第58話 ー合宿最終日・前田先輩の大胆な行動ー

 昭和62年の夏休み合宿も無事に終わり、俺は最後に話をする約束をしていた、前田先輩が待つ下駄箱へ向かった。


「前田先輩、お待たせしました!」


「上井君、忘れてなかったね。良かった〜」


 ちょっと汗をかいた前田先輩が微笑んでくれた。

 荷物は下に置き、ハンカチで汗を拭いながら、俺を待っていてくれた。少し前なら考えられないシチュエーションだ。


「どうしましょうか、先輩。ここで話します?歩きながら話します?っていっても先輩のご自宅は廿日市の方ですよね」


「そうよね。上井君とは真逆じゃけぇ…。校門の横のベンチにでも座ろっか。丁度木陰だし」


「そうですね。じゃ、ちょっと移動して…と」


 俺は大荷物を持って移動し、ベンチに前田先輩と並んで座った。


「クスッ、上井君、荷物が大きすぎない?何がそんなに入ってるの?」


 俺は確かに荷物がでかい。汗かき対策で、着替えを沢山詰め込んだのもあるが、他の男子の倍くらいは持ってきているんじゃないだろうか。だから合宿2日目に変な噂を沈静化させるために話した、着替えを忘れたという話は、本当にデマなのだ。それに加えて…


「ラジカセや本を持ち込んでるのが大きいかもしれませんね、俺の場合」


「あ、ラジカセは重たいね。アタシはウォークマンだけど、ラジカセじゃないとダメなの?」


「はい…。ウォークマン、持ってないんですよ」


「なーんだ、そんなことか。いつか買えたらいいね」


「どうですかね〜、ウチの親、なかなかこういうのに理解がなくて」


「そうだよね、まだ自分でお金稼いでる訳じゃないから、頼み込むしかないもんね」


「このラジカセもやっとの思いで買ってもらえたんですよ」


 という俺のラジカセは、ダブルデッキで倍速ダビング可能、ラジオの電波もテレビの12chまでなら聴ける、個人的にはお気に入りの1台だ。

 このラジカセを買ったお陰で、ザ・ベストテンやザ・トップテンの曲を録音する際、テレビの前にわざわざラジカセを置かなくても良くなったし、家族の声が入ることもなくなった。


「そっかぁ~。お互い、親には頭が上がらないね」


 そう言って前田先輩は微笑んだ。


「先輩は、ご両親に何か頭が上がらないことがあるんです?」


「アタシ?アタシはね、進学先を自宅から通える所にするなら、免許のお金も新車も買ってやる、って言われてるんだ」


「免許!そうか、18歳から取れますもんね」


 俺は石橋先輩を思い出していた。そういえば高校を出てすぐに免許を取り、車を運転しておられるなあ。


「アタシも進学希望なんじゃけど、実はそんなにどうしても県外に出たい、とまでは思ってなかったから、逆に親が出してくれた条件が嬉しくてね。ちょっと駆け引きしちゃって、中古車を買ってやるってのを、新車にグレード上げちゃったんだよ」


 前田先輩は少し照れた風でそう言い、頭をかいていた。

 そこにいる前田先輩は、練習中のクールな前田先輩ではなく、1人の可愛い年上の女の子だった。


(こんな素敵な先輩を、希望した日に一緒に海に行けないからフルなんて、どんだけ我儘で勝手な男なんだ)


 俺は名前も姿も、見たことも聞いたこともないが、前田先輩の元カレとなる1つ年上の男子に、かなり怒りの感情が沸いてきた。


「前田先輩、俺とこんなに色々話すのも珍しいですよね。去年とかは練習の合間にちょっと喋ったりはしましたけど、この合宿で前田先輩と結構お話出来て、俺の知らない前田先輩が見えてきましたよ」


