転職戦線漂流記

ダックロー

第1話

「転職戦線漂流記」


今これを書いている現在、私は四七歳になっている。

実家の母親から言われるのが、

「ずっと同じ会社におったら今頃役職の一つでもついてるやろうに、

ほんまあほやなぁ」

そう、今までに七回も転職さえしてなければ、最初に入った会社にそのまま在職していたなら、今頃少なくとも課長クラス、もしくは地方の事業所の所長くらいにはなっていただろうか。

けど、そうはいうものの、今まで歩んできた道は、自分が選び取ってきた道は、それが必然だったのだ。今でもそう思っている。後悔はしていない、と。


私は高校を卒業し、愛知県にある愛知教育大学で学生生活を過ごした。実家は当時石川県にあったので、親元を離れて愛知県でひとり暮らしをしていた。実家の親からは事ある毎に「ウチは裕福じゃないから私立大学なんか行かせられん」と言われていたので、国公立大を受験せよ、というプレッシャーを感じていた。

しかし、冒険心の強かった当時の私は、何とか一人暮らししたい、親元を離れたいと切望していた。そこで考えたのが「新聞奨学生制度」というものを使って、生活費を自分で稼ごう、という作戦だった。自分で各新聞社から資料を取り寄せ、説明会にも足を運んだ。結局選んだのは毎日新聞の奨学生制度だった。

今でも毎日新聞を選んで正解だったと思えるのは、朝日や読売に比べ配達する部数が少なくすむこと、走行距離が長くなるので自転車ではなく、原付(スーパーカブ)を使って配達できること、などが良かった点。

朝3時起きで朝刊を200部くらい配っていた。そして夕方の夕刊配達、広告の折り込み作業、そして毎月の集金。休日は基本的には月一回の休刊日のみで、休みはほぼ無かった。けど、専門学校生など、同年代の学生が一緒の販売店に複数いて、彼らとも仲良くしていたので孤独を感じず、仕事に厳しかった販売店の店長さんへの愚痴を言い合いながら、何とか4年間続けることが出来た。

こういうバイトをしながら大学生活を送っていたので、他の学生たちみたいに泊まりの旅行とか、色んな形式でのコンパなどはほとんど参加できず、禁欲的にならざるを得なかった。このまま大学を卒業するのは何か物足りない、と感じていた。高校時代から海外留学にあこがれを抱いていた私は、大学では中国文化を専攻していたこともあって、卒業したあとは中国に留学することに決めた。4年間の新聞配達ならびに卒業したあと中国に出発するまでの半年間でのアルバイトした資金を基に、1年間の中国語学留学を敢行した。

一九九七年九月から一九九八年七月まで、中国山東省で留学生活を送り、帰国後は京都在住の親類宅に住まわせてもらって関西で就職活動を始めた。九八年ごろの就職戦線は氷河期と言われるほど求人数が少なかったように思える。企業の合同説明会に足を運び、中国留学経験を生かせそうな商社などに絞ってアタックし続けた。求人数が少ないなかで不採用通知を数多く受け取ったが最終的には静岡県に本社がある食品商社、TD社から内定をもらうことができた。

T社は一般的には知名度は低かったが年商規模は一〇〇〇億円以上、国内五〇か所の営業所を有する、業界内では大手といえる存在であった。三月末に静岡本社の近くで研修が行われた。同期入社は三〇人程度いた。みんな営業職での採用だった。しかし、最初の赴任先は全国五〇か所もある営業所のどこに行かされるか分からない、という点で共通の不安を抱いていた。一応、アンケートのかたちで希望する赴任地を書いて提出することになっていたが、ほとんど聞いてもらえないという噂だった。私は第一希望地には当時付き合っていた彼女が住む近くの名古屋営業所そして第二希望に実家の近くだった京都営業所、と書いた。

研修が終わる前日の夜に、赴任先の発表が行われた。私の赴任先は…大阪と発表された。名古屋じゃなかったことに少し落胆したものの、大阪~名古屋間ならまだ行き来するのに

比較的近いと思い直した。

大阪での仕事が始まった。スーパーや外食を担当する量販部門と食品メーカーを担当する加工食品部門とに分かれており、私は後者に在籍することになった。

仕事内容は担当する食品メーカーに原材料を卸売するのが主で、新人だった私は三〇社くらいの得意先リストを渡され、社用車を使って営業に廻った。新入社員はまだ商品知識もあまりなく、営業トークもたどたどしい中で既存の得意先を訪問しなければならない。ただ、渡された得意先の訪問だけでは時間が余ってしまう為、新規の得意先開拓も積極的にさせられた。出先で電話ボックスを見つけてはタウンページの「食品加工業」などのページを開いて住所をメモし、それらをみながら地図に印をしてその日の訪問先を決めたりした。

