第5話 -抜糸後-
「はい、上井です。あとこちらの女性は、姉ではなく…」
「姉の幸美です。弟がお世話になりまして…」
「ではお2人で中へどうぞ」
看護婦さんは俺と石橋さんを診察室へ案内した。
『石橋さん!姉の幸美って、なっ、なに?』
『いいから、いいから』
俺は石橋さんの真意を測りかねつつ、とりあえず2人で診察室へ入った。
そこには先週、俺の右足脹脛を4針縫ってくれた先生が座っていた。
「はい、こんにちは。上井君だね、どう?足の具合は。傷跡が痛むこととかあったかな?」
「いえ、痛いとかはなかったです。ちょっと歩きにくい程度でした」
「それなら良かった。お姉さんも家で見てて、大丈夫そうに見えたかな?」
先生は石橋さんに尋ねていた。内心ヒヤヒヤしながら石橋さんがどう応じるか見ていたら、
「はい、アタシが見てても、怪我してたっけ?と思う感じでした」
と、堂々と応じていた。
俺は石橋さんの真意が分からず、横顔を眺めていたが、表情からは何も読み取れなかった。
「じゃ上井君、傷を見せてくれるかな?」
先生の指示に従い、制服のズボンの裾を上げ、網式包帯で保護している怪我した個所を先生に見せる。
「もう血は完全に止まってるね。傷跡も綺麗に塞がってきてるし、抜糸しようか」
「はっ、はい。じゃ、反対側の部屋ですか?」
「いや、抜糸だけだから、ここでサッとやっちゃうよ」
先生はそう言うと、ピンセットのような医療器具を持ち出し、怪我の跡に縫った4針の部分に残る糸を、パチンパチンと切っていき、体内から糸を抜くように引っ張った。
ほぼ不意打ちに近かったので、思ったより痛かったが、石橋さんがいるのに痛い等と喚いては、男の沽券に関わる。
グッと痛みを堪え、4針縫った傷跡を軽く消毒してもらった。
「はい、終わったよ。あとは、化膿止めの薬を出しときますから、しばらく飲んでくださいね」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
俺と石橋さんは診察室を辞し、待合室へ戻った。
並んで座ってから、俺は石橋さんに何故姉だと名乗ったのかを聞いた。
「大した意味はないの。看護婦さんが、『お姉さんも中へ入りますか?』って聞いたでしょ?そこでアタシが、『アタシはこの子の姉じゃありません』って言ったら、じゃあどんな関係なんだ?って邪推されちゃうかも、って思ったからなんだ」
石橋さんはそう言うと、ちょっとだけはにかんだ。その表情は、とても年上とは思えない可愛さだった。
だがその一方で、そこまでは考え過ぎじゃないか?と思わなくもなかった。
でも石橋さんが診察室にまで付いて来てくれたのは、病院など不慣れな俺には、心強かった。
「石橋さん、先の先まで読んで下さってるんですね。不慣れな場なので、ちょっと嬉しかったです」
「えっ、ちょっとだけ?」
というと顔を少し赤くしながら、俺の脇腹を突いてきた。
「はい、ごめんなさい!すげぇ嬉しかったです!」
「よろしい!なんてね」
ニコニコしている石橋さんを見たら、本当に心がリラックスする。
その一方で白っぽいTシャツにベージュのタイトスカートという服装のため、つい透けて見えてしまう下着のラインが、どうしても俺の理性を崩そうとしてくる。
頭の中は煩悩と理性が戦っていた。
(女子ってブラジャーやパンツのラインが透けてるって、分ってるのかな?)
ブラジャーは上半身だから、否応なしに他の女性の背中も見掛けるだろうし、ブラジャーも透けているのは分かるだろう。
だから石橋さんにしても、ブラジャーが透けて見えるのは分かった上で、白っぽいTシャツを着ているはずだ。
体育の時も、体操服の背中にはブラジャーが透けて見えるのは半ば当たり前だし。
意外にブラジャーについては抵抗がないのかもしれないな…。
「上井君!」
「ひゃっ、はい?」
「どうしたの、変な声出して。受付の方が呼んでるよ。どうしたの?何かいけない想像でもしてたの?」
うわっ、石橋さんに俺の考えてる事が見透かされてたのかなぁ、ヤバいヤバい…。
「あうっ、い、いえ…。受付行って来ます〜」
「もう、上井君たら…フフッ」
受付で支払いを済ませている上井を見ながら、石橋は可愛い弟を見る気持ちになっていた。しかし…
(上井君って、面白いし可愛いな。この前、どう思うかって聞かれて、弟って答えたけど、その瞬間にガッカリした顔してたよね…)
石橋幸美の頭の中で、上井の存在が少しずつ大きくなっていくのが分かった。
(年下って恋愛対象外だったけど、上井君ならいいかも。なーんてね。上井君が断るよね)
上井が支払いを終え、戻ってきた。
「すいません、石橋さん。終わりました!」
「お疲れ様〜。もう病院には来なくても良いのかな?」
「はい。傷口がよっぽど変なことにならない限りは、もう来なくても良いそうです」
「そうなのね。じゃ石橋タクシーも今日で最後なんだね」
「えっ…。あ、そうか。なんかそう言われると、寂しいです」
「ごめんごめん、他意はないから。上井君、一旦お家に帰る?それとも高校まで行っちゃう?」
「あの…。もし石橋さんさえ良かったら、高校まで乗せて頂くと、メッチャ嬉しいです」
「アタシは大丈夫だよ。電話でも言った通り、夜まで暇だから」
「じゃあ、誠に勝手なお願いで恐縮なんですけど、俺を高校まで乗せて行ってやってもらえませんか?途中、コンビニで昼飯も買いたいので、どっか出入りしやすいコンビニにも寄って頂けたら助かります」
「うん。分かったよ〜。じゃ高校までドライブデートしようか!」
「で、デートっ?そっ、そんな、石橋さんとデートだなんて恐れ多い…」
「2人きりで移動するんだもん。デートだよ。そう当てはめれば、これまでも何度か上井君とデートしてる事になるけど…」
「石橋さん、あんまり俺を追い込まないで下さい〜」
俺は顔が火照って行くのが分かった。なんで今日の石橋さんは、こんなにアグレッシブなんだろう?