 前田先輩は少し考えてから話し始めた。


「そうね…。去年は上井君は1年生だったじゃろ?だから先輩として受け入れる責任感みたいなのも感じてたんよ」


「責任感、ですか?」


「そう。もしかしたら上井君が今年部長になって、一生懸命にやってることかもしれないけど、とにかくこんな部活嫌だから辞めます、って思わせないように、ってこと」


「確かに、俺はそれを一番大切な目標にしてます。明るく楽しく、放課後が楽しみな部活が、俺の勝手なスローガンです」


「やっぱりね。時々さ、上井君無理してるな?って思うことがあったから」


「えっ?そ、そうですか…?」


「分かっちゃうよ、そんなの。アタシが上井君に待ち伏せされて、テナーサックスに復帰した後しか知らないけどね」


「先輩、脱帽です。帽子被ってないけど」


「アハハッ、そのセンスよ。部長がそういうオヤジギャグを率先して言う辺りが、今年の吹奏楽部はムードがいいなって思う所なんだよね。でも、辛い時は無理しなくてもいいんだよ」


「…見抜かれてます?」


「うん。クラスマッチの頃とかさ、明らかに上井君は生徒会の仕事と掛け持ちで疲れ切ってたじゃない。部員の大半がクラスマッチのせいにして欠席しちゃって、他の役員も出てこなくて。出てきてる方が少なくても、怒らずに我慢して、トランプ大会にしちゃうとか」


「そんなこともありましたね…。もはや懐かしい範疇ですよ。まだ一ヵ月前ですけど」


「まだ老け込むのは早いよ。仮に須藤君が部長の時に、出てくる部員が少なかったら、多分彼は激怒して、せっかく出てきた部員に怒りちらして、福崎先生に悪意を込めて報告すると思うな。上井君はトランプ大会にしちゃったことは、福崎先生には言ったの?」


「いいえ!マルヒですよ」


「やっぱり。変な言い方だけど、部員側の立場に感覚が近いから、上井君は支持されてるんだと思うよ」


「いっ、いや…。ありがとうございます…」


 俺は猛烈に恥ずかしく、照れてしまった。だが…


「ほら、照れないの。だからオクテなんて言われるんでしょ?」


「なっ!なんで先輩までご存知なんですか?俺がオクテなのを」


「1年以上の付き合いがあるもん。分かっちゃうよ」


「……」


「伊東君みたいに…は行き過ぎじゃけど、もう少し女の子に対して積極的になっても、上井君なら大丈夫だと思うよ」


「うーん…」


「今、好きな子とかおらんの?」


「いや…、どうですかね、いると言えばいるし、いないと言えばいないし」


「ふーん。まあ大体予想は付くよ。アタシからは言わないけど」


「なっ!先輩、ズルいですよ~」


「フフッ、まあこんな話が出来るのは…上井君だから、かな」


「えっ…」


「アタシね、合宿初日に公衆電話で彼氏と別れたって言ったでしょ?」


「は、はい」


「でもね、直接会わずに別れるなんてスッキリしないと思ってね…。昨日の夜、夕飯の後にもう一度彼に電話したのよ。会って話をしたいって」


「マジですか!」


「マジよ。フフッ…」


「そしたら、何か話しされたんですよね?どうでしたか?やり直そうとか、言われましたか?」


「うーん…。本当はね、昨夜シャワー室の待合室で上井君に話すつもりだったんよ。でもなかなか来なかったでしょ?」


「あっ、はいっ、その、すいませんでした!女子バレー部の部長と長話したせいで…」


「ううん。今はもう上井君のことは、怒ってないから。でも上井君と昨夜はすれ違って正解だったかもしれない。彼氏…今や元カレだね、に対する怒りが充満してたから」


「怒りですか?えーっ、ということは、電話して余計に関係が悪化してしまった…」


「簡単に言うと…そうなるね。男子ってさ、好きな女子と付き合いたい時は、必死にあの手この手で口説き落としてくるのに…。自分の希望…互いの予定が合わないからって…なんであんなに…酷い言葉を…平気で……」


