しかねんと慎重なのかもしれん。

「俺は真の勇者ではない。勇者ならば、あれほどの犠牲を払わずとも天下を統一できたはず。かつて俺は弱小の徳川家を守るために、心ならずも自分の妻と嫡男を庇いきれずに家臣に斬らせた男だ。築山殿と呼ばれていた瀬名姫と、わが子信康を――信康こそ、勇者に相応しい若武者だった。信康を失ったために、俺は死ぬまで隠居できなくなっただけだ」

「ふえええっ? 奥さんとお子さんを? でもでもイエヤスってば戦場で逆ギレしていない時は、こんなにも温厚じゃん? お肉焼いてくれるしぃ。どーしてっ?」


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