第29話 -合宿2日目・忘れ物-

「センパイ、今日は元気ですか?」


 音楽室に入ると、1年生の唯一の打楽器正式メンバー、宮田が声を掛けてきた。やっぱり昨日は相当元気が無かったのだろう。昼寝して寝坊までしたし。


「おう、宮田さん!昨日はちょっとバイオリズムが狂っててごめんね。今日は元気だよ」


 と答えたら、


「上井君、心配の種は消えたん?」


 同期の広田史子がそう話してきた。その心配の種という言葉に宮田が飛び付いてしまった。


「えっ、センパイ、何か昨日は心配なことがあったんですか?広田センパイに相談されるほど?」


 広田はアチャー…という感じで俺を見て、目で

(ゴメンね)

 と合図を送ってきた。


 まさか素直に、和解したとはいえ野田真由美に重箱の隅をつつくようなことを言われてテンションが下がってしまい、広田に悩む気持ちを聞いてもらった、等と今この場で言えるはずもない。


 さあ、どう切り抜けようか…。


「ああ、広田さんが言ったこと?あのね…合宿にどうしても必要なものを忘れてしもうたんよ。それに気付いてどうしよう…って悩んどったんじゃけど、こっそり家がここから徒歩2分の広田さんに助けてもらって、お陰でホッとしたんよ。じゃけぇ、心配の種は消えたよね、広田さん!」


「本当?なら良かったよ。ウチにある物で上井君の心配事が消えたんなら」


 俺と広田は目を合わせ、


(こんなんでいい?)


(ごめんね、芝居させちゃって)


 という心の会話をすることが出来た…と思う。

 これで一件落着、と思ったが、一つ年下だと好奇心が旺盛なようで、宮田は更に質問してきた。


「そんな、部長であるセンパイがしてしまう忘れ物って…。それを広田センパイに借りるなんて、一体、何を忘れたんです?練習中に落ち込んじゃうほどだから、けっこう大事なものですか?」


「えっ、それを聞く?」


 俄かに俺は暑くてかく汗とは違う汗が、背中を流れていた。


 助けを求めるように広田の目を見たら、広田も困って、顔に見たことのないような汗を浮かべていた。

 もう一度俺と広田は目を合わせ、


(何にしようか…?)


(もう全部広田さんに任せるよ)


 と合図を送ったつもりだ。広田はしばらく考えてから、こう言った。


「…あのね、上井君の名誉のために黙ってようと思ったんじゃけど…京子ちゃん、知りたい?」


 そう言いながら広田は脳内で時間稼ぎをして、何を忘れたことにしようかと考えていたように見えた。


「あっ、はい!ここまで聞いたら、最後まで知りたいです!」


「そう?いくら上井部長の忘れ物だからって、別に男子の忘れ物なんて聞かなくてもいいんじゃない?面白くないよ、きっと」


 広田が時間稼ぎしてくれているのが分かるだけに、上井は心の中で会話の無事な着地を願わずにいられなかった。


「そんなぁ。広田センパイもつれないなぁ」


 宮田も抵抗する。


「じゃね、絶対誰にも言わないでね。アタシと京子ちゃんと、上井君の3人だけの秘密にしてね」


「はっ、はい。分かりました」


 え?広田は俺が何を忘れたことに決めたのだろう?どのようにこの会話のラリーを着地させるつもりなのだろう。


「あのね…。上井君、パンツを忘れたの」


 なっ、なんだって?


 俺はパンツを忘れたことにされてしまった!


「そ、それは…悩みますよね、上井センパイも。3泊4日、こんな暑いのに同じパンツを穿き続ける訳にはいかないし、第一不潔だし…」


 宮田はちょっと顔を赤らめていた。


「じゃけぇね、アタシの弟のパンツを貸してあげたの。ね?面白くなかったでしょ?」


「はっ、はい…。でも一応、スッキリはしました…」


 広田と目を合わせると、


(これで勘弁して)


 という目をしていた。


 俺は明らかに困惑した表情を作り、


(パンツはちょっと…)