 前田先輩は昨夜の電話を思い出したのか、涙が溢れ始め、少し上を向いて必死に耐えていた。

 俺は右側に座っている前田先輩の左肩を、トントンと軽く叩いて、慰めの気持ちを伝えたつもりだ。


「…上井君、ごめんね。合宿終わりで疲れてるのに」


「いいえ、俺はやっぱり昨夜、先輩との待ちあわせ時間に間に合わなかった事や、行方不明騒ぎを起こした事が申し訳ありませんから…、気にしないで下さい」


「上井君…。ありがとう。優しいな、上井君は。ねっ、上井君?」


「はい?なんですか?」


「ちょっと目を瞑ってくれる?」


「は、はい…」


 俺は前田先輩が何を考えているのか分からないまま、涙声の前田先輩に言われるがまま、瞼を閉じた。


 しばらくすると前田先輩が立ち上がる気配を感じ、その後俺の両肩に前田先輩の手が置かれ、次の瞬間、前田先輩の唇が、震えながら俺の唇に触れた。


「えっ!」


 俺は驚いて閉じていた瞼を開き、すぐ真正面にいる前田先輩を見た。


 前田先輩の唇が、ほんの一瞬だけ俺の唇に触れ、直ぐに離れたところだった。


「せっ、先輩…、今のって?」


「ご、ごめんね…。アタシなんかのキス、迷惑だよね…」


「いやっ、とんでもないです!嬉しい…っていうか、驚いたというか…。でっ、でも今朝、俺が勢いで先輩にキスを迫っちゃった時、キスは付き合ってる男女じゃないとしちゃいけないよ、って前田先輩に言われたので…」


 俺は突然上がったドキドキと戸惑いが交錯した思いで、日本語になっているのかどうか分からないことを勢いで話していた。


 前田先輩も照れてしまい、俺の顔を正面から見れず、少し斜めに俯きながら、呟くように言った。


「今のキスはね…。ありがとうのキスよ」


「ありがとうの?キス…?」


「アタシ、上井君がいなかったら、合宿の初日に彼にフラレた時点で帰ってたと思うの。でもアタシを放課後にわざわざ待ち伏せてまで、コンクールに出て下さい!って頼んでくれた部長の上井君がいるから、上井君に迷惑掛けられないと思って合宿に留まったんだ」


「そ、そうなんですか…?」


「でも辛くて耐えきれずに、2日目の夕方、上井君に救いを求めちゃったけどね」


「そうでしたね…。でもそしたら、もっと酷い事を言われた昨日の夜なんて、レクリエーションどころじゃなかったんじゃないですか?」


「本当はね。でもだからといって、1人でレクを休んで部屋で寝てても、悲しさが増すばかりだから、レクには参加したんだよ」


「そうでしたか…。全然知らずに…。昨夜は呑気に女子バレー部の部長と話してて、気付いたらとんでもない大遅刻になっちゃって。前田先輩に、余計に男なんて信用出来ない、みたいな感情を持たせてしまったのではありませんか?」


「ううん、そんなことはないよ。さっきも言ったけど、むしろ昨夜、アタシと2人で会わなくて良かったって、今では思うもん。もし昨夜上井君に会ってたら、本当に取り乱した情けないアタシを見せちゃったかもしれないから…」


