第6話 野口の洞察力
「ゴメンね、上井くん。多分、生徒会室へ急いどるところじゃと思うけど」
俺のカッターシャツを引っ張ったのは、野口だった。そう言えば野口とも、合宿以降はあまり会話をしていなかった。
「あれ、野口さん?ど、どしたん?このパターン、久々じゃけど」
少し俺は動揺しながら、足を止めて野口に向き合った。確かに最近は話せていないが、以前はよく俺の帰り際を狙って、突然カッターシャツを引っ張られていたものだ。呼び止められる時は、野口が悩んでいるか、俺が悩んでいるのを察した野口が俺を励まそうとしてくれるかの2パターンだ。
今は俺は悩みは無いといえば嘘になるが、深刻に誰かに相談したいほどでもないし…。だが野口は何かに勘付き、俺を引き止めたのだろう。
「上井くん、そこだともう少ししたら村山くんや新入部員くんが来るけぇ、丸見えじゃけぇ、ちょっと上まで来て…」
野口が、何故俺を引き止めたのか分からないまま、俺は屋上に続く階段の踊り場まで上がり、すぐには下からは見えない位置まで来た。
「じゃあ改めて…。どしたん、野口さん?あまり元気がないけど」
「…ううん。アタシは大丈夫だよ。でも、ねぇ、上井くん。本当の今の気持ち、隠してない?上井くんこそカラ元気じゃない?」
「へっ?」
一体何を察したのだろうか。
「俺?…隠しては…ないと思うけど」
「…あのね、アタシの考え過ぎかもしれんし、そうあってほしいけど…。なんか上井くん、部員のみんなに言いたいことを無理に抑え込んでない?」
「えっ…?」
確かに今日のミーティングでは、コンクール後の部活での部員の態度について注意しようと思ったのを、雰囲気が重くなり過ぎると思って引っ込めた。
コンクールの帰りに広島駅で勝手に途中下車した3人についても、本当はもっと厳しく注意したかったが、音楽室内が険悪な雰囲気になるのを避けたかったのと、3人のうち2人は俺の失恋相手ということが重なり、かなり本心をボカシて注意したのは間違いない。だがそんな俺の心中を、野口は一瞬で察したのか?
俺の表情が変わるのが分かったのだろうか、野口は我が意を得たりとばかりに話を続けた。
「やっぱり。上井くん、本当はコンクールの帰りに広島で勝手に途中下車した3人についてとか、コンクール後の夏休みの部活についてとか、もっと色々言いたかったんじゃない?」
野口はそう言って、俺の目を見た。野口に見詰められると、その目線は外せなくなる。俺の返事を待つ野口に、俺は答えた。
「野口さんには敵わないよ…。なんでそんなに俺の心を読み取れるん?」
「だって…。上井くんの目を見れば、何か本心は抑えてるな、なんてすぐ分かるよ」
「なんか…奥さんみたいやね」
俺は降参して、心中を話そうと思った。だが、俺が奥さんみたいだと表現したことに野口は照れてしまったのか、目線を俺から外して、少し照れたように下を向いた。
「いや…。…奥さんじゃないけどさ。…これまで上井くんにはアタシの悩みを聞いてもらったり、アタシがつい暴走したことをしても最後は許してくれたりしてさ。かなり上井くんを疲れさせちゃってるかも…って自覚があるんよ、これでも。じゃけぇね、これからはもっと上井くんの役に立てる女になりたいな、と思ってるの」
今度は逆に俺が照れてしまう番だった。
「そ、そんなこと言われたら、俺、勘違いしちゃうよ…。これ以上はヤバいから、本題を聞かせてほしいな」
俺は野口が醸し出す雰囲気に耐えきれず、俺を引き止めた件について話を進めたかった。
「別にヤバい話なんかしてないよ?上井くん、相変わらずオクテじゃねぇ。ま、それが上井くんらしいんじゃけどね」
「……」
「ほら、照れて黙っちゃう。その辺りが上井くんの今後の課題かもね」
「課題?」
「うーん、どう言えばいいかな…。次の彼女探しとでも言えばいいかな?」
「彼女?恋愛?まあ…モテない奴が無理して彼女を作ろうなんてしても、無駄だってことは既に理解しとるつもりじゃけど」
「だーかーらー!その恋愛のネガティブ思考はどっかに放り投げんさいって。誰かみたいに女子に嫌われとる訳じゃないんじゃろ?」
ん?誰かみたいに…って、誰のことだ?