とりあえず石橋さんの車に乗り、高校へと向かってもらった。
「卒業式以来だから、久しぶりだな〜」
「そうなりますか?」
「うん。進路は短大の推薦で早目に決まってたから、卒業したら高校に来る用事もなかったしね」
「女子は短大って選択肢もあるから良いですね」
「うーん…。でもたった2年で何が分かるんだろうって、最近は思うんだよ」
「と言いますと?」
「1年生の秋には就職活動を始めないといけないから」
「そんなに早くからなんです?」
「そうなんだよ。ありがたいことにね、今は景気が良いらしくて、学生には就職しやすい売り手市場なんだって。だから選り好みさえしなきゃ、アタシでも何処かには就職出来るらしいんだけど…」
「だけど…?」
「もう青春時代って終わっちゃうのかな。そう考えるとね、上井君が羨ましいんだ」
「……」
車は国道2号線を海沿いに走っている。対岸には宮島が見えてきた。
「今、吹奏楽部で夏のコンクールに向けて頑張ってるでしょ?」
「あっ、はい」
「短大だとサークルとかも少なくてね。アタシは結局帰宅部なの。だから余計に寂しいのかもしれない」
「そうですか…」
「なんて、暗い話しちゃった、ごめんね」
「…でも石橋さんみたいに優しい女性なら、きっと素敵な彼氏が出来ますよ。なんで高校の時。彼氏がいなかったのか、不思議です。変な事件もあったとは思いますけど」
「そうね…。アタシも上井君と同じで、ちょっと恋愛に臆病になってるのかもしれないな。もちろん高校時代、素敵だなって思う男の子はいたよ。でもどうせアタシなんかが告白しても…って思ってしまってね。一歩踏み出す勇気が無かったの」
「そうなんですか…」
「だから上井君、今はまだ心の傷が癒えてないかもしれないけど、一歩踏み出す勇気ってのを、忘れないでね」
石橋さんはそう言うと、何故か俺とは反対側の海の方を見た。もしかしたら俺の事を気にしてくれつつ、もうこれで会うことが無いと思っているのかもしれない。
車は宮島口駅を過ぎ、国道2号線から左折して高校のある方へと向かった。
「あーっ、この長い登り坂、車だと楽だね!よくこんな道を3年間も毎日歩いて通ったな、アタシ」
石橋さんの一言一言が、胸に刺さる。
「石橋さん、なんか俺が言うのも変ですけど、これからも俺の素敵なお姉ちゃんでいてください」
「上井君…」
顔を俺の方へは向けなかったが、石橋さんの目から涙が一筋零れ落ちるのが見えた。
「はい、高校に着いたよ。部活、頑張ってね」
「あ、はい…」
俺は車から降りた。
「じゃあ、またね。バイバイ」
「あの、石橋さん!」
「ん?」
「あの、握手して下さい」
「えっ…?」
俺は運転席側へ回り込んで、戸惑っている石橋さんに右手を差し出した。
「今日はご無理言って、ご迷惑をお掛けしました。本当にありがとうございました。また…いつか…」
俺まで何故か感極まってしまった。
石橋さんがそんな俺の右手を握ってくれた。
「はい、こちらこその握手」
「石橋さん…」
「またね。また会う時も元気で会おうね」
「はい!石橋さんも元気でいて下さい」
そう言うと、石橋さんは軽くクラクションを鳴らし、車を出発させた。
その去りゆく車を、俺は見えなくなるまで見送っていた。
(さっ、頭を切り替えないと…部活頑張らなくちゃ)
音楽室に向かって歩き出すと、既に来ている部員が楽器を鳴らしている音が聴こえてくる。俺も早く追い付かないと…。
そんな俺の様子を離れた所から見ていた部員がいた。
「上井君、年上の女の人と…?」
<次回へ続く>
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