第54話 -合宿最終日・前田先輩の涙-
「さて始まる前は、長いな~って皆さん思ってたんじゃないかと思いますが、3泊4日の合宿も、残り半日で終わろうとしています。どうでしたか?もっと泊まりたいですか?」
朝のラジオ体操の後、そう問い掛けたら、部員は苦笑いしていた。
「俺は、疲れたので帰りたいです」
体育館内の吹奏楽部員は、爆笑していた。大村とか、今朝、俺を探してくれた面々は、苦笑いしているように見えたが…。
部長が率先して帰りたいとか言うなよ~というような感じだったが、疲れたのは、事実だ。今日帰ったら、明日の朝まで起きないんじゃないか?と思う。
「さて冗談言ってる場合じゃなくて、最後の日程ですが、昨日も先生から重大発表があった通りで、午後の練習はナシになりました!その分、午前中の合奏は、しっかりと行ってください。イマイチな練習だと、午後も練習になりますよ〜。またご飯の準備は、朝はD班、昼はE班になります。昼食後、3年1組を元通りにしなくてはいけないので、E班以外の皆さんも出来れば協力して下さい。そして各部屋から布団をスロープの布団置き場に運んで、寝室に使った部屋も元通りにしてください。その後音楽室に集合して、閉会式を行って、解散となります。以上が今日の日程ですが、質問とかありますか?」
ハーイと、声が聞こえた。こんな場面では積極的に質問してくる神田だった。
「はい、神田さん、何ですか?」
「大体でいいんですけど、解散時間は何時頃になりますか?」
「そうじゃねぇ…。去年の例を思い出すと…2時と言っといて2時半じゃったけぇ、とりあえず2時半くらいかな?余裕を見て3時なら確実かな。何かあるん?」
「いや、お母さんに迎えに来てもらうのに、車は何時頃に着けばいいかって聞かれてたので…ありがとうございまーす、電話しときまーす」
「なるほどね。保護者の方がお迎えに来られるケースも多いと思うけど、もしこの後で電話連絡とるようであれば、2時半以降って言ってもらえると良いかと思います。よろしくお願いします。他に何かありますか?…なさそうですね。では、D班の皆さん、朝食の準備をお願いします。他の皆さんは一応7時半まで休憩して下さい。ちなみに俺は、昨夜入れなかったシャワーを浴びたいと思います。覗かないでね。特に赤城、若菜、神田の3人娘!」
えーっ、センパイの裸なんか興味ないモーンと、赤城が大きな声で反応してくれ、また爆笑が起きた。
福崎先生は一歩下がって、ニコニコしながら俺らのやり取りを見ていた。
「先生、特にないですか?」
俺は一応福崎先生へも確認したが、今日はとにかく合奏を全力でやること!と言われた。
「では7時半に、3年1組に集合して下さい。一旦カイサーン」
俺は予め持って来ておいた着替えを手に、そのまま体育館下のシャワー室へと向かった。
昨夜散々汗をかいたので、一刻も早くスッキリしたかった。
幸い朝なので誰もおらず、独り占め状態でシャワーを浴びることが出来た。
朝なのでちょっと冷たさが身に染みたが、昨夜からの心身共に汚れた状態が冷水と共に流されていく感覚は、たまらなかった。
改めて今朝、俺が発見された時のやり取りを考えると、恐らく前田先輩は、俺が昨夜約束の時間に来ないことに怒っておられたが、最後は俺が2年7組でダウンしていた様子を見て、許して下さったんだと思うし、野口も最初は9時過ぎに激しく言葉の応酬をした以上、11時半に階段に行けるわけない…という感情だったと思うが、前田先輩と同じく2年7組で燃え尽きていた俺を見て、水に流してくれたのではないだろうか。
(来年もこの冷水シャワー、浴びれるのかな…)
ふと俺はそう思った。3年生になると、吹奏楽部員は役職を2年生に譲り渡し、フリーな状態となる。早々に大学受験等に専念したい生徒は、春で引退しても良いし、演奏に出たいという生徒は最大で夏のコンクールまで出場可能である。
要は、各個人の選択に委ねられているのだ。
今のところ俺は、邪魔だと言われない限りはコンクールまで出たいと思っている。この先の人生で吹奏楽コンクールに出場する機会など、そうそう無いと思うからだ。
ただバリサク、打楽器共に1年と2年で埋まっている状態だったら、諦めなくてはいけないが…。
もし今年のコンクールが、高校生活最後のコンクールであれば、冷水シャワーも今浴びているシャワーが最後になるかもしれないし。