ある時、年齢の近い先輩から言われて、

「倉庫にある三〇㎏袋の砂糖を社用車に何袋か積んでいって、新規回りをして来い。全部売れるまで帰ってくるな」

と言われ、半泣きになりながら街中の和菓子屋さん、ケーキ屋さんなどを廻りまくったことがある。朝早く出て二〇件以上は廻ったけれどなかなか買ってくれない。夕方七時すぎに諦め気味に入ったパン屋さんでやっと買っていただいた。悲壮感漂う私の表情にいたたまれなくなった、と店主さんは云っていた。

大阪に来て最初の四年くらいは、仕事に楽しみを見出すことはできずにいた。失敗も多く、一度思い詰めて頭を丸刈りにして反省の意を示したこともある。営業成績も先輩からの評価も芳しくなかった。

入社して五年目くらいに、同じ所内の先輩や後輩が多数相次いで退社してしまった。厳しい仕事への姿勢で知られる当時の所長のやり方に反発したり、ついていけないと感じたり。理由は様々だった。私自身もまだ自分の仕事に自信が持てず悩んでいた。そんな状況の中、自分が担当していた得意先の中で懇意にしてもらっていたA社長に相談に乗っていただいた。TD社を辞めて、社長のところで働かせてください、と。しかし、あっさり断られた。このときの話の中でA社長からは、

「周りの状況に流されすぎてはダメだ、自分がどうあるべきか、なんだ」

といったことを言われた。この言葉がひ弱だった当時の私の心に鋭く響いた。もっと強く生きなければいけない、と思い直した。少なくとも辞めていった人たちに負けるわけにいかない、と。

次の日から明らかに仕事に対する姿勢が変わっていったと記憶している。このとき二九歳になっていた。劇的に営業成績が右肩上がりになったわけではないが、所内の先輩からも「最近変わったな」と言われるくらいだった。この頃、先輩に声かけてもらった中で、

「お前は打てば響くから大丈夫だよ」とか

「君は普段はおとなしいやつだけど、内にすごく熱いものを秘めているな」

とか言われたことが非常に励みになった。それ以前は箸にも棒にも掛からんヤツと烙印を押されていたから、そうやって褒めてもらえるのは新鮮だった。

そんなこんなで入社六年目のとき、異動を言い渡された。赴任先は鳥取県の境港だった。地方都市の小さい営業所ではあったけど、前任者が自分よりはるかにキャリアのあるI先輩の後任としての赴任だったので、非常に意気に感じて境港に向かった。大阪営業所の所長は鬼のように厳しかったけど、当時の境港のK所長はフレンドリーな方で営業所の雰囲気もアットホームで緩かった。殺伐としていた大阪営業所と比べると、パラダイスのようだ、と感じた。

又、大阪では売り上げにあまり影響がない取引金額の少ない得意先ばかり担当していたが境港では主力級の得意先を何件も持たされた。境港での仕事はとにかく忙しく思えた。新規業者を開拓する余裕などなく、既存先のフォローで手一杯だった。けど、それが心地よい疲労感だった。

当時すでに結婚していて一歳になったばかりの息子を連れての山陰での生活は楽しかった。自然豊かで食べ物がおいしく、人込みも渋滞も満員電車もない地方での生活にすぐに魅了された。

大阪時代はほぼ皆無だった国内出張の機会も増えた。また大きい案件もタイミングよく得意先から任せてもらえたりした関係で、海外出張(中国)も行かせてもらえるというチャンスに恵まれた。

もちろん全てが順風満帆ではなくて、胃が痛くなるような思いもあったり、少し図に乗って飲みの席で大口を叩いて先輩から信用なくしたり…いろいろな経験を積んで境港での業務も五年ほど経過していった。

仕事は順調だったけど、今の会社にいる限りは平均して五年周期で国内の営業所を転々とするいわゆる転勤族としての生活を続けるのか、疑問を抱くようになった。今の延長線上だと、子供の成長過程で中学~高校にあがる時期に途中から家族と離れての単身赴任となることは必然だった。それよりも家族と一緒に生活し続けるほうがいいのでは、という考えが強くなってきた。それに加えて、昔から私は農業分野に興味を抱いていて、近い将来必ず日本の食料自給率を上げるために第一次産業が見直される時代がくる、そこに身を投じるのもいいかな、という思いが胸の内にあった。

