第35話 -何でだ…-

 俺は伊野さんの口から発せられる言葉を、固唾をのんで待っていた。だが次第に伊野さんの表情は曇って行き、そして…


「…上井君は優しくて、ユーモアがあって、大切なお友達。だけど、アタシは恋人になるわけにはいかない…。なれないよアタシは…。神戸さんの傷を埋められる訳ないもん…」


 伊野さんはそう言って、泣き出しそうになったので、


「ご、ごめん。泣かないで、伊野さん。伊野さんは何も悪くないけぇ。勝手に伊野さんのことを恋人にしたいって思った俺がダメなんじゃけぇ…」


「アタシこそ、ごめんね。上井君は色んな大変な目に遭ってるのに、いつもユーモア満載で、みんなの為に頑張ってるじゃない?アタシはそんな上井君を尊敬してたの。だから、逆に彼氏になるなんて思えないというかね、アタシが上井君のものになっちゃいけないんだ」


「いやっ、何もそっ、そんなことは、ないよ?」


「ううん、アタシ、前に言ったことあるよね。恋愛したことがないから、男の子を好きになる感覚が分からないって。もしかしたらこの先分かってくるかもしれないんだけど…」


「…でも、今は考えられない?」


 伊野さんはコクンと頷いた。


 どうやら翻意は難しそうだ。俺の片思いは、繋がらないまま閉じようとしている。


「ごめん、伊野さん。大切な楽器片付けの時間なのに。俺、伊野さんとたまに2人で話せた時とか、物凄い嬉しかったんだ。それがいつしか俺の片思いになって…。伊野さんのことを考えてる時は、昔の嫌なことも忘れられたんだ。伊野さんと一緒にナタリー行きたいな、とか、錦帯橋行きたいな、とか考えてた。でももう、伊野さんに心理的な負担になっちゃうから、俺のことは忘れてね。単なる部員同士、友達に戻ろう」


「上井君、ゴメンね…」


「じゃ、伊野さん、ありがとう」


 とだけ俺は言って、すぐ振り向いて、控室に戻った。

 堪えていた涙が溢れそうだったからだ。

 だから最後の伊野さんの表情は、見ていない。見られなかった。


 控室に戻ると、写真がどうのこうのとか、本番の演奏が失敗だったとかで、話が盛り上がっていたが、俺は泣き顔を悟られないように、バリサクのケースを見付けて隅っこに運び、カッターシャツの袖で涙を拭いながら、バリサクを解体し始めた。


 誰にも気付かれてないと思っていたが、俺の異変に気付いた同期生がいた。そして俺の傍に来てくれると、肩を何回か叩きながら、


「上井…お疲れさん」


 とだけ言ってくれた。山中だった。

 その山中の気遣いに、俺は再び涙が溢れてきて、ちゃんとした返事が言えない状態になっていた。


「お前がなかなか控室に来んかったけぇ、出場者用のプログラムと入場券と、肩に刺す出演者用のリボン目印、もらっといたよ。まあもらったのは沖村先輩で、俺が代わりに預かりますっていったのが正解じゃけどな」


「山中、ありがとな…」


「お前、まだしっかり喋れないな、涙声になっとる。ちょっと気分転換に行こうや」


 バリサクを片付け終わると、隅っこだと思っていた場所にも別のドアがあり、内側から鍵が掛かっているだけだった。


「こっから出ようや。あ、楽器はトラックに積めって言われたけぇ、バリサク、運んどけよ。お前が無理なら俺が運んでやるけど」


「だ、大丈夫だよ、これくらい…」


 俺はよろめきながらバリトンサックスのケースを持って立ち上がり、山中が開けてくれた別のドアから外へ出て、トラックにバリトンサックスを積んだ。


「よし、これで安心じゃの」


「悪いな、山中。太田さんと一緒に俺らの後の高校の演奏、見る予定なんじゃないんか?」


「お前はまだ分かっとらんのぉ。俺と太田は、部活の時はあえて距離を置いとるんよ。大村とは違って」


「そうだったな…」


 そう言って正面入り口から会場内へ入ろうとしたら、逆に中から観覧客がどっと出てきた。

 受付の女性に聞いたら、今からちょっと早い昼休憩だそうだ。


「ウチらの高校も自由行動時間じゃけぇ、弁当でも食うか?」


「うーん…。今はちょっと食欲が無いな…」


「そっか。じゃ、俺だけ食うけど、許してくれや」


「ああ、そりゃもちろん」


 俺は山中と会場内のフラットソファーに座り、山中は弁当を広げ、食べ始めた。


「あっ…。弁当はもしかしたら太田さん手作りか?」


「バレたか。ありがたいよな、ただでさえ遠いのに、早起きして俺に弁当作ってくれるんだから」


 ご飯の部分には刻み海苔で『コンクールおつかれさま』と書かれていた。

 おかずもソーセージにリンゴ、プチトマトと、結構沢山詰め込まれていた。


「ええのぉ…。彼女がおるって」


「あ、今の上井には辛かったか、ごめんな」


「ええんよ。俺はやっぱり女の子を好きになったりしちゃいけないんだ」


「ん?やっぱり…って、なんや?」


「…なんとかさ、中3の終わり際に俺のことをフッた神戸っていう女子に負けてたまるかと思ってさ、無理やり恋愛恐怖症を克服したつもりでおったんじゃけど…。まだ治ってなかったよ、心も傷口も」


