第一話 02

「……ううむ。またしても見知らぬ世界に飛ばされたか……」

 家康が再び気づいた時には、周囲は見渡す限りの森林。当時の日本のどの医者よりも薬学・植物学に精通した漢方医学大博士の家康をもってしても、見たことのない新種の植物が蒼天を覆うが如く生い茂っている。

 さらには奇怪な鳴き声を発しながら、青空を飛び交う怪鳥たち。

 地を這い森に潜むは、猿とも狐ともつかない面妖奇怪の野生動物ども。

 そして、家康が経験したことのない湿度。なんという濃厚な空気。

 小川の清流を覗き込むと、そこには老いた晩年の家康ではなく、若者の顔が映り込んだ。

「うん? 俺はなぜ若返っているのだ?」

 今の家康は老人時代とはまるで別人の青年武将。しかも「桶狭間の合戦」の折に着込んだ、黄金に輝く金陀美具足で全盛期の肉体を包んでいる。五体には今まで体感したことのない「力」が漲っていた。この世界の濃厚な空気を肺から吸い込むことで、全身が活性化されるようだ。勇者職特典という奴だろう。

 しかし家康はそれで安心するような性格ではない。どこまでも慎重かつ徹底した現実主義者だ。「人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くが如し」という言葉が彼の口癖。ありとあらゆるリスクの可能性を想定し、徹底的にリスクを回避しあるいは潰していく「生き残り特化型」武将である。そこに英雄らしさや爽快さなどは皆無で、苛烈かつ劇的な生涯を駆け抜けた織田信長に人気面で到底及ばないのも道理だった。

「俺自身が処方した八ノ字(八味地黄丸)よりも、この空気は効く。吸うだけで五体に力が漲る。だが毒性がないとも限らん。呼吸は最低限に。まずは情報を収集し、身の安全を確保する。次に水と食糧の確保。最後に、薬草を選別採取して漢方薬を作る」

 森の奥に分け入れば、虎や熊の如き猛獣が襲いかかってくるとも限らない。家康は幸いにも生前枕元に置いていた神剣ソハヤノツルキを腰に帯刀していたが、弓も槍も所持していない。武士にとって剣での近接戦闘は最終手段で、本来は間合いが長い弓や槍で戦うのだ。種子島(鉄砲)があれば遠隔距離から猛獣を仕留められるのだが――。

 実は徳川家の男には、蛮勇の血が流れている。若い頃の家康は、酷く短気で感情を抑えられない暴れん坊だった。そんな勇猛果敢な本性を生まれ持ちながらも、幼くして人質に出され、さらには誘拐されて敵方に売り払われることから人生をスタートさせられるという厳し過ぎる環境が、家康に過剰なまでの「慎重さ」を付与した。

 もしも家康がこの時、周囲の探査中に誰にも出会わなければ、彼は森の奥深くに隠されている洞窟をねぐらと決めて、何十年も野生生活を過ごすことになったかもしれない。

 しかし、運命の女神は家康に「森での孤独な自活」を許さなかった。人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くが如し。とりわけ家康の人生はそうだった。異世界においても。


「ああああなたたち、私を誰だと思ってるの? エルフ族の王女セラフィナ・ユリちゃんだよ? 今日は長老様のために薬草を摘みに来たんだよ? わわわ私に危害を加えたら人間とエルフとの間で全面戦争だよ? ぶぶぶぶ無礼者、通しなさいよぅ~!」

 丘の上だった。薄い絹のような素材の衣服に身を包み、手に長い杖を握りしめた、まだ十代の若い娘が震えながらも健気に大声を発していた。長い髪は輝く金色で、肌が透き通るように白い。人形のように整った目鼻立ちは家康に(南蛮人? それとも紅毛人か?)と異国人を連想させたが、どうも違う。なぜならば、耳が奇妙に尖っている。衣装の形状も、家康が見たことのない珍妙なものだった。この娘は未知の国の人間だ、この世界では動植物だけでなく人間の性質も違うのか、と家康は目をしばたたいた。