アクションも起こした。大阪あたりで開かれる就農に関する説明会に参加したり、愛知県の渥美半島にある観葉植物栽培農家さんに話を聞きに行ったり、岡山県の就農支援の取り組みを調べたり。中でも岡山の久米南町にあるブドウ畑管理者募集の求人に応募して、妻と共に面接を受けに行き…あと一歩でブドウ農家になるところまでいった。

そんな私の動きを見ていた、メイン取引先、T社のA部長が見かねて

「そんなに農業がしたいのなら、うちの会社に来て週末に畑いじりする生活を始めたら?」

と云ってくださった。A部長とは海外出張を共にしたり、信頼しあえる間柄でもあったので、A部長と一緒に仕事できるのであれば安心だ、とその提言を前向きに考えだした。

結局私は一二年間務めたTD社を辞めてT社に転職した。今から思えばあっさりと思い切ったことをしてしまった、と思う。転職のみならず、T社に転職するなら近くに家族が住まう住居を、と倉吉市に新居まで建ててしまった。

T社は社歴の長い土産菓子製造メーカーだったが、私は新規事業(OEM製造など)を担当する企画営業を任された。直属の上司はA部長で部長のサポート業務も多かった。

しかしT社での仕事は私にとっては退屈なものだった。前の会社にいたときは日々目まぐるしく動いていたが、T社では担当先顧客を任されているわけではなかった。日がなPCの前に座って何をするでもなくたまに開発担当者の試作を手伝ったり。課長職として迎えてはくださったのだがすることが本当になかった。イライラは募っていった。

そんな日々の中で「自分は飼い殺しにされている」と感じるようになり、もっと仕事ができる職場は無いものか、と考えるようになった。

ある日、付き合いのあった大阪にある小さな輸入商社のM社長を訪ねた。私を雇っていただけませんか?と打診した。するとM社長は、ウチは余裕ないからもっと大きい会社を紹介してあげる、と冷凍食品大手のN社の役員の方との面談をセッティングしていただくことになった。N社との面談は順調に進み、早々に内定の報告がきた。しかし問題はN社の東京支店に赴任、との条件だった。家族を倉吉に残して東京に行くのか…けど私の気持ちは東京へと向いていた。給料など条件面の良さも私の心を後押しした。T社には結局一年一〇か月の在籍期間だった。

N社は売り上げ規模こそ私が最初に在籍したTD社に及ばないものの取引先は大手コンビニエンスストア、生協、大手外食、大手量販店などなど。仕入れ先は世界各国、取組先はM物産やI商事など…と食品業界の最前線をリードしているような企業だった。各部署のスタッフも国内外問わず飛び回っている、華やかな職場に見えた。職場には…スキーム、ベンチマーク、マター、プロパーといった今までの職場ではあまり使わなかったカタカナ英語が飛び交っていて、やや場違いなところに来てしまったかも?と少し気おくれした。

私は早速何社か担当先を持たされた。中堅ファーストフードチェーン、アミューズメント施設、大手居酒屋チェーンなど。T社にいたときと違った、仕事ができる喜びを久しぶりに味わう思いだった。職場の同僚の方との関係も良好だった。ただ、毎朝の満員電車での通勤は苦痛だった…

東京での単身赴任生活、残してきた家族には悪いが、最初は目いっぱい羽を伸ばした。休日は好きな映画を見に行ったり、電車に乗っていきたい所をまわったり、好きなアーティストのコンサートに行ったり…

しかし思わぬ落とし穴があった。あるとき、所属する部署の部長に呼ばれて、ちょっとしたことで説教を受けた。色々言われて最後に

「だからお前は誰からも信用されないんだよ」

と言われた。思ってもみない一言だった。そうなのか?周りの人たちとはうまくやっていたつもりだったのに、果たしてそうなのか?こんな一言で大きく動揺してしまった。家族と離れての一人暮らし、で張りつめて少し無理していたのかもしれない心の糸が切れてしまったかのように、心に力が入らなくなった。

それからは何かと疲れやすくなったり、営業まわりが苦痛に思えてきた。この頃初めて心療内科に通いだした。

そして、月イチで飛行機に乗って倉吉に帰り家族と会い、週末のわずかな時間を共にしてまた東京にトンボ返り。こういう生活を何十年も続けていける自信がなくなっていった。

倉吉に長めに帰省した八月の盆休み。私は松江にあるA社のA社長と会っていた。最初に勤めていたTD社の競合先でもあるA社ではあるがA社長とは年代が近いこともあり個人的には繋がりがあった。東京から引き揚げて松江のA社に入って、松江に単身赴任しようと考えた。東京~鳥取間の遠さとは比べ物にならないくらい近いし、家族との時間も作りやすくなる、という思いだった。東京生活はわずか一年で幕を閉じた。

