第21話 -増す若本の存在感-
打楽器に移籍して数日経過したが、朝練、昼練には打楽器のメンバーは基本的には出てこない。
30分程度の練習時間しかないので、打楽器格納庫から楽器を引っ張り出してるだけで時間が過ぎてしまうので、無駄と言えば無駄だからだ。
だが俺は少しでも早く打楽器の感覚に慣れようと思い、基礎打ちだけするために、朝練と昼練に出るようにした。
部長なのに全然出てこないと言われるのを避ける目的もあった。
今日も基礎打ち練習の為に朝練に出るため、宮島口駅から歩いていると、途中で後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。
「こんな途中で誰やねん」
と思って振り向くと、なんと若本だった。
「あれ、若本!え?宮島口の近くに家があったんだ?」
「はい、先輩。あ、先ずはおはようございます」
「ごめんごめん、おはよう。でも若本家が宮島口近くとは初めて知ったよ〜」
「はい。中学が大野ですからね。みんなに大野浦駅の近くだと思われるんてすけど、昔からこの辺りなんですよ」
「そうなんじゃね。じゃあもしかしたら去年から今まで、知らんうちにすれ違ってたりしたかもしれんね」
「そうですね。アタシが西高に入った後も、微妙に上井先輩とは登下校時間が違ってましたから、なかなか途中で会うことも無かったですけど、今朝は珍しく先輩の姿が見えたので…」
「そうだよね。朝は列車から降りて何分後、とか計算しなきゃ分からんだろうし。その列車も、毎朝同じとは限らんしね」
「ですよね。逆に朝の列車を決めておられる大村先輩と神戸先輩のお二人の姿はよく見掛けるんですが」
「あー、なるほど。まああの2人の空間には入れんけぇ、傍観するしかないけどね」
「やっぱりそうなんですね。1年女子の間では、大村先輩もモテてる方なんですけど、絶対神戸先輩と付き合っとるでしょ?と言ってたんです。やっぱりかぁ」
「その言い方だと、若本は大村のことが好きだったん?」
「いえ。アタシは…どう言えばいいですかね…。まず大村先輩のことは何とも思ってないです。その上で上井先輩は、副部長が恋人同士だなんてやりにくいだろうなと、同情してる、そんな感じです」
「なんか達観してるなぁ。実際、色々あったからやりにくかったけど、今は大村と話せるようになったから大丈夫だよ」
俺はごく普通にそう言ったのだが…
「先輩、実際に色々って、何があったんですか?」
(あ、余計な言い方しちゃったかな…。何ともないって言えば良かった…)
若本は一体何があったのだと、目を輝かせて俺が話し出すのを待っている。
「そんな大した話じゃないよ。聞いてもつまらないと思うよ?」
「いえ、先輩はさっき、3つのキラーフレーズを短いセリフの中に盛り込んでました!『実際色々あった』と『やりにくかった』と『今は大村先輩と話せるようになった』の3つです。思春期の女子高生に先輩から餌を撒いたようなものですよ!さ、アタシに白状して下さい!」
「若本には参ったな~」
と言っても、誰にでも話していることなので、若本にも中3時代に神戸と付き合い半年でフラれ、すぐ次の男に行かれたこと、その最終系が大村なこと、自分はその後何とか彼女が欲しいと思って、去年同じ中学出身の女子に告白したが玉砕し、それでもう恋愛は懲り懲りと思っていることを話した。
「…上井先輩…」
「ん?これが、色々の全貌だよ。ま、神戸さんに言わせたらまた違う見方をしてるかもしれんけどさ」
「アタシ、そんなに重い話だと思わず、気楽に聞いてしまいました。ごめんなさい」
「いや、謝る必要なんてないよ。今はなんとかなっとるし」
「でも…そういえば上井先輩は男女問わず誰とでもお話されてますけど、神戸先輩とは殆ど喋ってないですね。今気が付きました」
「いや、全然喋らないって訳ではないよ。必要があれば神戸さんとも話すし。まあまだスムーズではないけど」
「それと先輩がフラれてしまったというもう1人の女性の方も、もしかしたら吹奏楽部の先輩じゃないですか?」
「なっ、なんで?」
俺はいまだに会話が出来ない伊野沙織がその相手だと当てられたのではないかと思ったが…。
「上井先輩を見てると、先輩が話をしない方って殆どいないんですけど、2年生の女子の先輩の…誰だったっけな…なっ、名前が出てこない…とにかく、その方です」
「凄い洞察力やねぇ…」
実名が出てこなくてホッとしたが、恐らく伊野沙織のことを指しているのは間違いないだろう。