「なぁにがエルフ王女だ。いいかいお嬢ちゃん、エルフの国なんてもうとっくに滅びてんだよ。かの大厄災戦争で魔王軍に王都を無様に落とされた瞬間になーっ!」

「今や、この大陸は魔王軍を追い払った俺たち人間様のものになったんだよーっ! エルフは先祖伝来の森に籠もって滅びを待つだけなんだよーっ!」

 少女を囲んでいる男たちは、みな二十代から三十代といったところ。めいめいが南蛮風の鎖帷子や兜を身に帯び、右手には槍を、左手には鉄製の盾を装備している。彼らもまた南蛮人のような風貌だった。戦士らしく肩や背中の筋肉が発達しており、肌のあちこちに戦傷が見える。だが、装備が統一されていないし、規律を守るつもりもない。森で遭遇した娘を取り囲んで言葉で嬲るなど、まっとうな武士ではなかろう。ならず者あがりの傭兵集団といったところだな、と歴戦の家康は即座に判断した。

「くっ……違うもん! 私たちの王都は無様に落とされてなんていないもん! 果敢に魔王軍と戦ったんだもん、父上も国防長官たちも! 私たち若いエルフの世代に復興の希望を託して――あなたたち人間が、魔王軍から奪った王都をエルフに返還せずに不法占拠し続けているんでしょ~!」

「不法占拠? 実力で奪ったものをタダで返すお人好しじゃねえんだよ、俺らの王様はよ。なあ相棒。ここで慰み者にするのもいいが、王女ならば高値で売れるぜ! 捕らえて奴隷として売り飛ばそうぜ!」

「一人ぼっちでエルフの森の境界を越えてくるなんてよー、ほんとうに王女かどうか怪しいもんだけどなーっ!」

「バカだなあ相棒。その世間知らずさがガチっぽいんじゃねーかよ。よほどいいところのお嬢さんなんだぜ、こいつ」

「ま、美人だし、銭にはなるよなーっ! ただし……味見はしていこうぜ、この場でよう! 教団の勅書によって今やエルフは亜人に落とされたんだ、もう人間じゃねえんだ!」

「そうだな相棒! 人間じゃねえんだから、どう扱おうが構わねえよなあ!」

「……ちょ、嘘でしょ? えええエルフ狩りをする人間の傭兵や野盗がいるとは聞いていたけれど、ほんとうだったなんて……なにが亜人よぅ! も~怒ったあ! 私は戦うのは苦手だけれど、自分の身ぐらいは自分で守れるんだからっ!」

 エルフと呼ばれている耳が尖った少女が、杖を掲げて短い呪文を詠唱した。

 この時の家康には、この異世界の知識がない。故に(妙な棒術だな)と首を傾げたが、彼女は「魔術」を用いたのだ。この異世界には、魔力を用いる魔術の使い手が存在する。少女もその一人だったのだ。

「術式展開! 『盾の魔術』!」

 杖の先端が輝きを発し、少女を守るかのように空中に半透明のドーム状の「壁」が展開しはじめた。だが、傭兵たちは戦い慣れている。一斉に四方から槍を突いて、壁が完成する前にその隙間を強引にこじ開け、魔術発動を防いでしまった。

「嘘っ!? あんなに練習したのにっ? やっぱり私には『治癒の魔術』しかまともに使えないのぅ? 私ってば、なんて甘かったの……って、そこで見物している黄金甲冑の騎士! さっきから葉っぱで身を隠して、なにを傍観しているのよぅ? 乙女を暴漢から守るのが騎士の勤めでしょっ? さっさと助けなさいよぅ!」

「……しまった。光が反射して漏れていたか。やはり黄金の金陀美具足は、陰形には向いていない」

この時家康は、「戦場ですらないのに娘攫いとはなんと愚劣な連中だ、武士の風上にもおけん」と呟きながら、巨大な葉を数枚引きちぎって隠れ簑に用い、大木の幹に身を潜ませ気配を消して、丘の上で起きている事態を観察していたのだった。


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