そう考えたら、何となく感傷的になってしまった。
とりあえず頭も洗ってスッキリし、衣服も着替え、ドライヤーで髪の毛を乾かして表に出ると、そこには1人の女性が立っていた。
「あれ、前田先輩?」
「うん。改めて、おはよ!上井君」
「改めまして、おはようございます…。どうされたんですか?」
「昨夜の失敗を取り返そうと思ってね。上井君、シャワーを浴びるって言ってたから、待合室で待ってたんだ」
「失敗ってそんな…、俺が悪いのに…」
「コラコラ。どっちが悪いとかは、もう言いっこなしでしょ?お・あ・い・こ・だよ」
前田先輩は顔を近付けて、俺の額にチョンと人差し指を当てた。そんな先輩の仕草が妙に可愛くて、照れてしまった。
「ど、どうします?そんなに時間はないけど、とりあえず待合所で座ります?」
「そうしよっか」
前田先輩は靴を脱いで、待合所へと入ってきた。俺も脱いだ衣服をバスタオルで包んだまま、待合所へ入った。
朝日を浴びる前田先輩の長い黒髪が、キラキラと輝いている。
(キレイだなぁ…)
「ん?アタシの顔に何か付いてる?」
「あっ、いえ…。センパイの仕草が、めっちゃ色っぽいもんで、見とれてました…」
「またぁ。その気になっちゃうよ、アタシ」
「えへへ、伊東に怒られますかね」
「伊東君は…本命が他校にいるじゃん。そのうえでアタシをどうのこうの言ってるんだから…。お調子者よ、彼は」
「おお、厳しい一言ですね」
「それに比べれば上井君は誠実だもん」
「そうですか?」
「アタシね、昨夜上井君がこの待合所にいたっていう証拠を、さっき別の女の子からも聞いたのよ」
「え?誰かに見られたっけな」
「クラの1年の神田さん。あの子が、昨夜遅くにシャワーを浴びに行ったら、待合所に上井センパイがいたんですよ、何してるんですか?って聞いたけど、何か思い詰めてて、答えてはくれませんでした…って、教えてくれたの」
「な、なんでまたそんな話が?」
「ほら、上井君が今からシャワーを浴びるけど、神田さんと赤城さんと若菜さんは覗くなとか言って笑わせてたじゃない?その時にね、神田さんがあれ?上井センパイは昨夜シャワー浴びてないの?浴びた後だと思ってた…って呟いたの。それで、何その話?って聞いたら、さっきのセリフを教えてくれたのよ」
「そう言えば後輩の女の子が何人かシャワーを浴びに出入りしてたのは知ってますけど、具体的に誰が出入りしてたのかは覚えてないんです。そうか、その中に神田がいたんだ…」
「だからね、上井君は時間こそ遅くなったけど、ちゃんと待合室にアタシに会いに来てくれたんだってことが分かったから…ホッとして嬉しくて、ね」
「いや、遅れたんだから本当に面目ないです…」
「だから、謝らないでいいの。アタシね、合宿に入ってから上井君と急に接近したような感じじゃない?」
「うーん、俺はそうは思わないですけど、周りはそう思うんですかね?」
「だって末田が、アタシと上井君がキスしたとかいって大騒ぎしてたしさ。まあ末田もね、上井君と似てるって言ったら悪いんじゃけど、あまり恋愛運に恵まれてないけぇ、そんな場面を見たら、頭の中がお祭りになるのかもしれないね」
「アレは…頬だけでしたもんね。公式的にはどこにもキスしてないことにしましたけど」
「フフッ、あの時はね」
そう呟いた前田先輩の表情は、かなり大人びた表情だった。そして意を決したかのように、こう呟いた。
「本当はね、アタシ…、失恋したのよ」
「本当は…。えっ!なんですか、それ。失恋?先輩が?誰に?いつ、どこで?」
「アハハ、一気に5W1Hで聞かないでよ。アタシだって好きな男の子くらい、いるのよ。いや、いたのよ、が正しいよね、今は」
「なんか先輩、物凄く最近の出来事のように話されてますけど…」
「最近だもん」
「えっ!」
「合宿の初日にフラれたの、アタシ」
「なっ、なんでですか…。そんなの、合宿に無理に参加して頂いたせいだったら、申し訳ないです」
「上井君は申し訳ないなんて思わないでいいのよ」
「でも、マジでなんでですか?」
「合宿の初日って、8月9日、日曜日だったじゃない?アタシね、実は…この前は誤魔化したけど、3年になってから同じクラスの男子と付き合ってたの。で、日曜日だし海に行こうって言われてたんだけど、アタシは吹奏楽部の合宿があるけぇ、合宿が終わってからにして、って言ってたんよ」