A社に入社した。倉吉からは車で二時間…さすがに通えないのでやはり松江市内にアパートを借りた。A社長も私のことを思って厚遇していただいた。仕事内容はTD社にいたときとそう変わらないはず、と踏んでいた。しかしそれは間違いだった。

前任者から引き継いだ担当得意先の数が六〇件ほど、残業も多く、土曜日はトラックに乗って配送業務を担当する…自分にとっては激務だった。前任者と一緒に引き継ぎに廻っていたとき、S社という私がTD社にいたときに担当していた企業に訪問したときのこと。応対にでてきたA常務とは一緒に中国出張した仲、再会を喜んでくれるかと思いきや、そうではなかった。訪問したあとから私の携帯にA常務から連絡がきた。

「あなたは何て早まったことをしたんだ。私はA社のことを全く信用していないし、いくらあなたが担当してもA社からは何も買えない。あなたはA社にいい情報だけを吸い上げられて捨てられるのがオチだ」

ショックだった。S社をはじめ、以前の人脈を使って売り上げに貢献できるという私の考えは崩れた。

A社での激務やこんなに多くの得意先を渡されて営業成績をキープさせる自信がない、と思い悩むようになってこの頃から不眠症に悩まされるようになった。一睡もできずに仕事に出ることはざらだった。東京で顔をのぞかせた精神的不安が徐々に大きくなっていった。

A社長にこのことを相談すると、社長はあっさり

「それじゃ、仕事にならんね。倉吉に帰りなよ」

と云った。A社長は仕事に関してはドライなひとだった。そして私に対して失望したのだろう、会社で借り上げているアパートから早く出るように、と言い渡された。

それからは地獄だった。前任者から引き継いだお客さんに今度は間髪おかずに後任の担当者を連れてまた引き継ぎに廻る、というとにかく恥ずかしい思いだった。

A社を退社しても、次の仕事はまだ決まらなかった。一旦倉吉に戻ってハローワークに通うことにした。賭けだった。

ハローワークの求人票には食品業界の求人は少なかった、そんな中で自分の営業経験を生かせそうな企業のものを見つけた。

U水産、境港市にある水産加工会社。倉吉からだと車で一時間半かかる。ハローワーク担当者からは通えますか?と訝しげに尋ねてきたが、大丈夫だろうと答えた。面接をしてもらい、採用された。TD社での経験を買っていただいた格好だった。

とにかく仕事しなければ、とう思い一点で遠くの会社に通い始めた。工場での研修が一か月近く続いた。しかし入社2日目からふたたび夜が眠れなくなった。工場に立っている自分の姿が何かやるせなく感じた。どうしてこんなことになったのだろう、という思いに包まれた。

心療内科に通いながら境港まで通った。大阪の得意先にも出張し営業業務も行った。けど、この頃精神は限界に近付いていた。朝、早い時間に家を出て一時間半かけて車で通勤するのがとても苦痛だった。睡眠不足のため運転中眠気がおさまらなかった。途中何度もコンビニに寄って栄養ドリンクで気を紛らわした。会社でPCの前に座っているだけで苦痛だった。何度もトイレに立ったり、給湯室でコーヒー何杯も飲んだり。ある時、あまりに辛くて事務所内でぐったりとなり、しばらく休憩室で横になったり。

もう無理だった。U水産は二か月で退社した。

退社した当日の夜、突然全身が痺れる感じがして過呼吸状態に襲われ、胸が苦しくなり意識が遠のいていくようだった。妻や子供たちの目の前で

「死にそう、救急車呼んで」

と何度も呻いた。まだ小さかった子供たちは心配のあまり泣き出した。妻は必至で体をさすってくれた。何とか状態が戻った。本当にあのときは死を覚悟した。

しばらく仕事をせず、家で療養することとなった。この頃が一番ひどい状態だったときで、体を横たえることもできないので家の中じゅうをうろうろ歩き回るしかなかった。妻は淡々と内職仕事をしていたが内心はどんなだったろう。国保も年金も自己負担で払わざるを得なくなり、出費が嵩んだ。もう人生終わった、自殺したい、と毎日考えるようになった。離婚して妻と子供たちは妻の実家に帰ってもらって自分ひとり家のローンを抱えて生きていくしかない、と考えたりしていた。

毎日絶望的な気持ちを抱えて過ごしていた。病気がなかなか良くならないのである時、意を決して地元で一番大きな精神病院に受診に行った。そこで出会ったドクターは私のこれまでの経緯を丁寧に聞いてくれた。そして、双極性障害である、と見立てた。薬を処方してもらい、飲んでいるうちにだんだん病気は快方に向かった。それまで通っていた心療内科の先生とは合わなかったのか、精神病の治療は自分に合うドクターと出会うことが肝要だと知った。

