第二話 01
「ブルルルルッ!」
セラフィナが目指す「エルフの森」へと至る領域外森林地帯の最深部。
後方から騎兵たちが猛然と追跡してくる最中、スレイプニルが突如として前脚を跳ね上げ、急停止していた。
「ちょっとちょっと、スレイプニル!? 急いで! どうしちゃったのよぅ?」
この、知能の高さで知られる一角馬の中でも特別に優秀な白馬は、優れた嗅覚によって察知したのである――前方に主君・徳川家康を害する獣が待ち伏せていることを。
茂みの中から意外なまでの敏捷さをもって家康たちに襲いかかってきた「それ」は、人間よりも遥かに大きな身体を持っていた。その姿は奇怪そのもの。白く巨大な、ぶよぶよとした肉塊。分厚い瞼に覆われた二つの細い目と、唇を持たない切れ込みのような口が、肉塊の表層部を泳ぐように移動している。さらにその肉塊からは指のない短い手足が二本ずつ伸びていて、獣はこの手足を器用に動かして恐ろしい速さで移動する。
家康の腰にしがみついていたセラフィナは「ぐえ~っ? 嘘だぁっ!?」ととんがり耳を震わせて青ざめていた。
「世良鮒、なにを怯えている?」
「イエヤスぅ、これは猛獣の中でももっとも厄介なスライムだよぅ!? スライムは柔肉で衝撃を吸収しちゃうの! 剣では斬れないの! 魔力耐性も異常に強くて、私程度の術士が『盾の魔術』で壁を展開しても貫通しちゃう! せめて術士が大人数なら……」
「とてつもなく危険な獣ではないか。お前、帰り道は絶対安全だって笑顔で豪語していなかったか?」
「だってえ~! スライムは希少種で、この一帯には生息していないのにぃ~! 往路ではスライムの気配なんて一切なかったのにぃ~!」
さらに背後からも、いったんは振り切ったはずの騎兵たちが迫ってきた。
「フハハハ! われらが、手ぶらでエルフの森の領域近くまで来たと思うか?」
「魔術も剣術もほぼ利かぬ、戦士殺しの猛獣スライム。斥候中の要地にこやつを配置することで、邪魔者の退路を断つ! それがわれら斥候部隊のやり方よ!」
「どうする、勇者よ? 進退窮まったな、大人しく降伏するか?」
「われらは枢機卿猊下より、勇者は見つけ次第捕らえよと命令を受けている。勇者よ、貴様が降るのならばエルフの娘は見逃そう! モンドラゴン皇国に忠誠を誓う騎士として約束する!」
「あわわわわわ。どうしようイエヤスぅ? 皇国はエの世界から来た勇者は異教徒だと信じているの。降伏したら宗教裁判だよ! だから降伏しちゃダメ! でもでも、いくらイエヤスが剣の達人でも、剣士殺しのスライムには勝てるかどうか……相性最悪ぅ!」
絶体絶命の危地。前門のスライム、後門の騎兵たち。窮地に立たされた今、親指の爪を馬上で噛みながら家康は頭脳を高速回転させた。
瞬時に、「どの選択肢を選んでも危険だ」というなかなかに絶望的な回答が出た。
「皇国だか教団だか知らんが、宗教裁判は地獄への一本道。降伏すれば俺の命運は尽きるだろう。ついでに、世良鮒が見逃してもらえる保証もないと思う。たぶん、ない」
「イエヤスぅ? 私が云々って台詞は明らかに付け足しよね? 全然心が籠もってないんですけどっ? よーし! こうなったら、スライムを倒して正面突破しようよぅ!」
「……お前はさっき、この獣には剣が通らないと言ったばかりではないか」
「だいじょうぶだいじょうぶ! イエヤスってば慎重過ぎるんだよ! 誰も見たことのない美しい剣を振るう伝説の勇者様なんだから、いけるって!」
なんという無根拠な安請け合いなのだと家康は呆れたが、手練れの騎兵軍団と戦うよりは、一体のスライムを倒して血路を開くほうが生存確率は上がる。
慎重を期して長考したいところだが、ここは戦場。これ以上悩んでいる暇はない。
渋々ながら、家康は「やるしかいないな」と決断した。
この、勇者と呼ぶには慎重過ぎる戦国の覇王は、こういう絶望的な死地に陥った時に開き直るや否や、恐るべき蛮勇を突如として発揮する――こともある。
「ならば、わが神剣ソハヤノツルキで切り刻むまで。唐竹のように一刀両断できずとも、地道に連撃を重ねて一枚ずつ肉を削り続けていけば最後には消えてなくなるはず!」
「待って待って! スライムには再生能力があるんだよぅ、肉の表面をちびちび削ってもすぐに再生して復元しちゃうの!」
再生能力!? 見覚えがある姿の獣だと思っていたが、そうか! 家康は俄然、「なんとしてもスライムを倒す」という断固たる闘志をかき立てられた。
「速度の勝負だ。世良鮒よ、須霊不死竜を頼むぞ。後方に壁を展開して騎兵たちを阻み、時間を稼げ。俺は、妖怪ぬっへっほうを倒してくる」