「ふむ…」
「でもね、何故か彼は強引で、9日の日曜日じゃなきゃ嫌だって強引にごねてね…。最後は俺を選ぶのか、吹奏楽部を選ぶのか、どっちだ!って、なんだか仕事とアタシどっちが大事なのよ、みたいな大喧嘩になってね。そんな喧嘩を仕掛けられてさ、大切な合宿を蹴って海に行くなんて選択肢、アタシには無かったわ」
「それで先輩は合宿に来て下さって…」
「その日の夜に、売店前の公衆電話から一応彼の家に電話したんじゃけど、不貞腐れててさ、もう別れよう、って一言だけ言われてオシマイ」
「そんな裏話があったんですか…。全然知らなくて…」
「その次の日だっけ。午後の練習が合奏に変わって、練習後にみんなが夕飯食べに、3年1組に向かって出て行った後も、上井君は熱心に何かを読み込んでてさ。アタシが声を掛けたの」
「あっ、2日目の夕方!」
「アタシ、素直に言うからね。その時のアタシは、上井君のピュアな気持ちに癒されたいって思ったんだ…」
「ま、マジですか?」
「本当よ。他の男の子じゃ、アタシの傷は癒されない。上井君なら、きっと受け止めてくれる…って、勝手だよね、女って」
「でも先輩、そういえば2日前の時、なんだか不安定でしたよね…。確か俺、彼氏がどうのこうのって話を前田先輩に振って、先輩はいないって言われましたけど、その前にちょっと悩んでから、いないって言われました…」
「覚えてた?結局あの時はまだ本当の事を言う決心がなくて誤魔化しちゃったんだけどね、なんてタイムリーなこと聞いてくるんだろうって思ったんだよ」
「まさか先輩がそんな、彼氏と別れた直後だなんて思わなくて…スイマセン」
「ううん、それよりあの時に、上井君の肩に突然頭を乗っけて、ビックリさせたよね」
「…はい、ビックリしました」
「アレが、アタシからのサインだったの。フラレたばかりのアタシの、ポッカリ空いた気持ちを、埋めてほしい…って」
「先輩…」
「夜のホッペへのキスもそうなの。でもアタシって悪い女でしょ。上井君をその気にさせるようなことしておいて…。でも恋愛感情はない、なんて」
俺はこんな大人のような恋愛の駆け引きは、サッパリ分からない。だが、今唯一出来るのは、前田先輩の心を少しでも温かくすることだった。
だから、前田先輩の肩を抱いた。
「あっ、上井君…」
「先輩もよく知ってる通りで、俺は恋愛経験が乏しいです。こんな時、気の利いた言葉もあまり持ってないです。でも、だからこそ、恋が終わった時の気持ちは、誰よりも分かります。心の隙間を埋めたいですよね。心を温めたいですよね。そのために俺が出来るのは、こんなことくらいが精一杯なんですけど、少しでも先輩の心に届けばと思って…」
俺は少しだけ、肩を抱く力を強くした。前田先輩は目を潤ませながら、俺の肩に2日前と同じように、頭を乗せてきた。
「ありがと、上井君…。しばらく、こうしててもいい?」
「はい。本当は先輩の気の済むまで…と言いたいんですが、朝ご飯の時間まで…」
「ウフフッ、そうだったね。朝ご飯はちゃんと食べなきゃ。あと何分くらいあるかな…」
「えーっと、今7時20分なので、10分ほど…」
「じゃ、その10分、アタシに貸して、上井君…」
「はい…」
俺は前田先輩の女性らしい香りを感じながら、肩を抱いて、同時に女性の体の柔らかさを実感していた。
前田先輩は、少しずつ涙を流しては、ハンカチで拭っていた。
肩に手を回すと、男にはない、ブラジャーの肩紐の存在が分かってしまう。
(そういえば昨夜は、白いブラだったよな。今は違うブラなのかな…って、今はそんなこと考えてる場合じゃないだろ…)
だが前田先輩が少しずつ上井側へと体を寄せて、ほぼ全身が密着した状態になると、前田先輩の髪の毛から香る臭いに、頭がポーッとなった。
俺の鼓動も早くなる。同時に前田先輩の心臓の音も聞こえるような気がした。これだけ密着してくれるなら…
俺は他の女子のことなど瞬間的に脳内から消えた状態で、前田先輩しか見えなくなっていた。
(キスしたい…)
俺は前田先輩の肩に回していた手を、頬にとずらした。
「え?上井君?」
「前田先輩、俺とキスして下さい」
「ちょっと、上井君、いきなりは…あっ」
俺は歯止めが効かなくなっていた。
<次回へ続く>
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