「あの、野口さん。誰か女子に嫌われとる男子がおるん?」
「あっ、ついアタシも口が滑っちゃったけど…。まあ、上井くんなら秘密にしてくれるよね?…上井くんの元カノさんの彼氏よ」
「それって、まさか、おおむ…」
大村と言おうとしたところで、野口が大胆にも右手で俺の口を塞いできた。
「ダメ!そろそろ村山くん達が帰ろうとしてる音が聞こえた。聞こえちゃマズいけぇ…」
「そっ、それより、手…」
俺は口を塞がれながら、抵抗した。
「あっ、ごめん。咄嗟に…。ビックリしたよね、ごめんね」
「ま、まあ…」
その内、村山、永野、新村が話しながら音楽室から出て来て、村山が鍵を閉める音が聞こえたので、俺と野口は声を潜めた。
「…最後の人が音楽室の鍵を閉めるんですね。緒方中と同じじゃあ」
永野の声だ。
「そうなんや?まあ大体は上井が部長じゃけぇ、最後まで残っとって、鍵を閉めて職員室に返しとるんじゃけど、上井も生徒会が忙しかったりするけぇ、代わりに他の役員が鍵を閉めることも結構あるんよ」
村山が説明していた。
「そうなんですね。となると村山先輩は、なんの役員なんですか?」
「俺は会計。毎月部費を集めるのがメイン。一番滞納しとるんが、上井なんよのぉ…部長なのに。あとその他の雑務かのぉ。じゃけぇ、さっきみたいにコンクールの譜面を回収して元に戻したりもするんよ」
「へぇ〜」
「会計は2人おって、もう1人は……」
そんな会話が聞こえていたが、少しずつ会話が聞き取れなくなっていった。3人して職員室へ向かって行き、遠ざかったのだろう。
その間、俺と野口は階段の踊り場で息を潜めていた。
「もう大丈夫みたい。ごめんね、上井くん。突然口を塞いじゃって」
「あ、いや…。女子に口を塞がれるなんて、なんか変な気分じゃったよ」
俺は率直に、不思議な感覚になったことを告げた。女の子の手が自分の顔に…というよりは、口を塞がれたことに、不思議な気分になっていた。
「そう?アタシを、乱暴な女とか思ってない?」
「うーん、ちょっとだけ…」
「えー、ちょっとでも乱暴な女って思うたんじゃぁ。ショック!」
野口が泣き真似をするので俺は笑いながら、以前のようにフランクに話が出来る関係に戻れたことが嬉しかった、と告げた。
夏休みの合宿では野口との関係に一番神経を使うハメになり、その後もコンクールの当日、そして今日に至るまで会話はほぼゼロだったからだ。
「ハハッ、ええじゃん。俺は野口さんとこんな感じで話せる日が戻って来て、ホッとしたけぇね」
「あ、そ、そうよね…。ごめんね、重ね重ね。アタシが上井くんを苦しめてたと思うし…」
「ええよ。もう過ぎたことは忘れようよ!で、今日の本題じゃけど…」
「う、うん。あのね…」
「あっ、その前に…。村山のヤツ、俺が一番部費滞納しとるとか、今日入って来た後輩に言うなっつーの!あー、スッキリした!」
俺はちょっと村山にイラッときた部分を早々に吐き出せて、少し安心した。
「上井くん、さっき聞こえた会話で、イラッと来たんだ?ふふっ、多分、部費を集めるタイミングが合わんだけじゃろ?」
野口が少し首を傾げながら、俺のことを見る。だから女子のそのポーズには弱いんだって、俺…。
「まっ、まあね。村山が今日集金しまーすって言う時に限って、一銭も持ってなかったり。それを言い訳にしちゃ、本当は部長としてはいけんとは思うけど」
「でもちょっと遅れても、ちゃんと部費は払いよるんじゃろ?」
「当たり前だのクラッカー!」
「プッ、何言ってんの〜。…上井くんって、一歩下がって自分を殺して、そんなジョークを言って雰囲気を暗くしないようにするじゃろ。この性格って変わらないよね、きっと」
「じ、自分をこ、殺すって…」
「上井くーん、比喩だってば。これくらい、上井くんなら通じると思ったけどな」
「…分かってるよ。確かに、野口さんの言う通りだよね」
「ん…アタシの…想像が当たってる?」
「うん。俺の本音は、多分野口さんには全てお見通しのようじゃけど」
「じゃあ、最初の方に言ったアタシの想像が当たってるの?」
「その通り。本当はコンクールの後の夏休みの部活の、あまりにも脱力した雰囲気とか、ちょっと注意しておきたかったんよね…。全て終わったようなダラけた雰囲気で練習されても困る、って」