「え、ええええ? イエヤスぅ? ぬっへっほうってなに? そいつはスライムだよ?」
「俺を信じろ。ひとたび約を交わした以上、俺はお前を必ずえるふの森まで送り届ける」
「やだ、かっこいい!? なんて真剣な眼差し!? 私のためにそこまで……?」
「行くぞ、ぬっへっほう! 今度こそはうぬを微塵に切り刻んで、絶対に捕獲する!」
「ねえねえ、イエヤスぅ? だからさー。ぬっへっほうって、なに~?」
くわっ! と家康が目を見開いていた。別人のように興奮し、白眼が血走っている。
「俺が前世で手に入れ損ねた、仙薬の原料となる獣だああああ! この異世界ではすらいむと呼ばれているらしいが、俺の世界ではぬっへっほうと呼ばれていた! オットセイの陰茎以上の強力な薬効を持つ、伝説の薬剤なのだああああ!」
「ひぃっ? 突然イエヤスの目つきが野獣の眼光にっ?」
「俺はずっと悔いていた。もしも慎重さをかなぐり捨ててぬっへっほうを捕らえていれば、俺は百年は生きられたのだ! ここで出会ったが百年目、うぬの肉を食して万力と長寿を得てやるっ!」
「えーっ? ちょっとーっ? もしかして私のために戦うのは建前で、動機は私利私欲っ? 健康が欲しくて命を賭けるの~?」
『一宵話』にいわく、慶長十四年四月、天下人にして大御所の徳川家康が暮らしていた駿府城内に、奇怪な小児のごとき姿の「肉人」こと「ぬっへっほう」が出現したと記録されている。
ぬっへっほうは、指のない手で天を指しながら駿府城の庭園に立っていた。ぬっへっほうを発見した家康の家臣団は「すわ妖怪」と慌てたが、慎重極まる家康は「山の中へでも追い出しておけ」と命じてぬっへっほうを駿府城から丁重に追い払ったという。
後に、家康に謁見したある学者が「それは唐国の『白沢図』に記述されている『封』でしょう。封の肉を食せば万力を得られ、武勇優れる者となれたのに、惜しいことですな」としたり顔で嘆いてみせたという。
実は家康は、このぬっへっほうは「封」だろう、滋養に満ちた封の肉を喰らえば老化して衰えた体力を大幅に回復増強できると察してはいたのだが、「しかしこれは獣というよりは妖怪。万が一に毒であったらなんとする」という慎重さが勝り、目の前にぬっへっほうを立たせていると「食って力を得たい」と暴走してしまうだろう自分自身の飽くなき健康への欲求を恐れて、やむを得ずぬっへっほうを城外へと追い出したのだった。
だが死の間際に、家康は激しく後悔した。あの時に蛮勇を奮ってぬっへっほうの肉を囓っていれば、俺は百歳まで生きられたかもしれぬものをと。
七十四歳の年に大坂城を陥落させて天下太平の世を実現し、やっと数々の重荷から解放されて自由人となった家康が病で死ぬまで、僅か十一ヶ月。七十四年の労苦と十一ヶ月の見返りとでは、あまりにも割に合わないではないか!
(俺はもはや静かに眠りたいが、もしも来世がほんとうにあるのならば、ぬっへっほうを絶対に捕らえてその肉を食い長寿を得る! そして、次こそは自分自身の人生を満喫するのだ!)
「ぬおおおおおお! 燕飛六箇之太刀、無限連弾! 猿飛! 猿廻! 山陰! 月影! 浮舟! 浦波! この六連技を、うぬが粉みじんになるまで何度でも繰り返す――!」
「ぴいい、ぴいいい」
「ぬう。まるで手応えなしとは。宙に吊されたこんにゃくを日本刀で斬るのは至難と宗矩から聞いてはいたが、誠だったか!」
「イエヤス、無理だって! 無理無理無理無理い~! 斬っても斬っても薄皮一枚ずつしか削れないじゃんっ! どんどん再生されちゃってるじゃんっ! 全くダメージが通ってないよぅ~!」
「黙って壁を張り続けていろ世良鮒! 俺は健康のためなら、死んでも構わんッ!」
「なにを訳のわからないことを言ってるのよう?」
斬った。何度も斬った。この異世界の濃い空気を肺へと取り込みながら、家康は舞を舞うが如く全力で神剣ソハヤノツルキを振るい、スライムを斬り続けた。
だが、薄皮を切っては再生される。同じことの繰り返しで、全く勝機が見えない。
ただ想定外だったのは、この異世界の空気は激しい活力をイエヤスの五体に与えてくれる故に、いくら剣を振るっても息が切れないし、酷使している筋肉にも消耗感がない。
(世良鮒は魔術に空気を用いるようだが、俺を追っている人間の兵士たちにはそういう真似はできないらしい。どうやら、勇者として召喚された俺だけが、人間でありながらこの濃い空気の恩恵を得られるようだ。これが勇者職特典のひとつなのだな)
と、家康はスライムを斬りながら確信していた。しかし。
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