「でも若本って、俺みたいな男のことをよく観察しとるね」
「だって上井先輩は特別な先輩ですから」
「えっ?なんで俺ごときが特別なん?」
たったその一言だけで俺は照れてしまい、顔が赤くなったのだが、夏の太陽のお陰で若本には悟られなかった。
「去年の体育祭でアタシがバリサクをジロジロ見てても、何も注意みたいなことはされなかったですし、実際に入学、入部してからも、サックスの練習では楽しくお話とかして下さいましたし。実際は今打楽器へ移らなきゃいけなかったり、副部長に元カノがいるとか、結構精神的に辛いはずなのに、みんなの前ではとても明るいじゃないですか。凄い先輩だなって尊敬してるんですよ」
「俺ごとき、尊敬されるような人間じゃないって。俺なんかを尊敬してたら、全世界の人をみんな尊敬しなきゃいけなくなるよ」
「いえ、やっぱり尊敬します。バリサクをアタシに譲って下さって、毎日基礎打ちしている先輩の姿を見ると、アタシはしっかりとコンクールの曲を吹けるようにならなくちゃいけないって思いますから」
「いや、ホントに俺なんて大した人間じゃないけぇ、そんなに持ち上げなくてええんよ。マジで。何も出てこないよ」
「フフッ。でもこんな優しい先輩をフルなんて、神戸先輩ともう1人の女の先輩は損してますよね」
「いや、損はしてないんじゃない?」
「なんで先輩はフラれた側なのに、フッた相手に対してまで優しいんですか」
「神戸さんは大村という、もうこのまま結婚まで行くんじゃないか?って彼氏と付き合っとるし、もう1人の女の子も、ノビノビしとるし」
「もう先輩ってば、優しすぎです。今は好きな女性とか、おられないんですか?」
「さっきも言ったとおり、もうね、好きな女の子は作らないことにしたんだ。告白しても玉砕するだけじゃけぇ。万が一、奇跡的に、俺のことを好きになってくれるようなボランティア精神溢れた女の子が現れたら、その時は是非…」
「なんでそんなに卑屈なんですか。先輩、何歳ですか?まだこれからじゃないですか。アタシもまだ吹奏楽部の同期全員と仲良く話せてるわけじゃないですけど、もしかしたら先輩のことが…って1年がいるかもしれませんよ?」
「億が一そんな女の子がいたら、教えてよ」
「万から億に単位が変わってるし…」
「兆が一でもいいかもしれん…」
「とにかく上井先輩って、優しくて明るいんですから、モテないはずないと思うんです、アタシは。きっと先輩のことを好きな女子がいますよ。そう信じて、今日も一日頑張りましょう!」
「そうじゃね…」
最後は後輩に説教されつつ高校に着いた。だがこれまでサックスの練習時に、何度か若本に対してこの子なら…という電気が体に走ったことがあるのは事実だった。
なので、しいて言えば今好きなのは若本と言えるかもしれない。
だが同じ吹奏楽部内に、2人も俺をフッた相手がいるのに、更に3人目を作ってしまう可能性があるようなことは、出来なかった。
(好きだとか付き合うとか、そんなことで悩める日はやって来るのかな…)
俺は朝練のために打楽器格納庫から基礎打ち用のスタンドとスティックを持ち出し、メトロノームに合わせて叩きながら、そう思った。
朝練を終えてクラスに向かうと、田川が俺が来るのを待ってたと言わんばかりに、話し掛けてきた。
「おはよっ、上井君。今日の放課後、ほんの少しでいいから、生徒会室に寄れる?」
「おはよう、田川さん。うん、寄れるよ。本来なら明後日からクラスマッチじゃけぇ、生徒会室に缶詰めにならんにゃいけんのに、悪いね」
「だって吹奏楽部が危ないんでしょ?そんな時のために各競技に4人の担当がおるんじゃもん、上井君は静間先輩のところだよね?今のところ準備は順調そうだよ。安心して本番だけ頑張ればええんじゃないかな」
「そうなんだ。でも今日の放課後は何か特別なことがあるん?会議とか…」
「生徒会というより、近藤ちゃんに伝言を頼まれたんよ。部活絡みの話じゃないかな?」
「部活絡み?なんじゃろ…。ま、今日は放課後最初に生徒会室に行くようにするよ。教えてくれてありがとね」
「いえいえ。お互い忙しいもんね。同じクラスなんじゃけぇ、これからも協力し合っていこうね」
「もちろん。よろしくですよ〜」
しかし生徒会室に来いとわざわざ伝言を託すほど、近藤妙子は何か案件を抱えているのだろうか?キツネに摘ままれたような気持ちでその日1日を過ごすことになってしまった。
<次回へ続く>
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