第三話 01
徳川家康は武芸百般に通じているが、馬術も一級品だ。
大坪流馬術免許皆伝の達人で、戦国日本では「海道一の馬乗り」という称号を得ていた。気難しいスレイプニルを乗りこなして騎兵たちから見事に逃げ切ったことでも、その卓越した実力は明らかである。
だが、その家康は慎重過ぎるほどに慎重な男でもあった。故に、危険な吊り橋を渡る際に家康が採用した「通過方法」とは――。
華奢なセラフィナに、上半身を顕わにした家康の身体を背負わせ、「うぐぐ。うぎぎ」と懸命に吊り橋の上を進ませることであった。
「ギャアアアア~? いやああああ~っ、どうして私がイエヤスを背負って橋を渡らされてるのよぅ? 重いっ! 落ちる落ちる、落ちたら溺れちゃう! これのどこが馬術なのよーう、サイテーッ!」
「世良鮒。橋を渡り慣れているお前が俺を背負うのがもっとも安全なやり方だ。そもそも重い重いとお前が文句を言うから、甲冑を脱いでやっただろうが。甲冑を脱ぐだけでも、俺にとっては命懸けの決断なのだぞ?」
「母上、父上、ごめんなさいごめんなさい! 私は今、ふんどし一丁姿の半裸の殿方をおぶらされてますうううう! しかも、ふんどしが黄色いし! なんで黄色いのよぅ?」
「安心しろ、黄色いのはもともとだ。俺は白い下着は使わない。すぐに汚れて使えなくなるからな。浅黄色の下着なら汚れが目立たないから、長く使える。何事も倹約だ」
「そんなみみっちい理由なんかーい! イエヤスってば、ほんとに一国を統一した勇者様? どこまでケチなのよぅ?」
「フ。前世の家臣団も、ふんどしは武士の魂でござる、いつ死ぬかも知れぬいくさ人たる者が黄色い下着など御免被ると贅沢なことを言っていたものよ」
「言うでしょそりゃ。でも、家康のガタイってすっごく引き締まっていて男らしいかも……そうじゃなくてっ! 橋を自力で渡らないだなんて、なんのための馬術なのよ~ぅ!」
家康は、この狭い吊り橋を渡った経験がなく、馬に乗って渡りきれる確証がない。そもそも自らの足で渡ることすら危険だ。なにしろ、河に落ちればそこは死を覚悟せねばならない急流。
「世良鮒よ、危険な場所を騎馬で無理に渡りきることが馬術なのではない。むしろ危険な場面では躊躇わずに馬から下りる慎重さこそが、俺が身につけた大坪流馬術の極意なのだ」
「ホントに~? 楽しようと適当なことを言ってない~?」
「俺が尊敬する鎌倉幕府の創始者・源頼朝公ですら、河に架けた橋の竣工式に出席した際に落馬し、その時の怪我が原因で死んでいるのだぞ。馬術とはそれほど危険なものなのだ。故に、この橋に慣れた世良鮒に背負ってもらって橋を渡りきる安全策を採ることこそ、真の達人の馬術」
「仮にも勇者がか弱い女の子に背負われて橋を渡るとか、恥ずかしくないのぅ?」
「誰も見ていないから問題ない」
「私が見てるじゃんっ!」
「たとえ諸国の大名が見ていようとも、俺は同じことをやる! 小田原征伐の折にも、危険な橋を渡る際に同じことをして、俺は大勢の浅はかな武士どもに笑われたものだ」
「そりゃ普通笑うでしょ?」
「だが、堀久太郎殿をはじめとする一握りの有能な大名たちは笑うどころか、徳川殿こそ危地で馬を大切にする真の馬術の達人と、俺の慎重ぶりを褒めそやかしていたぞ?」
「それはイエヤスに気を遣っていただけじゃん? 世渡り上手ってだけではっ?」
そうとも言えるな、と家康は仏頂面で頷く。いいからはよ降りろやと毒づくセラフィナ。
「そもそもさあ、デカブツのスライムを諦めて捨てていけば問題なく渡れるじゃん! スライム惜しさにこんな無理矢理なことさせてるんでしょっ? そんなにスライムが欲しければまた捕獲し直せばいいのに、ケチなんだからーっ!」
そう。家康はこの地域には生息していない希少種のスライムをどうしても捨てたくなかった。
だが、スレイプニルに大柄でしかも不定形のスライムを引かせるこれまでの運搬法を用いては、この狭くて不安定な吊り橋は渡りきれない。
故に家康は自ら下馬し、スレイプニルの背中にスライムと甲冑その他の所持品を乗せて縛り付けバランスを安定させ、そろそろと運ばせていたのである。スレイプニルは驚くほどに知能が高い一角馬なので、轡を引かなくても自らの意思で家康についてくる。
「この世界で再会したぬっへっほうは、驚くべき再生能力の持ち主だった。これは『山海経』に記されていた、無限の食肉を人間に与えてくれる霊獣『視肉』だ。滋養強壮・長寿の秘薬の原料であると同時に、俺をこの異世界で飢えさせずに生かしてくれる貴重な授かり物だ。俺自身よりも優先して橋を渡らせる!」
「はいはい。イエヤスってば健康のためなら死んでも構わないんだったわよねー。はあ……こんな外来獣を森に持ち込んだら『森の生態系が乱れますわよ』とエレオノーラに叱られそう。あっ、急に脚の力が抜けてきちゃった。はうう~、おっ、重いよおおおお~?」
「待て待て。えるふは人間よりも優秀な種族ではなかったのか? まだ半分も渡りきっていないのに、もう足下がふらついているだとっ? だいじょうぶなのか世良鮒? これはまずい予感がする、俺は降りる! これならばまだ自分の足で歩いたほうが安全……」
「ちょ、ちょっと待って~! エッダの森名物の突風が吹いてきたから、今は動かないで! だめええええ! 足が、足が滑るううう~! い、いやああああああ~!」
「なんだとおお? 二人ともども風に飛ばされ、橋から落ちているだとおおおっ!? なんという凄まじい突風!? 俺の慎重さが通用しないとは、恐るべきは異世界!」
「潔くスライムを捨てていかないイエヤスの貧乏性のせいでしょーっ! ギャアアアア~! 私、まだ死にたくな~いいいいい~!」
突風に巻き上げられた家康とセラフィナは、揃って激流のただ中へと転落していた。
だが、セラフィナが「甲冑を着られてちゃ重い!」と抗議したために家康が前もって甲冑を脱いでいたことが幸いした。
「がぼがぼがぼがぼ……ぶくぶくぶくぶく」
水流に呑み込まれたセラフィナは(この先は滝! 滝壷! 死んじゃうううう!)とパニックを起こしてなすすべもなく溺れたが、家康は水術の達人。慶長十五年、六十九歳で駿河の瀬名川を泳いだという超人的な逸話を残している。まして今の家康の肉体は二十歳。
武士の水術は、甲冑を着けたままでの立ち泳ぎ技術を含んでいる。たとえ甲冑を着けていても、自分一人ならば悠々と向こう岸まで泳ぎ切ってこの死地を脱することができる。
甲冑を脱いで身軽な今の家康には、セラフィナを背負って激流の中を泳ぐことも容易かった。途中、足を奪われるとそのまま持って行かれそうな危険な地点もあったが、家康ほどの水術の達人ともなれば、そのような水中の死地をも見切ることができた。
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