 前田先輩はそう言って、再度俺の横に座った。


「ビックリした…よね?」


「…そ、そりゃあ…。唇と唇のキスは、初めてでしたから…。まだ、なんか、脈拍が凄いです」


 俺は心拍数が凄すぎて、脈拍を今測ったら、とんでもない数値になると思った。


「上井君、初めての、キスだったの?」


「はっ、はい…。ほんの一瞬で、1秒もキスしてないですけど、唇と唇のキスは、親以外とは初めてです」


 自分でも変な事を言っていると思ったが、どのように今の思いを表現すれば良いのか、何せ恋愛にオクテなものだから、頭の中が混乱していた。


「せっ、先輩は、キスしたことは、ありますか?」


「え?あっ、アタシ?…う、うん…。ご、ゴメンね、あたしは初めてじゃなくて…」


「いやっ、先輩は経験されてるんなら、良かったです」


「え?どうして?」


 前田先輩は不思議な顔をして、俺を見た。


「だっ、だって、前田先輩の初めてのキスの相手が、俺じゃ、申し訳ないですから…」


 俺は自分でも分かるほど真っ赤な顔をしながら、そう告げた。


「上井君…。アタシこそ謝らなきゃ、いけないね」


「えっ?なんでですか?」


「上井君の…ファーストキスを、アタシなんかが奪っちゃったから…」


 前田先輩は少し下を向いて、そう返した。


「そんなこと、言わないで下さい」


「え?」


「確かに突然で驚きましたけど、俺は前田先輩にキスを許してもらえるようになったんだ、って」


「そっか、そんな風に受け止めてくれたんだね」


 前田先輩の表情が明るくなった。


「でっ、でもね…。上井君には悪いんだけど…」


「あ、言わないでも、分かりますから。大丈夫。俺は前田先輩の彼氏ってわけじゃないですよね…?」


「ごっ、ゴメンね…」


 前田先輩はせっかく明るくなった表情を再び申し訳なさそうにして、呟いた。


「大丈夫です。まあ格好つけてますけど…ハハッ」


 前田先輩は付き合ってる男女じゃないとキスは出来ないと、今朝断言している。

 だがさっきのキスは、どう考えても俺に対する告白というニュアンスは感じられなかった。

 西廿日高校一の美人と思っている前田先輩と一瞬でもキス出来たのに、それをどう解釈したら良いのか、混乱していた。


「上井君…」


「…あっ、はい?」


「あの、あのね、アタシは彼氏にフラレて、悔しくて情けなくて、でもね、上井君の存在が、アタシを助けてくれたの。これは本当なの。信じてくれる?」


「はい」


「でも上井君と恋人にはなれない…。上井君を急に彼氏として見ろっていっても、アタシはまだ…心の整理が…」


 泣きそうになりながら、前田先輩は必死に俺に対する気持ちを打ち明けていた。


「分かります。俺、酷い失恋の経験者ですよ?前田先輩より、その点では先輩ですから。フラれ方が酷いほど、忘れられないんです、元恋人や、好きで堪らなかった相手を」


「……」


「前田先輩もきっとそうだと思います。恋を忘れるためには、次の恋をしろとか言いますけど、難しいですよね、そんなの」


「……」


「だから、俺を好きになって下さい、なんてことは言いません。さっきのキスは、俺から言うのもアレですけど、先輩からの感謝状みたいなものだと思おうと思ってます」


 俺も必死になって、なんとか明るい雰囲気にしようと言葉を探した。


「…ありがとう、上井君。やっぱり優しいね、上井君って。勝手なことしてるアタシに、そんな言葉は勿体ないよ」


 前田先輩がそう言うと、穏やかな雰囲気になってきた。だが、結構長い時間、前田先輩を捕まえてしまったのではないだろうか。


「先輩、時間とか大丈夫ですか?俺、偉そうにあーだこーだ話してましたけど、時間も随分経ったかな、なんて思いまして…」


「え?あ、ホントね。木陰の位置がかなり変わってる」


 こんな表現をサッと出来るのが、やはり前田先輩は1つ年上の女性なんだな、ということを俺に思い知らせる。


「先輩、長々と話しちゃって、スイマセン」


「それはアタシが言うセリフだわ。1時間以上になるね…。そんなに捕まえちゃって、ゴメンね。そろそろ帰らないと、お互い親に疑われちゃうね」


「俺は大丈夫です。先輩は女の子だから、気を付けて帰って下さいね」


「分かったわ。じゃ、今日はこれで…」


 俺と前田先輩はほぼ同時に立ち上がり、目が合った後、照れながら自然と握手を交わした。


「じゃあね、上井君。バイバイ」


 前田先輩が笑顔で手を振ってくれる。俺はやはり年下だから、バイバイなんて言えない。


「先輩、失礼します。気を付けて帰って下さいね」


「うん、上井君もね」


 少しずつ互いの距離が離れ、最後に前田先輩が一度だけ大きめの声でバイバーイ!と言ってくれた。

 そして俺に背を向け、荷物と共に廿日市方面へと歩いていくのを、見届けた。


(なんか、凄い1時間だったな…。先輩との不思議なキスが、俺のファーストキスになるのかな…)


 自問自答しながら、俺も帰路についた。

 西日がギラギラと容赦なく照らしてくる。このまま悩みながら帰るとしよう…。明日の夜をどう切り抜けるか考えながら。


<次回へ続く>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る