「やっぱり。上井くん、ミーティングでさ、2つ目はいいや、今日は止めとく、みたいなこと言って、言いたいことを引っ込めたじゃろ?アレがアタシには引っ掛かったんよね」
「そんな、野口さんの心に引っ掛かるような言い方、俺はしてたんかな」
「まあ、ね。アタシにはすぐ分かった」
「他の部員にも分かったりしとるかなぁ」
「うーん…。そうじゃね、上井くんがなんか匂わすような言い方した時はなんだろ?と思っても、すぐ今日入った2人の紹介に移ったじゃない?じゃけぇ、みんなそんなに気にもせず、すぐ忘れたと思うよ」
「そっか、それなら…いいや」
「いや、良くないよ」
「え、なんで?」
野口らしいな、と思いつつも、どういう意見が飛び出てくるのか、少し俺は身構えた。
「だって、上井くんは本当なら部員に、コンクールが終わったからといって、練習を怠けるな、サボるな、って言いたかったんでしょ?それはちゃんと言わなくちゃダメだよ」
「……」
「それに、広島駅で勝手に途中下車した大村くんにチカ、サオちゃんも、名前を出してもええくらいなのに!ってアタシは思った」
「…いや、名前は、出せないって…。その3人だと」
「どうして?他の部員の見本にならんといけん、副部長と会計の、役員3人だよ?いくら女子の2人が上井くんに因縁があるけぇって、遠慮しちゃいけんって」
俺は苦笑いするしかなかった。
「野口さんが言いたいことは分かるよ。俺がもっと遠慮なく、なんでも言えればええんよね?じゃけど…」
俺は言葉が続かなかった。しばらく沈黙が2人を包んだ。
先に声を上げたのは、野口だった。
「ごめんね、上井くん」
「ん?どうして?」
「結局アタシも、こうすれば良いのに、って言いながら、上井くんを悩ませちゃってる。上井くんに悩んでほしくないとか言っといて、逆になっちゃってるから…」
俺はしばらく考えてから、言葉を発した。
「…いや、それこそ野口さんは自分のことを責めないでよ。俺がもっとしっかりした部長なら…。コンクールの後も部員がグダグダになることもなかっただろうし、打楽器の1年が一気に辞めることもなかっただろうし…。3年の先輩に陰口叩かれるようなこともなかっただろうし…。大体フラレた相手が2人もいて話せない状態なのに、部長になろうとしたことが間違いだったのかもね。部長に相応しくないかもしれんね、俺は…」
「ちょ、ちょっと!上井くん、何を言ってるの?今の、この吹奏楽部を他の誰が引っ張れるの?上井くんしかおらんってば。上井くんこそ、そんな自分を責めないでよ」
野口は薄っすら目に涙を浮かべていた。
「ごめん、本当にごめんね、上井くん。アタシ、上井くんを責めたかったわけじゃないの。自分を殺さずに、遠慮なくもっと思ってることを発しないと、上井くん自身が潰れちゃうって思ったから…」
「ありがとう、野口さん。まあ、2学期が始まったばかりで、部長が暗くなっちゃいけんよね。かと言って、ナアナアで終わらすのも良くないし。…うん、もっと自分改革に取り組んでみるよ」
「自分…改革?」
「まあカッコ付けとる自覚はあるけどね。もっとポジティブシンキングでいかなくちゃ、ってこと!そうじゃないと…野口さんに指摘されるだけですぐ落ち込む、そんな自分が嫌なんよ」
「あ、うん…。アタシも上井くんを困らせようとして言ったわけじゃないの。これだけは信じて?」
「信じるよ。色々あったけど、野口さんは吹奏楽部の同期の女子で、一番本音で付き合ってきた関係じゃん。じゃけぇ、夏休みまでのようなことはしないし、さっきついネガティブな自分が出たけど、それも封印して…。とにかく、見ててほしい」
俺はちょっと部活運営について良いことでも悪いことでも指摘されると塞ぎ込む性格をなんとかしようと決意を固めた。
「上井くん…。アタシは上井くんの味方じゃけぇね。いつでも相談相手になるけぇ、上井くんの手が届かない所があれば、アタシが代わりになる」
「その気持ちだけでも嬉しいよ。ありがとう、野口さん。じゃ、ちょっと生徒会室に行かんといけんけぇ、ごめんね、ここで…」
「うん。応援してるよ」
「ありがとう〜」
俺は階段の踊り場から駆け下り、取り敢えず生徒会室へ向かった。
背中に野口の視線を痛いほど感じながら…
<次回へ続く>
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