 と、目で訴えたのだが、もう広田と視線は合わなくなっていた。


 宮田が3人だけの秘密で誰にも言わないと約束したとはいえ、こんなネタとしては面白い話を、つい誰かに話してしまう可能性は大いにある。


 特に1年生女子だけでワイワイやってる時なんかが危ない気がする。

 実際は忘れ物なんかしてないし、パンツだって忘れるどころか、汗をかいた時用に、シャツと合わせて多めに持ってきたくらいだ。


 今日は昨日とは別の意味で頭を悩ませなくてはならなくなりそうだ…。


 唯一運が良かったのは、この会話の時、3年の先輩方がまだ音楽室に到着してなかったことだけだった。



 *****



 パート練習の休憩時、広田に手招きされ、俺は廊下に出た。


「上井君、ゴメン!このとおり!」


 広田は両手を合わせて、謝ってきた。勿論、俺の忘れ物をパンツにしてしまったことへの謝罪だろう。


「忘れ物の件でしょ?広田さん、何故にパンツにしてしもうたん?今は宮田さんも含めて3人だけの秘密扱いだけど、絶対に広まるよぉ」


「広まらないよ。京子ちゃんは約束を守る女の子だもん」


「いや、こんな面白いネタ…って自分で言うのも変じゃけど、宮田さんが黙ってる確信が、俺には持てないよ」


「そうかな…」


「だって部長がパンツ忘れるんだよ?こんな珍事、黙ってる方が無理だよ」


「…確かにそうかも。フフッ」


「広田さーん!」


 笑いたいのを必死で堪えている広田と、困惑している俺という構図になっている。


「でっ、でもさぁ、あれだけ京子ちゃんが追及してくる間、アタシだって必死に考えたんだよ。何を忘れたと言えば、上井君が昨日、尋常じゃない落ち込み方をするか…って」


「ま、まぁ、広田さんが時間稼いでくれとるんは、伝わってきたよ」


「じゃろ?一生懸命考えたんじゃけぇ。絶対に合宿で忘れちゃいけないもの。譜面は学校にずっと置いてるし、ティンパニのマレットってのも代わりが沢山あるから無理があるし。そしたら、あっ、着替えだ!しかも落ち込みが激しくなっちゃうほどって言ったら、下着しかない!って辿り着いたんよ」


「じ、じゃあ、シャツでも良かったんじゃ…」


「シャツじゃあ弱いもん。悩んで落ち込む程じゃないでしょう」


 一刀両断されてしまった。


「上井君がね、もし女の子だったら、流石にパンツを忘れたなんてことにはしないけど、上井君は男子じゃん。パンツにしたのは本当にゴメン!って気持ちじゃけど、ここは男らしく、ドーンと構えてよ」


「うーむ…」


「丁度休憩時間じゃん。自販機に行こうよ。何かジュースを奢っちゃげるけぇ、許してよ」


「うーむ…」


 と言いつつも、2人して購買前の自販機に向かった。


 丁度他のパートも休憩なのか、自販機付近には、クラリネットの1年生女子が数名いて、輪を作って談笑していた。

 そこへ格好のネタが現れたとばかりに…


「あっ、上井先輩、いつもと違うパンツの履き心地はどうですか?」


「!?」


 その輪に、宮田京子がいた。俺にそう聞いてきたのは、クラの中でも一番の元気印、神田恵だった。


(やっぱり広まるじゃん!)


 俺は広田の方を見た。

 すると片目を瞑って、目で


(ゴメン、ゴメン)


 と伝えてきた。


(痛いなぁ…。でもここは広田さんより、黙ってろって言ったのに喋っちゃった宮田さんに注意すべきか?)


「いや、その…。宮田さん!極秘事項じゃって言うたやん。なんで広まっとるん?」


「すいません、上井センパイ!秘密を喋っちゃったのはごめんなさい。だけど、だけど…。アタシの中で留めておくには、無理がありました。だって、面白いんですもん!」


 宮田は謝りつつもそう言って、クラリネットの女子と爆笑していた。


「頼むから、これ以上広めんといてよ。…実は、昨日は、本当はね…」


 こんなネタがこれ以上広がるのは、部長として耐えられない。本当は合宿の運営方法についての悩みだったと言おうとしたら、すかさず広田に口を塞がれてしまった。


「ゲホッ!な、何すんの、広田さん」


「今、盛り上がっちゃってるここで本当のことを言っても、効き目がないよ。アタシが燃料投下しておいて何を言ってるんだか、だけどさ。まず京子ちゃんが1人でおる時に、アタシが責任もって事態を収めるから」


「ホンマに?大丈夫かな…」


「まず京子ちゃんに、本当は昨日はね、って説明するわ。上井君は合宿の運営方法について色々指摘されて悩んでたのが事実だ、って。そして、パンツなんて忘れてない…はずだって、京子ちゃんから広めた子達に、ちゃんと説明させるから。一応確認するけど、上井君、パンツは忘れてないよね?」


「当たり前じゃん!俺、汗かきだから、余分に持ってきたくらいじゃけぇ」


 つい余計なことまで喋ってしまったが、俺はその提案を渋々受け入れ、奢ってもらったジュースを一気に飲み、広田の提案もあって盛り上がっている1年女子に気付かれぬよう、先に音楽室に戻った。


(広田案、上手くいくかな…。昼食時間に更に広まるんじゃないか?この変な噂は)


 結局今日も心配の種を抱えて過ごす1日になりそうだ…。


<次回へ続く>

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