しばらくの沈黙ののち、山中が言った。


「…上井は、前も言ったかもしれんけど、神戸さんにフラれただけなら、まだ良かったんだよな。まだ良かったっていう言い方も悪いけど。前に聞いたけど、そのフラれた直後に神戸さんが同じクラスの別の男子と付き合ったり、そうかと思えばお前が吹奏楽部に誘った大村と今度は付き合いだしたり…。今もさ、本当は同じ高校ってだけで辛いと思うぞ。俺なら耐えられん。それを同じ部活な上に同じクラスなんじゃけぇ、お前はよく耐えてるよ」


「ありがとな。じゃけど俺はこれからどう生きていけばええんか、もう分からん。一つ決定的になったのは、恋愛恐怖症再発じゃ」


「お前の恋愛恐怖症って、どんな症状を言うんよ?」


「可愛い女の子とか、奇麗な女の子とか、この先俺の目の前に現れても、『どうせ自分なんか…』って気持ちが先に立っちゃうこと、かな。今さ、この夏ずーっと親しくさせてもらったつもりだった伊野さんに、彼女にはなれないってハッキリ言われたら、この先の人生も女の子とどれだけ仲良くなっても、告白したらどうせ玉砕するんだろうなって気持ちになっちゃうんだ。俺は神戸千賀子に付けられた傷が治らないまま、新しい傷が出来ちゃったんだ。伊野さんが治してくれると思っとったけど、治してくれたのは指の怪我だけで、心の傷は治るどころか、新しい傷が増えちゃったよ」


「…上井、そう自分のことを責めるのは止めとけや。お前は頑張ったんじゃけぇ。ただ、悲劇のヒーローになりたいんやったら、自分の心の中だけにしとけや」


「ああ…。部活の中では、ちゃんとするよ。今まで通りに。伊野さんは俺をフッて、別の男にいくようなタイプじゃないと信じとるけぇ…」


「そうだろうな。あ、昼の部が始まるみたいじゃ。中、入るか?」


「…そうするか」


 俺は山中と会場内に入った。

 この休憩後は、高校A部門が終わるまで休憩はないとのことだった。

 徐々に他の高校の生徒も入ってくる。

 俺と山中がいるのを見つけて、村山、大上、伊東が同じ列に座ってきた。大村は神戸と一緒に何処か他の所にいるんだろう。


「うーん、この位置からじゃと、ちょっと難しいかもしれんのぉ」


「伊東、何を言いよるん?」


「女子のスカートの中が見えそうで見えないなと思ってさ」


「ププッ、まさかそんなセリフが出るとは思わんかった、さすが伊東だな!」


 大上がそう言い、男子5人で笑い合った。俺も…数時間ぶりに笑えたと思う。


 @@@@@@@@@@@@@@@@


「それでは高校A部門の審査結果を発表します。金賞、銀賞、銅賞を、出場順に発表します。ただ『きんしょう』と『ぎんしょう』は聞き分けにくいので、金賞の場合はアタマにゴールドを付けて、発表いたします。各校の部長さん、いらっしゃいますね?では始めます」


 どう見ても偉そうな顔のオジサンがそう挨拶して、高校A部門の結果発表に移った。


 場内は溢れんばかりの各校吹奏楽部員が集結していた。ものすごい熱気だ。席を確保できなかった高校生もいた。後半の部の出場となると、席を探すのも大変だろうな…。


 舞台上には、ウチの須藤部長もいる。3番目に発表されるので、客席から見ていても緊張しているのが分かる。


 1番目の高校は銀賞、2番目の高校は銅賞だった。


「俺らの前の高校、銅だってよ。結構上手いと思ったけどな…」


 山中が誰に聞いてもらうでもなく、ポツリと話した。


「続いてエントリーナンバー3番、西廿日高校」


 緊張の一瞬だった。


「銀賞」


「やっぱりかぁ…」


 場内からは散漫的な拍手が起き、須藤部長は銀賞の賞状と盾をもらい、一旦舞台上の指定位置に戻った。


 その後も表彰式は続き、金賞の高校は偉いオジサンが最初の「ゴー…」といった瞬間に、生徒がキャーッ!と黄色い声を上げていた。


(今日は伊野さんにフラれて、コンクールも銀賞で…。この夏休み、俺は何を残せたんだっ…)


 悔しかった。銀賞で胸を撫で下ろしている2年の先輩方には、申し訳ないが無性に腹が立った。


(何をやっても上手くいかない、こんなんじゃダメだ。来年のコンクールは絶対にゴールド金賞を取るんだ、絶対!恋愛運なんてもう見放されたんだ、女なんてもうごめんだ、その分俺は吹奏楽に燃えてやる!)



<次回へ続く>

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