U水産を辞めて二か月あまり、少し元気を取り戻したのでまたハローワークに通いだした。何社か履歴書を送ったものの、多い転職歴で敬遠されるのか、不採用ばかりだった。そんな中、でSP社という包装資材関連の企業の求人に応募した。面接に行くと、社長さんから

「あれ、クロダさんですよね」

と言われた。大分以前に仕事関連で会ったことを覚えていてくれたのだった。

M社長のこの記憶力のおかげで採用となり、SP社に入社することになった。

SP社は段ボールケースや包装資材を販売する会社で、訪問先の企業も業種が様々だった。採用してくれたM社長の思いに報いたいと、積極的に営業活動をおこなった。自分の得意な食品業界の企業を中心に新規開拓も行った。

SP社に就職して半年後、また精神病がぶり返してしまった。包装資材という自分の経験のなかった業界での業務が負担だったのか、新規開拓に頑張りすぎて疲れが出たのか、とにかくまた突然調子悪くなった。

まず物覚えが格段に悪くなりあちこちに忘れ物をする、運転に集中できず道をよく間違える、仕事する気力が沸かない…また仕事できない状態に逆戻りとなった。M社長と相談して、精神病院に入院することにした。

この一か月の入院生活のおかげでまた復活するのだが、私の席は既にSP社にはなかった。M社長は私はもはや営業では使えない、と判断し関連会社で取組始めようとしていた梨栽培のプロジェクトに私を据えた。梨の栽培なんてやったことが無いし自信がない、と思ったが道はそれしかなかった。

私の籍はSP社の子会社であるI食品となり、業務は梨畑の管理を任された。高齢化してやりきれなくなった梨畑の持ち主の方に作業の手順ややり方を教わりながら梨畑で作業した。

青空の下で袋掛けなどをしていると、気分が紛れた。外での単純な作業は精神的にはとても良いものだった。病気の具合はだいぶよくなっていった。梨の栽培管理をやりつつ、I食品の工場内での仕事の手伝いもした。

梨畑での仕事は二年ほどさせていただいた。結論から先にいうとまた精神病が悪さをして、二回目の入院となった。二年やってはみたものの梨栽培の仕事はやはり自分には無理だと悟った。儲けを出すほどにきれいで玉の大きい梨を作るには相当なノウハウや技術が必要であること、自然相手の仕事の難しさなどを痛感したからだ。

I食品にはいられない、と思うようになりまた転職を模索し始めた。今度は最初に転職したT社の元同僚で現在はコンサルタント業務を一人でされているYさんを頼った。するとYさんは、今コンサルタントしている企業を紹介してくれるとのことで、このとき紹介を受けたのが(現在も在籍している)S製菓ということになる。

S製菓はT社と同じ業界(土産菓子製造)であるのと、家から通える距離だということで自分にはとてもいい就業場所だと思えた。今までの知識や経験が活かせる場であった。最初半年ほどは製造現場での研修を行い、その後営業職に就いた。年商規模数億円の小さな企業で営業担当も私と社長二人しかいないし、色々な面で改善すべき点が今でも目にするが、何とかやっている。精神病の状態も落ち着いているのが何より。


このようにかなりの紙幅を費やして私の転職歴をつづってみた今から思えば反省すべきことばかり。もう少し熟慮して行動しなければならなかった局面だらけだ。

最初のTD社の頃に比べて年収はかなり下がり、現在は妻が働かないとやっていけないという暮らしぶりだが、精神的には今が一番充実しているといえるかも知れない。昔の高収入のころは年収に比例してプレッシャーやストレスも多かった。だからあの頃がすべて良かったとは思えず、今、色んな経験を重ねて様々なひとたちと出会ったことが今の私を形成しているのは間違いないところである。年収の高さと実感のある幸せとは比例すると限らないということ。ピーク時の半分以下の現在の年収ではあるが、当時より今のほうが心のゆとりは増えている。

東京在住の方と話しをしていても、地方での暮らしのほうがいろんな面で魅力的であると私は感じる。子供たちには習い事などはほとんどさせてあげられなかったけど、のびのび育ってくれて、長男は行きたい大学にも入学を果たすことができ、親としては感無量。うつ病がひどくて家に籠っていたときからすれば、今のこの充実ぶりが信じられない。だから人生をあきらめてはいけない、ということを広く訴えて筆をおきたい。


二〇二一年八月九日

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転職戦線漂流記 ダックロー @korochan

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